第48話 五章 七月九日 土曜日

 音楽祭は予定通り進んでいた。学内外から見えた客足も上々といえた。もうじき、俺達の前のバンドが始まる。ついにこの時がやってきたんだ。泣いても笑ってもこれで最後。勝負の刻だった。朔耶がステージで舞い上がろうと、アイツがステージで暴言を吐こうと、織姫がとんでもないバカやらかそうと、もう、次はない。これが終われば――今のままの俺達ではいられない。


 考えまい。今この瞬間を、俺達のステージを成功させよう。それだけを考える。


「行こう、委員長」


 アイツが俺にベースを手渡してくる。ずっしりと重い。それはアイツの信頼の形である俺のベースギターだった。


「ねえ、充彦くん、ちょっと待って?」

「何だよ朔耶。もうステージ裏に移動しておかないと」

「ちょっとだけで良いの」


 俺はアイツに目で先に行けと合図する。アイツと視線が絡んだ。アイツは眉間に僅かに皺を寄せている。アイツはアイツで緊張しているのだろうか。ならば、朔耶の緊張はそれを上回っているはずだ。でも、良いのか? ここで俺が朔耶の頼みを聞いてしまっても。アイツは何か言いたそうではあった。何かが引っかかったが、結局、俺は無言のアイツを促すことにする。


「……はぁ。……ごめん、諸星。先に行っていてくれ」

「わかった。早く来いよ?」

「うん」


 力なく言葉を漏らしたアイツは、ステージ裏に歩き出す。そして二度もこちらを振り返ったかと思うと、急にステージに向けて駆けだした。


 朔耶は俺を見上げている。


「あのね、充彦くん」

「良いから早く言えよ。時間がないんだ」


 アイツの今の去り際の目つきはなんだと言うのか。やけに胸騒ぎがした。このままではいけない。アイツを捕まえないと。どこかに行ってしまう気がする――。


「もう! 聞いて!」


 耳元に朔耶の一喝が響く。朔耶から怒られたのだ。その表情はとても真剣で、いつもとは違っていた。アイツのことも気になるけれど、今は朔耶に向き合うべきだ。


「なんだよ……」

「あのね、充彦くん。あたしね、勇気が欲しいの」


 俺の時間が凍った。朔耶は真っ直ぐに俺を見ている。


「え?」


 枯れて乾いた息を吐く。俺はそんな自分に驚いた。


「あたしに、全てに立ち向かう勇気をちょうだい? 君があたしにそれをくれるなら、頑張れると思うんだ。きっと何でも出来るんだよ。あたしは――。あたしはね、君の事が好き。あたしの事庇ってくれた、あの楽器店で会ったときから、ずっと君を見ていたよ?」


 一体何度目になるのだろう。朔耶から受ける告白の言葉だった。朔耶は真面目に、ときには不真面目に、今日のこの日も俺の想いを確かめに来のだ。


「な、朔耶?」

「充彦くん。何度でも言うよ? 君のことが好き。あたしが挫けそうなとき、何もかも忘れて逃げ出したかったとき、あたしの傍にいつも君がいてくれたから。君があたしを励ましてくれたから、見守っていてくれたから、今のあたしがいるんだ。そしてその上に今日のステージがあるの。だからね? このステージが終わったら、あたしが上手く演奏できたら……あたしと付き合って欲しいの。本気だよ?」


 朔耶が一歩踏み込んだ。俺の心を切り裂く言葉。深く澄んだ鳶色の瞳は、真っ直ぐに俺を見入って放さない。朔耶のしっとりと濡れた唇から漏れる想いはとても熱かった。俺が気がつくと、吸い込まれそうな気がした。それは俺の目の前にあって、今まさに近づいてくる。ダメだと言うことはわかっている。引き返せなくなる。でも、俺は動けなかった。


 朔耶の腕が俺の背に回される。ぎこちない動きだ。吐息が触れる。その鳶色の瞳が揺れていた。


「お願い――」


 勇気。俺が与えなくても朔耶は既にそれを持っていた。だって、朔耶は俺の背に回した腕に力を込めて、柔らかな身体を押しつけてきたのだから。朔耶は今日のこのステージのために、とても頑張ったに違いない。俺達がずっと見ていたのだから、それは間違いない。やれば出来るんだ。このコは。自分自身の力でそれをやり遂げることが出来たんだ。嬉しかった。そんな朔耶を、俺はとても可愛らしいと思えた。

