雨が降るまえに
その日は朝から曇り空だった。
鉛色にたなびく雨雲がサムザの民の頭上を覆っている。
低く、そして重たく。
生きとし生けるものすべてに等しく伸し掛かり、物言わぬ支配者のように天にある。
ただでさえ気持ちの晴れないそんな日だ。
すべてを投げ出して、逃げたくなることだってある。
「ふぎゃああああっ」
「ちょ、さ、サラどのぉおおお! ひとりでの子守りは辛すぎ――サラどのぉおおお……」
自慢の毛並みを逆立たせて、黒猫のサラはメイルゥ商会から飛び出していった。
あわれ人狼卿の叫びも虚しく響き渡り、ただ子供たちのはしゃぐ声だけが無邪気に曇天の空を突き上げている。
サラは一目散に坂道を下り、風俗街をあとにする。
途中で十歳くらいの少年の手を引いたブラックとすれ違ったが足を止めることもなく、そのまま雑踏のなかへとまぎれていった。
湿り気を帯びた雨風が敏感なヒゲにまとわりつく。
託児所の子供たちにもみくちゃにされた漆黒の身体も、どこかで早く毛づくろいしたかった。
お菓子の甘い香りと、おむつの匂い。
よだれでベトベトになった自分に苛立ちがつのる。
心地の良いひなたも今日は期待できない。
仕方なく、町中を流れる用水路のそばでひとまず落ち着くことにした。
最初に背を舐め、つぎに脚をあげておしりや腹を舐める。
身体中についた人間の匂いが、徐々に自分の匂いになっていくのは気分がいい。
じょりじょり、ぺろぺろ。
毛とともに逆立っていた心の波も、いつしか穏やかになっていった。
気づけば近所の野良たちも集まって、いつの間にかあたりは公衆ペロペロ浴場と化す。
じょりじょり、ぺろぺろ。
じょりじょり、ぺろぺろ。
ひとしきり身支度を済ませたサラは、野良の集団から離れていった。
用水路をさかのぼり、雨降りまえの散歩としゃれこむ。
自然と足が向いたのは、なぜだかあの場所だった。嫌な記憶しかないはずの――。
サラがたどり着いたのは、工場地帯にある倉庫街だった。
そこはかつてハンソン一家が根城として不法占拠していた場所である。
あの日、サラは一度、その短い生涯を終えた。
痛みさえ感じないうちに意識が遠のき、最後に見たメイルゥの顔だけが心残りだったのだが。いまもこうして生きている。二本だった脚が四本になったこと以外、変わることなく。
ふと用水路のほうへと視線を移すと、そこにはひとりの少年が乗った小舟が浮いていた。
よく日に焼けた肌。
薄汚れた服を身にまとい、せっせと何かの作業をしている。
その様子を見たサラは、テテテと足早に倉庫の影へと隠れた。そして――つぎに出て来たときには、黒髪の少女の姿になっていた。
ひよこ色のエプロンドレスに袖を通し、首からさげた精霊石のペンダントは強く輝いている。
サラは用水路のそばまで来ると、足元にあった小石を拾ってそれを投げた。
小石は少年の乗った小舟の近くに、ぽちゃんと落ちる。作業の手を止めた少年は顔をあげ、そのままサラのほうへと向いた。
するとサラは、彼に向かって笑顔で手を振った。
最初は不審がっていた少年だが、しばらくすると表情を明るくして手を振り返してくれた。さらには小舟を用水路の岸へとつけて「おーい」とサラを手招きする。
気を良くしたサラはスカートのすそをたくし上げて、勢いよく土手をくだって行った。
「わ、ちょ、おい!」
少女は急に止まれない。
土手を駆けくだる勢いそのままに、サラは少年の待つ小舟へとダイブした。
「……いてて。おまえ無茶すんなぁ。落っこちたらどうする――」
小舟のへりに身体を預けた少年が、自身に覆いかぶさるサラの顔を見て言葉を詰まらせる。ほんのり紅く染まる頬に丸いおでこ。触れているすべてが柔らかい。
少年は慌てて、彼女から身を離すと「あはは」と乾いた笑いを挟んで息を呑む。
汗ばんだ手のひらを汚れたシャツで拭うと、すまし顔でサラに問うた。
「お、おまえあのときの子だよな? よかったな、元気になったんだ」
するとサラはこくこくと首を縦に振った。
