第2話 怪説・本能寺の変-発端
斎藤利三は、延暦寺の門前町、坂本寺に着いた。
明智光秀、溝尾茂朝、木崎新左衛門の生首を持参して。
織田軍の詰所で首実検がなされた。腐敗が酷く、判別はつかなかった。
「斎藤殿にお聞きしたい。何故、首が三つあり申すのか」
「主君は山崎の戦いで深傷を負い、自らの命を絶たれた。その際、主君の命により介錯をなされたのが溝尾殿と木崎殿でした。おふたりは忠義を貫き通され切腹なされた。哀れに思った私どもはせめて主君と同じく葬ろうとこのようなことに」
「首級の痛みが激しく思われるが、如何に」
「一旦は土に埋め生死を隠蔽しようと思いましたが、主君が夢枕に現れこうおっしゃった。この首級を織田家に差し出すが良い。明智光秀は死んだ。願わくば、明智に関わった者への穏便な配慮がなされるように、と。命乞いではありませぬ。光秀様は無益な殺生を嫌うお方で御座います。その意を汲み取り、恥を忍んでこの場に参った次第で御座います。とは言え、悩みは致しました。憔悴仕切っていた私どもは、不覚にも幾度となく、悪路に足を取られ、このような有様に・・・」
「うん、相分かった。まぁ、よいは。光秀の首級があることには変わりない。山崎の戦で深傷を負われたとのこと。ならば、秀吉殿手柄である。山岸殿、この旨、早馬にて秀吉殿に伝えられよ。今後の処置についてもな」
山岸は直様、秀吉のもとを訪れ、事の次第を解き、処置の支持を受けた。
秀吉からは、首実検を明智側の者にさせること。判明すれば持参した者に返し、葬らせること。明智の血を引く者は裁断定まるまで幽閉、その他の者は所払いでお咎めなしとすること。だった。山岸は、呆気にとられていた。主君の仇である光秀の生死に秀吉は関心を殆ど示さなかったからだ。
「やはり、そうでしたか」
「と、申されますと」
「大将の首級が手元にある。その首級を明智側の者に確認させる。それで大義面目は立ちましょう。秀吉殿の関心は、主君の仇を討った、その事実だけが欲しい。それより他には関心はあるまい。関心どころは、最早、信長様の意を引き継ぐ手立てでありましょう。それが秀吉と言うお人ですよ」
首級の判別はつかず、結局、甲冑が決め手となった。
間宮蔵三は、光秀の首級を首塚として葬った。溝尾、木崎の首級も傍に。
と、言うのが伝えられる大筋となっている。しかし、明智光秀は何故、謀反を起こしたのか?信長の亡骸はどこにあるのか?本能寺の変の前日、参加するはずだった徳川家康が不在だったこと。秀吉が信長の訃報を聞いて驚く速さで戻ってきたこと。そもそも手薄な茶会は何故に開かれたのか?勝者の都合で残された文献には、隠蔽、改竄された節が見受けられる。その真相の扉をこじ開けて行くことに致しましょう。
僧兵たちは、門前町坂本や下坂本に、たむろしていた。
そこには、僧侶の姿はなく、女人や色を漁り、魚や鳥を喰らう輩と化していた。
遊興費に困ると、糧米や灯油を横流し、法儀料、お布施などをくすめとる。権威を笠に着た賄賂の要求、それを資金に、あこぎな高利貸しを行う者もいた。その果ては、脅し、たかり、意に反する者には暴力と、ありとあらゆる悪事を貪っていた。
織田信長は、イエズス会の宣教師ルイス・フロイトらとの関わりと同じく、信仰に関心はなかった。あったのは、異国の物品、考え方など利用価値のある物だった。
信長は、重要な街道の拠点を狙っていた。そこは聖地だった。佛への信仰を冒涜することは、朝廷への印象を悪くする厄介、この上ないものだった。
僧兵の悪行は、信長の思いを実現する大義名分を歴史がくれたようなものだった。
信長は、僧兵たちの悪行の全てを調査させ、それに纏わる者たちの洗い出しを急がせた。調査結果は、見るも無残な荒廃した町の様子を浮き彫りにしていた。
僧兵と繋がり、甘い汁を啜る者、旅人を喰い物にする者、僧侶にあるまじき子を設け、その子が不良と化し、群れをなし、秩序など通る余地もない町になっていた。