 唇はとても甘くて、その仕草は優しかった。


「――大好きだよ、充彦くん」


 朔耶の身体が震えている。走り去るアイツの幻はとても優しく、霞んで見えた。


◇ ◇ ◇


 二人でステージ裏にやってきた俺達に、アイツは一瞥の視線をくれただけで何も言ってこなかった。どうして何も言ってくれないのだろう。昨日の呟きとは一体何だっだのか。とてもアイツの顔を直視できなかった。だけど、俺は向き合わなきゃいけない。これでも皆に選ばれたリーダーだから。ステージは目の前だ。皆の想いのために、ここは自分を殺そう。まずは、朔耶。朔耶が一番このステージを楽しみにしていたはずだった。


「本番を前に、何か言うことはないか? 朔耶?」

「みんな、あたしの夢に付き合ってくれてありがとう」


 朔耶は心底嬉しそうだった。俺も、皆も頷いている。


「織姫?」

「がんばろー!」


 幼稚舎の園児にも似た間抜けな響きの言葉が炸裂する。言葉とは裏腹に、何がしたいのかわからない。織姫……。お前は本当に何がしたいんだ?


「……まあ、期待してなかったよ。で、次。悠人?」

「ん? あ、ああ。成功させようぜ」


 悠人までもが織姫の毒気にすっかり当てられていた。いつもの気の利いた台詞が出てこないようだ。もっとも、ここで辻説法をされても非情に困る。はぁ、仕方ない。真打ちに気合いを入れて貰おう。


「うん。――諸星、この国語力のない奴らに何か言ってやってくれよ」

「はぁ。どうして私がこんな面倒なこと……。こういう仕事はお前の管轄だろ? 委員長。だけど仕方ない、仕方ないよな。ふがいないリーダーだ、全く」


 いつもながらに全く容赦の欠片もない辛辣さ。でも、それが俺は嬉しい。


「良く言うよ、お前」


 俺の軽口をアイツはあっさり無視してくれた。アイツは皆をゆっくりと見回すと、口を開いた。


「いいか、お前達。このステージのことだけを考えろ。後のことなど忘れてしまえ。しくじったと思っても気のせいだ。観客はそんな私たちでも楽しんでくれる。観客が楽しむんだ。まして演奏する私たちがステージの上で楽しむことになんの問題も無い。今日のステージはただのは前座だ。伝説なんて当たり前なんだ。こんなのただの遊びだ。ただの遊びにビビっている暇があったら、私を信じて付いてこい!」

「おおー! カナミちゃん、かっこいー! カナミちゃんガリーダーの方が良かったんじゃない?」


 バカな奴ほど釣られるらしい。でも、いまはそんな織姫のバカに救われる。


「あたしもそう思った。やっぱりカナミは凄いよ」

「あ、充彦。オレは織姫ちゃんの意見に全面的に賛成だから」

「お、お前ら……」


 ほら、皆が微笑んでいる。


「おい、形式上のリーダー。当然お前も何か言うよな?」


 はぁ。アイツにそう言われたならば仕方が無い。何か言うしかないよな。俺はメンバーの皆に向き直る。


「ここにいる観客を皆俺達のファンにするんだ。わかっているな? これは終わりじゃない。始まりなんだ。じゃあ、行くぞ!?」


 そうでなくてはいけない。俺は一つを除いて数ある選択肢の全てを切った。母さんの手にこの身を委ねた。あの人に親子の情なんて無い。いつもどこか遠くを見ている美しき魔性。あの綺麗な人は俺を決して見てくれない。あの人を望む百万の言葉と行動を示しても、あの麗人には届かない。それでも、あの人を追いかけることを俺は選んだ。でも、あの人と、あの人の友達は皆が望む未来を開いてくれる。これが俺の思いついた最良の一手だ。皆も最後は俺の想いに気づいてくれるはず。直ぐには認めてくれなくても、俺がねじ曲げた運命の行き着く先で納得してくれるはずだ。今、俺はその可能性に賭けている。