笑顔は絶やさなかったが、言葉にはしない。
それを少年は不思議に思ったが、しばらく考えるにつれて「あっ」という声をあげた。
「口……きけないのか?」
サラがもう一度こくんとうなずくと、少年は「そっか」と一言だけ口にした。
お互いにまた笑顔を交わす。
それ以上の追求はふたりには必要なかった。
「それで……今日はどうしたんだ? あのときの姉ちゃんは一緒じゃないのか?」
少年があたりを見回すような素振りをすると、サラは右手にペンを、そして左手に何かを書くようなジェスチャーをして彼に伝えた。
「あ、ごめん……おれ、字が読めないんだ。学校行ってないから……」
気落ちする少年の姿に、サラは一瞬どんな顔をしたらいいのか分からなかった。
だがすぐにまた愛らしい笑顔を作って彼の肩をポンっと叩くと、両の手のひらをあわせて深々とお辞儀をしたのだった。
「お礼しにきたのか?」
こくこく。
言葉を使わずとも気持ちが通じ、サラは本当に嬉しそうにうなずいた。
「お礼しなきゃいけないのは、おれたちのほうだよ。あのときもらったお金で、うちの父ちゃん借金返せたって喜んでたんだぜ」
そうなの?
ただでさえ大きな目を、落っこちそうなくらいに大きく広げてサラは驚いた。
すると少年はまた「あはは」と笑って、船のうえで立ち上がる。
「おれたち他所から来たやつには、ここの連中はちょっと冷たいからさ。おまえの姉ちゃんのお陰で助かったよ。でもまだビンボーなのは一緒だからさ――雨が降るまえにこれやらないと」
そう言って少年は、船のうえに広げてある大きな網を手にした。
絡まっている部分を丁寧に解いて、本来あるべき形へと整形していく。
その作業をサラが不思議そうな顔で見ていると、「これか?」と少年は言った。
「これはな、ネズミを捕るワナなんだ。これを夜のうちに仕掛けておくと、朝捕まってんだ」
捕まえてどうするの?
身振り手振りで必死に伝えると、少年は「捕まえてどうするかって?」とまた見事にサラのジェスチャーを当ててくれる。
「もちろん食べるんだ――あ、ちょっと気持ち悪いって思ったろ?」
一瞬の間をあけてサラはブンブンと首を横に振った。
少年は「いいよ、怒ってない」と彼女が抱いたであろう気持ちを読み取り、先回りして代弁してくれる。
「仕方がないよ。おれたちには仕事がないんだ。肉は食べて、毛皮は売るんだ。父ちゃん言ってた。高級コートだって騙して売ってる悪い業者が買ってくれるって――よく分かんないけど」
サラはその話を聞きながら、用水路の川面を見た。
虹色に漂う油で、ギラついている。
近代化に伴いサムザ国内にも急激に増えた、工場から出る汚染された排水である。
身体にいいわけがない。
だがそれを伝える術がサラにはないし――伝えたところでどうしようもない。
「だから雨が降ってくるまえに仕掛けとかないと。そういやあの日も雨だったよな。倉庫のほうからあのハンソンの野郎の悲鳴が聞こえたと思ったら急にザーザー降ってきてさ」
それはメイルゥの怒りに天が呼応したかのようだった――。
燃え盛る炎。肉の焼ける強烈な臭気を背に、メイルゥは倉庫をあとにした。
ハンソン一家との決着は、同時に彼女の大切なものを奪った。
悪党の断末魔をかき消すように、突如として豪雨があたりに降り注ぐ。
メイルゥはローブにくるんだサラの躯を抱きかかえ、首からさげた精霊石のペンダントの導くままに歩みを進めた。
それは倉庫街に沿って流れる用水路。
川面には、突然の雨に難儀している大勢の水上生活者たちがいた。
そのなかに一組の父子が乗る船を見つけ、メイルゥはそのとき持ち合わせていたすべての金を彼らにやった。どうかこれで地下水道の奥まで連れていって欲しい――メイルゥがそう願うと、一家の父親と思しき男は狂喜乱舞して、船を漕ぎ始めた。
「お姉さん。その子、具合悪いの?」
乗り合わせていた少年が心配そうにしてメイルゥに問う。