「この町は腐りきっておるわ。このままでは、佛の道を後ろ盾に、民衆を隷属する。更に朝廷への賄賂による支配が、まかり通るは必定。捨て置けば、腐敗政治が天下を席巻するのは明白なり」 と、信長は激高し、現状を強く、危惧していた。
当時、将軍足利義昭と織田信長は、権力争いにおいて、険悪な関係だった。
義昭は、越前の朝倉、北近江の浅井に手を回し、石山本願寺と気脈を通じた。それに、比叡山延暦寺も呼応した。延暦寺のある坂本付近は、岐阜から京都へ向かう時の大きな合流点となっていた。諸国大名を黙らせ、朝廷を牛耳ろうとする信長にとってこの街道は、京都進行の大きな障害となっていた。比叡山は仏様の聖地と言うより、その権威を背景に、某邪気無人に振舞う僧侶たちの腐敗の巣窟と化していた。
比叡山は、院生・堂衆・学生・公人の四階層から成り立っていた。腐敗の中心は、最下層の僧兵(公人)だった。僧兵たちは、常に、比叡山の権力を笠に着ていた。
民衆の仏様への信仰で逆らえないのをいいことに、肩で風をきり、容赦ない山領の年貢の督促をしていた。有事には、頭部に白い布を巻き、黒衣を纏い、武器を手に、日吉大社の神輿を担ぎ、都大路を練り歩き、要求が通るまで、嫌がらせを繰り返していた。神仏への恐れや尊い心は、そこには見る影もなかった。
比叡山と信長の対立。それは、信長による比叡山領の横領に端を発していた。
天台座主が朝廷に働きかけ、寺領回復を図ったが、信長はそれに従わなかった。
元亀元年(1570)6月28日、姉川の戦いで、信長は、朝倉義景討伐に動いた。義景は浅井長政と強い同盟を結び対抗した。8月26日、野田城・福島城の戦いで信長は、背後を取られ、苦戦するも、何とか形勢を逆転させた。その結果、比叡山に立てこもり、攻防を繰り広げることとなった浅井長政・朝倉義景連合。何とか、正親町天皇の調停により、信長と和睦をしたものの、浅井長政・朝倉義景は、自らの連合に加え、甲賀の六角義賢、摂津・河内の三好三人衆と合流し、京都奪還を企てていた。
石山本願寺を率いる僧・本願寺顕如(本名:大谷光佐)は、信長のお膝元、尾張の門徒衆に号令を発し、信長打倒を図っていた。
これに業を煮やした信長は、元亀2年の正月の賀礼に訪れた細川藤孝らに向かって
「浅井、朝倉ども、いい気になりよって。あ奴ら、許さん。もう我慢も尽きたは。今年こそ、山門を滅ぼす」と、怒りをぶちまけた。
1月2日には、横山城の城主の木下秀吉に命じて、大坂から越前に通じる海路、陸路を封鎖させた。その目的は、石山本願寺と浅井・朝倉連合軍、六角義賢との連絡を遮断することにあった。信長の怒りは最高峰に達していた。
「不審な者は、殺害せよ」その命令は、信長の、固い決意と警戒心の現れだった。
5月には浅井軍は、一向一揆と組み、姉川に進行し、堀秀村を攻め立てたが、木下秀吉の援軍を受け、敗退。参加した長島一向一揆の村は、反逆の狼煙として、焼き放たれた。元亀2年6月12日、ついに信長は、全軍に攻撃の命を出した。
「絵巻、一字も残さず、雲霞の如く、焼き払え~」
山門の人々は、老若男女を問わず、右往左往、逃げ惑った。比叡山側の生臭坊主からは「金を払うから、許してくれ」と、言う始末。
僧兵は、浅井家・朝倉家に協力し、延暦寺を軍事拠点にして「我らに逆らうは、仏罰が下る」と脅し、民衆をも支配する貪欲さは、信長の驚異となっていた。
その行為は、信長の堪忍袋の緒を切るのに充分だった。
「遺恨一切残さず、哀れ、これ一切、無用なり」
信長の強い意思は家臣に浸透し、腐りきった山門一味として、僧俗、智者、児童、上人を問わず、片っ端に首を切っていった。
逃げ惑う者たちは、日吉大社の奥宮の八王子山に立て篭ったが、容赦なく、焼き払った。葬った数、千五百~四千人。これが世に言う、比叡山焼き討ちである。