 暗い観客席はそれなりの入りだった。スポットライトが目映く燦めき、熱の波となって俺達を歓迎する。中央に飛び出るのは織姫だ。いつもの仏頂面は消え失せて、冗談のような笑顔を振りまいている。母さんの口利きで通わせられる事になった養成所のレッスンの賜物か、その媚びに媚びた体の動きと視線の向け方は既に素人のものではなかった。


「ハーイ、みんなー! 『学園非公認・バンドしようぜ愛好会』です! わたしは渡月織姫、わたしが司会をしちゃいます! 今日は皆にバカ三人娘って言われてるらしい、ある意味イタイ女の子三人が歌っちゃうよー! あ、わたしのお兄ちゃん達、男の子二人もステージにいるけど、見たくない人はさっくりスルーしあげてね!」


 織姫が自虐コメントを入れてきた。


「最初から飛ばして話ちゃう! 今日はわたしの口も軽いんだ。だから、ちょっとアブナイことも喋っちゃうよ? まずはわたし達が出会うきっかけとなった、わたしも大好きな曲。ここにいるデンジャーな方向で有名な『血まみれ番長』さん、カナミちゃんのお母さんのヒットナンバーから。では早速始めるよ! 生ける伝説、世界が誇るシンガーソングライター、諸星由美子で『夜空を君と』」


 織姫の行ったトークの掴みはばっちりだ。さらに続く最初の曲、織姫がメインを張ったその曲はいつも以上に映えた。こうしてみると我が妹ながら、かなり良い線をいっていると思う。幼い頃からコーチに師事して毎週鍛えてきただけはある。澄んだ声に膨大な声量。それは会場の皆を圧倒していた。


 俺達のステージはなおも続いている。


「カナミちゃんカナミちゃん! 由美子さんと仲直りした?」

「知るかよ。そんなこと。こんなトコで聞くなよ」


 キャラを作っていることが既に謎の域に突入している織姫の問いに、アイツは素で答えているとしか思えない。だが、俺はアイツの生き様そのものが、アイツ自身の夢見る目的のために作り上げられていることを知っている。


「あ、照れてる、照れれるよカナミちゃん! すっごく可愛いよ! えーと、……伝説の番長さんからとてもほのぼのとした心温まるコメントを戴きましたぁ。皆さんも胸が熱くなりますよね? ねー? じゃあ、次の曲は、諸星由美子の自称宿命のライバル、当の由美子さんからは歯牙にもかけられてない、わたし達、双子のお母さん、SAKIの曲。これ聴いて気に入ったら、みんなCD買ってあげて下さい! わたしの明日のご飯のために、是非とも買って! バイトしてでも買ってね? お願いだよ! では、この国の真実。永遠の偶像、SAKIのヒットナンバーの仲でも一際輝く一曲をカバーしました。では、私たちで『夜明けをみつめて』」


 会場がざわめいた。そうだろうな。皆にはそんな事言ってないし、なによりあの人は自分のプロフィールを伏せてるから。


「なんだって!? SAKIがお前達の母親!?」

「そだよ? ごめんねカナミちゃん。今まで黙ってて。でも、わたしたち兄妹はあなたのことも、由美子さんのことも大好きなんだ。はい、次はカナミちゃんの番。カナミちゃんは、お母さんのコアなファンなんだよね? お母さんも喜ぶから、カナミちゃんが歌って?」


 織姫のコメントに驚いた顔を見せていたアイツも、マイクを手にした瞬間に笑顔に切り替わった。アイツは歌う。本当に好きな曲なんだろう。切なく響き、歌い上げるアルト。恐らく歌手本人である母さんよりも気持ちがこもっているに違いない。