彼女は、ふっと消えかけそうな笑顔を見せて、降りしきる雨のなか「大丈夫さ」と答えた。
用水路を遡上するように進んでいくと、やがて大きなトンネルへとたどり着く。まるで川の水を飲み干さんとしている悪魔の口のようだ。
それはサムザ国内の地下を流れる巨大な地下水道の入り口である。
メイルゥたちを乗せた船は、彼女の命ずるまま深い闇のなかへと飲み込まれていった。
船首に掲げた漁火だけが、赤々と燃えている。
サムザ公国は古くから先進諸国の技術を取り入れ、同時期の魔導王朝支配下にあった国々からすると、考えられないくらい衛生施設が充実していた。
そのひとつが下水処理の仕組みである。
他の国家が糞尿や家庭から出る汚水をそのまま道端に垂れ流していた頃、サムザでは地下に迷宮のように張り巡らせた水道を建設し、飲水や生活用水に使われる綺麗な上水道とに分けた。
これが後に、路面列車の路線を敷設する際のウォータースクープ(走行中の蒸気機関車が給水を受けるため線路の脇に掘られた水路)建造を容易にし都市の発展に大きく寄与したのである。
下水は地下水道を通り、河川へと流れ、やがて大海へと注がれる。
いまはまだ汚水そのままを放出しているが、近代化が進み、薬品や化学物質が多く混入した排水を自然へと丸投げすることに多くの問題が生じてくるだろう。
取り返しのつかない状況になるまえに、一日でもはやく処理方法の開発が望まれる。
メイルゥは川面でギラつく油を眺めながら、そんなことを思った。
したがって地下水道はひどく臭う。
慣れているはずの父子ですら、鼻を曲げる始末である。
奥へ行けば行くほどに、魚や肉が腐ったような強烈な臭気が一行を襲ってくる。
そして程なくして、船はその行き足を止めた。
「姉さん。悪いがここまでだ。こっから先に用事があるなら、歩きで行ってくんな。水路が狭くて船を入れられねえ」
父親が申し訳なさそうにしてそう言うと、メイルゥは静かに立ち上がり船を降りた。サラの躯をしっかりと抱いて、水路脇にあるメンテナンス用の通路へと歩み出る。
少年は「暗いと危ないよ」と、漁火の炎を移した小さな松明を彼女にくれた。
「ありがとよ」
メイルゥはそこでふたりに別れを告げた。
見る間に父子の乗った船は遠ざかって行ったが、見えなくなるまで少年はずっと手を振ってくれていた。
そして、ざわざわと排水の流れる音だけが周囲を包み込んだ。
程なくして小さな松明の火は消えそうになる。しかしメイルゥがそれを頭上に掲げると、火の粉が弾けて、地下水道の壁という壁を照らし始めた。
強烈な光が突如として生まれ、闇の中で安眠していたコウモリたちが一斉に逃げて行く。
メイルゥは杖を突きつつ、通路を進んでいった。
そして、胸に輝く精霊石がいっそう激しく光り輝いたのを確認すると、脚を止める。
たどり着いたのは地下水道の合流点だ。
八方から滝のように排水が流れ込んでくる、淀んだ水辺だった。あたりには泡立った汚水が溜まり、水面にはネズミや魚の死骸が浮いている。
だがメイルゥは、この場所から強いルツを感じていた。
水底は淡く緑色に光っている。
「……いるんだろう。出てきな」
メイルゥは誰もいないはずの地下でひとりごちる。
するとどこからともなく声がした。
「一別以来だの、サラマンダー」
メイルゥが視線を巡らすと「それ」はいた。
水面に浮かんだネズミの死骸のうえに腰掛ける、小さな小さな老人の姿。手には木槌、頭には三角帽子をかぶり、顔は表情が分からぬほどに髭で埋もれている。
わずか十五センチほどの体長だが、細部までしっかりと人のカタチを成していた。
メイルゥは「それ」を見つけ、ふんと鼻で笑う。
「いまはメイルゥってんだよ、コーレル」
するとコーレルと呼ばれた小さな老人は、どこから取り出したのかパイプに火をつける。
小さいながらも風格のある佇まいで紫煙をくゆらせ始めた。
「さにあらず。コーレルと呼ばれし個体は我ではない。ま、どうでもいいがの」
一匹見つければ一万匹はいる、と言われる大地の精霊グノーム。