その真偽は不明。根本中堂は自焼、山王二十一社などは既に衰退していた。また、死骸も木片も発掘されていない。比叡山が、火の海と化したなら、京都や琵琶湖周辺に赤々と立ち上る火柱や煙が確認できたはず。その記述はない。反信長の者が信長に汚名を浴びせるために、書き足したものであると、考える方が妥当かと思われる。
天皇を凌ぐ権力を振りかざし、傍若無人の振る舞い。仏法を説くことを忘れ、色事、金、欲にうつつを抜かす教団に、天に代わって信長が鉄槌を下した。宗教的束縛から日本を解放。宗教依存の無力化を形成させたとも、言えなくもない。
信長は、戦いの処理を明智光秀に任せた。延暦寺や日吉大社は消滅し、寺領、社領は、明智光秀・佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀に配分された。
光秀はこの領地に、坂本城を築城した。
焼き討ち直前に、光秀は、地元国人、和田秀純などを取り組み、織田軍の湖東進路を確保するなど、懐柔工作をしていた。
比叡山は、仏法の禁に綻びがあった。生臭坊主によって女人禁制は破られていた。
時同じくして、足利義満は、武田信玄の病死により、後ろ盾をなくしていた。
室町幕府は、義満が京都を追われたことにより終焉を迎えた。
足利義満と言う後ろ盾を失くした天皇は、新たな後ろ盾とし、織田信長を選んだ。最大の権力を得た信長は、独裁的な強大さを露呈し始めた。
中国地方の毛利氏、越後の上杉氏を攻め、平定へと向かわせた。その頃には敵となるのは、四国の長宗我部元親のみとなっていた。その長宗我部元親に信長は、四国領有を容認し、平定を得た。この約束事の有無が、本能寺の変勃発の一旦となる。
長宗我部元親と斎藤利三は親戚関係にあり、利三は、光秀の信頼する家臣だった。
独裁者信長は、長宗我部元親への四国領有の容認を反故にし、四国征伐を決意。
驚愕した光秀は、直様、信長と斎藤歳三を通して、長宗我部元親との関係修復に乗り出した。長宗我部元親は、信長に歩み寄る書簡を斎藤利三に託した。その思いは信長には、通じなかった。天下人の道を歩む信長は、疑心暗鬼に飲み込まれていた。
光秀は、無用な戦を好む男ではなかった。信長は、自分を脅かしそうな勢力を被害妄想よろしく敵対視する思いを抑えきれないでいた。
その筆頭に、松平元康こと徳川家康いた。三河国を束ね、勢力をつけてきていた。
松平元康は幼少時、今川家と織田家を、人質として、行ったり来たりしていた。
幼少時14歳くらいの信長、12歳の秀吉と遊んだ過去があった。
今川義元が、京を目指していた時、桶狭間で、信長の急襲に合い戦死。今川の一部隊だった松平元康は、岡崎城に帰還。今川から独立し、清洲で織田信長と清洲同盟を結んだ。その頃、名を松平元康から徳川家康と改めた。
血気盛んに信長に敵対する武田信玄に挑むが大敗。それを恥じて、絵にした程だった。しかし、この果断に挑んだ戦いは、信長や諸大名の好感を得ることになる。その後も、援軍を出すなど、家康は、信長との関係を着実に深めていった。
家康にとって信長、秀吉は兄者のような存在だった。しかし、信長は勢力を付ける家康を脅威に感じ始めていた。信長の興味は家康一点に注がれ、長宗我部元親は過去の存在となっていた。明智光秀は焦っていた。約束を約束と思わない信長に憔悴仕切っていた。光秀には優秀な探偵がいた。探偵とは俗に言う忍者のことだ。忍者は情報の収集や操作を営みとしていた。探偵の武器は戦うものではなく、危険回避のものだった。忍法や軽業師のような印象は、大衆演芸や書籍による影響が大きい。その探偵から近い内に、家康の暗殺、長宗我部元親に対する四国征伐が実行される報告が上がってきていた。戦に前向きな秀吉は信長の信頼を受け、戦の意義を申し立てる光秀は信長からの信頼を受けるのに欠けるものがあった。その不調和音がギシギシと音を立て信頼関係の崩れていくのを光秀は感じ取っていた。
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