「最後だよ! 次はオリジナルだよ! カナミちゃんが書いた曲なんだ。もうみんな判ってると思うけど、血まみれ番長さんは、超危険なヤンキーじゃなくて、お母さん思いで、とっても優しいこんな素敵な女の子だったんだよ! だから、作曲なんて、毎日授業中にお昼寝するより余裕なんだ。え? 意味判らないし関係ない? いいのいいの! わたしも自分の喋る内容なんて全然、もう、これっぽっちも気にしていないから! でね? もしかしたら、そのうち冗談抜きでこの曲のCDがでちゃうかもね! この演奏の録画がプロモーションビデオとして全国で流れるかもかもだよ! ……って、コラー、お前らー!? なんだなんだそのつまらなそうな顔はぁ! みんな引くなぁ! 未来の国民的アイドルが極秘未公開情報を話してやってるんダゾ!? もっともっと熱くなれよ! 泣いて喜んでも良いんだよ!? わたしたちが本当のバカを教えてやるってば! これからなんだゾ? わたしたちの本番は! じゃ、『学園非公認・バンドしようぜ愛好会』で『恋した季節』。朔耶っち、構わないからやっちゃって!?」


 織姫の合図で朔耶の怒濤のドラムソロが始まる……って!? なんだよこれ、俺は聞いてないよ? この進行!?


 もちろん実行委員だって知らないはずだ。一番困るのは照明さん……あああ、お前らなんてことを! 後で詫びに各所を廻るのは俺だろうが!


 ギターソロを始めた織姫が嫌な笑いを俺に向けてきた。アイツもまたアドリブで、織姫のソロに自身のギターを絡め始める。アイツの切れ長の目が俺を見る。笑っている。いや、含んだ微笑みだ。


 朔耶、朔耶は!? ……同じ顔をしていた。いや、むしろ三人の中で一番邪悪……。


 悠人。コイツは? コイツは知ってたのか!? キーボードは既にコードを弾き始め……その表情を見るまでもない。コイツら!?


 ええい畜生! 俺は頭に来た。もうどうなっても知ったことか! こうなったらサビの旋律を奏でてやる。お前ら好き勝手に入りやがれ!


 俺が旋律を弾き始めたときだ。朔耶がドラムを止め、俺以外の音が止む。俺の耳に歌声が届いた。朔耶だった。朔耶が歌詞を乗せて来た。迷ったように遅れて朔耶を照らし出すスポットライト。その澄んだ、先の二人とは違う、ある意味で素人っぽい歌声は皆に届いただろうか。


 サビの歌詞を歌い上げた朔耶は独唱を自ら止める。次の瞬間、スティックを高らかと掲げた朔耶は本来の曲の開始の合図を打ち鳴らし始めた。控えめで飾らぬバスドラの低音が耳を打ち、朔耶は皆にリズムを配り始める。刻ならぬ朔耶への拍手が止んだ。

 ステージの上の皆が、俺の仲間達が俺を見ている。皆、笑顔だった。――今、俺達のバンドが始まる。


◇ ◇ ◇


「今日のステージ、大成功だったね! 充彦くん!」


 暗くなり始めた教室。朔耶のスマホにメールを入れて二十分ほど過ぎただろうか。朔耶が教室に飛び込んできた。あれから他のバンドを聴いていたのだろう。今だステージ衣装のままだった。


「ああ。それにしてもお前ら、本番でやらかしてくれるとは良い度胸だ。あの後、実行委員連中に散々嫌味言われたんだけど!」

「いいじゃない。面白かったよね!?」

「まぁ、な」

「充彦くん、君のおかげだよ! ありがとう! あたし、頑張れた。頑張ったよ? 君が勇気をくれたから――」


 朔耶の声が低くなる。その目が、俺を真っ直ぐに見つめていた。吸い込まれそうになるのを必死に押さえる。そう。押さえなきゃ、全てがダメになる。


「朔耶」

「ん? なぁに? 充彦くん」


 言いたくない。でも、言わなきゃいけない。何度言ったかわからない、でも、これでもうこの言葉を口にする事もないと信じたい。


「朔耶、あのさ。聞いて欲しいんだ」


 俺はついに口を開く。朔耶の表情に影が走った。あ……俺の顔に出てた? か?