かつてそのなかに「コーレル」と呼ばれる個体がいた。ひとに物創りの喜びを伝え、やがて職人たちから守護精霊と崇められるまでになった。また彼らの大きさはおよそ成人男性が手を伸ばしたときの人差し指から親指までの長さに相当する。
ゆえにその長さを「コーレル」と呼び、一昔前まで単位として使われていた。
誰もが知るおとぎ話である。
「で、用事はなんじゃ。よもやいまさら身体を返せとは言わんだろうな」
「返せったって全部、石ころになっちまったんだろ? 違うよ」
メイルゥは抱いていたサラの躯を足元へと静かに降ろした。
身を包んでいたローブをしたに敷いて、優しく寝かしつけるように。
物言わぬサラの身体は、青白い顔をしている。
ビリビリに引き裂かれたエプロンドレスは、真っ赤な血に染まっていた。
「この子を使い魔にする。猫になりたいそうだ。魂はまだこの中にある。間に合うだろ?」
メイルゥは首からさげた精霊石のペンダントを持ち上げて、ノームへと見せた。
老人は目元を覆う長い眉毛を手でのけて、それを確認すると、また深くパイプをくゆらせた。
「ほぅ。それで我の力を借りたいと」
「なんだよ。こういうの得意だろうが。それとも、やりたくないってのかい」
「いやいや。ついにお主も孤独に耐えられんようになったんかと思うての」
「どういう意味だい」
「あれから長い月日が経った。もっともあの頃は『時間』なんてものは存在せんかったが――我らはお互いを殺し合い、傷つき、別れ、永遠の孤独に苛まれた」
「古い話さ……」
「いつしか我は、己を分割することで寂しさを癒やす術を覚えた。シルフは野心ある者と共にあることで心を満たし、ウンディーネは人間の男に愛を求めた」
ノームは一旦、そこで言葉を切ると「サラマンダーよ」とため息をつくように煙を吐いた。
「お主は家族を求めたか。かつてその身をただの人間へとやつし、我らが盟約者ワイズマンのもとへ現れたときも驚いたものだが、小国の幼王を見初めたと聞いたときなぞは」
「余計なお世話だよ。つべこべ言わずに手ぇ貸しなっての。嫌ならほかのコーレルをあたるだけさね」
「慌てるでない。そうさな……だが、タダって訳にもいかんのう」
「チッ。この業突く張り! 条件はなんだい!」
「ホッホッホッ。吠えるでない。古来より身を変じる者の定めがあるじゃろう……」
「身を変じる者の定めって……あ」
ひとに恋をした人魚姫は、海の魔女に姿を変えて欲しいと願った。
魚の尾ひれを人間の足へと変じるために対価として、彼女が奪われたものは――。
「分かった。それでいい」
「よかろう。すでにその娘の身体は変貌しつつある。さあ魂を呼び戻すがいい――」
こうしてサラは生き返った。
黒猫の姿でも、人間の姿でも、その『声』はメイルゥ以外には届かない。
でも、こうして気持ちを伝えることは出来る。
彼のような優しい心の持ち主であれば――。
「よし! 準備出来た!」
少年が嬉しそうに声を張り上げた。
そしてサラは自分の胸元を見ると、ペンダントの輝きが弱くなっていることに気づいた。
時間だ――。
そう思った彼女は、そっと少年へと近づく。
「なあ、これから一緒にワナを仕掛けに……」
彼が振り向いた瞬間。
頬へ甘い口づけをした。
何も出来ない、お礼の言葉もあげられないから。
いまのサラが持ち得る、最大級の感謝の気持ちを小さな唇に込めて。
「な、お、おい、ちょっとっ」
サラはそのまま小舟のうえから、土手へと飛んだ。
まるで猫みたいな跳躍力に、少年は驚きを隠せないでいる。
サラは一度、少年の顔を見てニコッと笑った。
前歯の抜けた幼い笑顔に、少年もまた笑い返す。
またね――。
サラは手を振って、土手を一気に駆け上がる。
その姿はもう少年から見えなくなった。
雨の降り出す少しまえ。
小さな出会いの足音がした。
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