「……い、嫌。聞きたくない。どうして、どうしてそんな顔するの? 嫌。嫌だ。嫌だよ! 嫌だ、充彦くん……言わないで。言わないでよ!」


 震える朔耶の声。耳を打つその響きも、もう何度聞いたか判らない。でも俺は、また酷いことを口にしなきゃいけない。


「聞いてくれ。そして、決めてくれ」

「嫌だってば! 何も聞きたくない! お願い! どうして? 酷いよ! 今日は楽しいことが、嬉しいことが……いっぱい、いっぱいあったのに! 充彦くんと、せっかく気持ちが通じ合えたと思ったのに!」


 とても見ていられない。でも、俺は朔耶の顔から目を逸らさなかった。


「今日のステージで、織姫が語ったことを覚えているか?」

「聞こえない! 何も聞こえないってば!」

「オリジナル曲のCDが発売されて、今日の映像がプロモーションビデオに編集されて公開される、って話」


 俺は努めて淡々と話を続ける。ごめん、朔耶。でも、こうしなきゃいけないんだ。


「……聞こえないよ。聞こえないけど……うう……酷いよ。どうして……」

「俺、母さん――SAKIに頭下げたんだ。諸星由美子にも。二人に会って、俺達の――いや、お前のバンドを売り出してくれるように頼んだ。無理矢理頼み込んだ。母さんには滅茶苦茶酷くなじられた。由美子さんは呆れてた。でも、何回も頼み込んで、結局はOK貰ったよ。OKは出たよ? OKを貰うまで頑張ったんだ。俺、何度も頼んだよ。約束だったから。他ならぬ朔耶との約束だったからだよ」

「うん……。充彦くんのお母さんがSAKIだったなんて、あたしも驚いたけど……。だから? だから何? 充彦くん」


 その返事には間があった。でも、朔耶は俺の話と向き合ってくれようとしている。


「俺、母さんが大嫌いだ。母親らしいことなんて、ただの一つもして貰ったこともないし、あの人も俺達を自分の子供だなんて、これっぽっちも思ってない。家にだって滅多に帰ってこないし、たまに会っても話すことなんて無かったんだ。でも、俺はあの人の力に縋ることにしたんだ。それ以外、俺達皆が巧くいく方法なんて思いつかなかった。ごめんな。今日まで黙っていて」


 俺は両手を朔耶の両肩に乗せ、真っ直ぐに朔耶の瞳を見つめる。朔耶は流れ落ちる涙を我慢などしていなかった。だけど、目を閉じずに俺を真っ直ぐに見返してくれていた。


「朔耶。聞いてくれ。良く聞いて。これから、明日にも朔耶を取り巻く世界が確実に変わる。俺が変えた。朔耶の夢のために、俺が変えたんだ。あの人たちに全力で俺達を売り出させる。そう約束させた。そして、もう既に多くの人が動いているだよ。引き返せないんだ」

「そ、それって……」

「デビューするんだよ。俺達は。売り出されるんだ。俺達の子供時代は今日で終わりなんだ」

「え? な、何それ……何々、それ……え? ええ? えぇえ!?」

「朔耶。お前の親父さんの許可も取ってある。俺も、織姫も、悠人も、皆お前のバンドについてゆく。今さら嫌とは言わせないし、突然の話かも知れないけど、躊躇う時間なんて全くないんだ」


 朔耶の目が泳いでいる。だけど、もう心は決まっているはずだ。決まっていなくとも、決めて貰わないといけない。


「そ、そんな……え、ええと、ええとカナミ、は?」

「アイツにはまだ何も話してない。でも、アイツは感じているはずだ。判ってるはずだよ。自分の成すべきことを。アイツ、お母さんと喧嘩して逃げてきたなんて言っていたけど、逃げてなんていない。いつも真剣勝負だったんだ。どんなときも自分を飾っていた。お前も見ただろ? 授業でバカのふりをしたり、不良のまねごとをしてみたり……。今日のステージでは諸星由美子が毛嫌いしているSAKIの曲を本人より巧く歌って見せていたよな? 未来を、お前と一緒にいるための未来を思っていつも動いていたじゃないかよ。だから、アイツはお前を裏切らない。大丈夫だ。大丈夫」

「充彦、くん」


 朔耶はそれしき黙ってしまった。俯いたまま、何も言わない。そして、いつしか教室の床は朔耶の涙で濡れていた。


「朔耶、お前が俺達を動かしたんだ。お前の夢に賭ける熱意が、俺や母さんたちを動かしたんだよ」


 言いたいことは全て言った。後は、朔耶が決める。いや、きっと既に決まっているに違いない。朔耶は決して弱くなんて無い。どんなプレッシャーにも負けない強い女のコなのだから。


「そっか。そう、なんだ。あたし、負けたんだ……。負けちゃった。でも、いいかな。うん」

「負けてなんていないだろ?」


 朔耶が顔を上げる。もう、流れ落ちる涙は止まっていた。


「ううん? 知ってた。充彦くんは約束を必ず守る、って。何があっても、何を捨てても、充彦くんは約束を守っちゃうために頑張っちゃう人なんだよ。だから、あたしは充彦くんを好きになったんだ。好きになれたんだと思う。うん、好き、だったよ。大好きだった」

「朔耶……」

「わかってた。わかってたよ。最初からわかってたもん! 充彦くんはあたしと一緒にいてくれる。でもそれ以上の想いでカナミの隣でベースを弾きたいんだよね? カナミは屋上にいると思う。そこで、そこ……充彦くんをきっと待ってる。行ってあげて。……でも、それでも。あたしは君が、充彦くんが好きだよ? これは本当の気持ちなんだから! ……忘れないでいてくれると嬉しいな。充彦くん。本当にありがとう。君がいなければ、あたしの夢は叶わなかった。ありがとう。あたしのために動いてくれて。大好きなのに。とっても嬉しいことが重なったのに。あたしの夢が叶おうとしているのにのに。どうして、……どうしてあたしは悲しいのかな……」


 目尻に再び涙を浮かべ、俺から朔耶が離れてゆく。それはとても儚く、霞んで見えたのは何故だろう。


「着替えてくるね。もう遅いし、今日は帰るよ。色々ありがとう。あたしのリーダーさん!」


 朔耶が優しくそう告げて、出て行った教室の扉。その日、それが閉まることはなかった。


◇ ◇ ◇


 良かった。まだアイツはいてくれた。ステージ衣装のままのアイツの背中がある。漆黒の髪が夜風に靡き、夜空の満天の星をその度に派手に瞬かせていた。そして星々は手摺りの前で佇み、夜空を眺めていたであろうアイツを静かに照らしている。


「諸星。ここにいたのか」

「なんだよ委員長。サクヤの所にいてやれよ。……お前の、彼女なんだろ?」


 振り返らぬアイツの表情は見えない。アイツの声を殺した笑い声だけが聞こえる。実に笑えない冗談だった。


「……これで良いんだ」

「知らないぞ? お前。そんな事して大丈夫なのかよ。お前はそんなつもりはないのかも知れないけれど、お前が今やってることは私を選んだって事だぞ? 一生を棒に振るんだぞ? 後悔するぞ?」

「そんなの、とっくにしてるよ。お前、気づくのが遅いんだよ。……そして、俺には全部判ってるんだ」

「また強がり言いやがって。……まだそんな事言うのかよ、お前は。いつもいつも、全くウザイ奴だ」


 黒髪が翻る。一瞬だけ振り向いたアイツの視線が俺を射貫いた。気のせいか、俺の後ろを見た気がする。後ろ?


 俺は振り返る。


「……っ!」


 ああ、そういうことか。あのコ、追ってきたんだ。俺、付けられてたのか。アイツの視線の先に、朔耶がいたよ。


「見つかっちゃった。って、当然よね」


 朔耶は俺の隣をゆっくりと歩み、手すりを背にしてアイツの隣に並ぶ。朔耶は背中を向けるアイツの隣に並んで俺と向かい合う。


「聞いたかよサクヤ。委員長の奴、まだあんな寝言を言ってるぞ。さっさと起こしてやれよ」


 朔耶は無言で頷く。とても優しい笑顔をしていた。


「充彦くんってさ、いっつも夢見てるんだよね。可笑しいの。もう、笑っちゃう。でも、それはあなたのせいだと思うんだ、カナミ。君のみたいな、冗談としか思えないびっくりするほどの美人が、充彦くんのような普通の男の子を好きになったせいだよ」


 ……え? 朔耶?


「何言ってるんだよサクヤ。誰がこんな奴」


 着替えて帰る、と言って去ったはずの朔耶の姿があった。帰るどころか、未だにステージ衣装から着替えてすらいないあのコは続ける。


「またまた。嘘ばっかり。一年間も遠距離続けて、どんな交際相手も断って。お母さんにも滅茶苦茶無理言って。挙げ句の果てに、彼の将来までどうしようもないぐらいにねじ曲げて置いて、今さらどの口が言うのよ」


 え……? 朔耶? ふてぶてしく物怖じしないその物言いは、アイツがこの学校に現れたその日のものを思い起こさせる。とても強い朔耶がそこにいた。


「おい、サクヤ、お前いい加減に……」

「カナミ。君は充彦くんのこと、好き、なのよね? もう、どうしようもないくらいにそうなのよね? 今、涙が止まらないから彼の顔を見てあげれていないんだよね? いつ何時、誰の目から見てもバレバレなのに、散々ワガママ言って彼を翻弄したあげく、今さら嘘をついて、その上、彼の気持ちまで踏みにじるんだ? カナミは」


 朔耶はどこまでも強かった。だから、アイツをとことん追い詰める。


「……っ! 違う! だれが泣くかよ! 私は泣いてなんていない! そんなんじゃないって! 私は酷くて最低の女なんだよ。そ、そうだよ。私はさ。酷い女なんだ。いつもいつも、最後の最後で逃げるんだ。中途半端なんだよ。これが私なんだよ。判ってるよな? 判っていたよな、委員長!?」

「諸星。そうだな。その通りだ。でも俺はさ。お前が嘘をつく事が下手なのも知ってるんだ。思いだしたか? 諸星」

「……っ! なんだよそれ!!」

「それに、俺はしつこいんだ。ウザイんだよ。どう? 知っていたよな? 思い出してきたよな?! だから俺、お前のことが一番好きなんだ」


 言った。朔耶の目の前で言った。朔耶が僅かに眉を寄せる。でも、それは一瞬だった。


「バカ言うな! サクヤこそお前のことが好きなんだ。私の出る幕なんて無いんだよ! 判れよバカ! ……お前からもなんとか言えよ、サクヤ! 私に委員長を取られて良いのかよ!」

「だってあたし、性悪女でも泥棒猫でもないし? あたしは確かには充彦くんのこと滅茶苦茶好きかも? だけど、愛しているか、なんて言われると正直困るし」


 朔耶の声は揺るがない。とても力強い声だった。


「何を言って……サクヤ、昨日はあれだけお前、私に頼んだくせに! お前何を言っているんだよ、どうしたんだよ……なんとか言えよ、ワケわかんないよ」

「ワケがわかんないのはカナミ、君の方でしょ? しっかりしてよ」

「だから、どういうことだよ。私がどんな思いでいるか知ってるだろ? 綺麗に終わらせてやるチャンスだったじゃないか。私がアイツの事を、そう簡単に忘れられるわけ無いだろ!? どうして私を惑わすんだよ。これが最後のチャンスだったんだ! お前はバカだよ。私は渡月のことが好きなんだぞ? そして渡月は私のものなんだよ! こんな事を言う私はお前の敵だろ!? サクヤ、お前……言ってることとやってることが無茶苦茶じゃないか……」


 朔耶を向いたアイツの顔。それは涙で崩れていた。でも、それは朔耶がアイツの心の壁を砕いた。


「あー、もう! まったく世話の焼ける! カナミこそ聞いたでしょ? 充彦くんの今の気持ち。そして、カナミもさっき言っていたわよね? 『充彦くんが君を選んだ』んだって。あんな真に迫った言葉聞かされて、どうしてカナミから充彦くんを奪えるのよ! どうして充彦くんの気持ちを裏切れるの! そんな残酷なこと出来るわけ無いじゃない! あたしは充彦くんが大好きなんだから!! 充彦くんが望むなら、それを応援しなきゃダメじゃないの! あたしはカナミの仲間なんだよ? 喧嘩ばかりしていたけど、あたしはカナミのこと、親友だと思ってるもの!! 充彦くんは君に返す! 返すんだから……」


 朔耶は泣かなかった。少なくとも俺はあのコの涙を見ていない。アイツの胸に朔耶が飛び込み、頭を伏せていた。アイツは止めどなく涙を流しつつ、そんな朔耶を強く乱暴に抱きしめている。この日、朔耶が涙を見せたかどうか。それはアイツだけが知っている。

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