第9話 一章 二月十六日 火曜日

 今週も音楽の時間がやって来た。今日は僕とコイツに一本ずつギターを用意して貰っている。僕は今日もコイツとの組だった。ある意味当然と言えた。

 そして今のコイツの機嫌はすこぶる良さそうなのである。



「なぁなぁ。ユニゾンも良いけど、お前低音弾けよ。むしろウッドベース持ってこいよな」

「そんなもの、個人宅にあるわけないだろ!? 持っていないって。そんなに言うんならお前が持って来いよ」



 ウッドベースって、あの身の丈ほどあるバイオリンのお化けじゃないか。持っているわけないだろ? 察しろ、と言いたい。



「持っていないのか?」



 真顔だった。コイツは本気で聞いていたらしい。

 ……だから、そこで何なんだよ、お前のその可哀想な人を見る目つきは。




「ああ。父さんのお古のエレキギターならあるけどな。それに、今、僕らが使っているのはアコギじゃないか」

「そうか……なんだ。お前、ベース持っていないのか……。そうか……。ま、いいや。どうでもいいか。うん、どうでもいい。だけどお前、そのまま低音部だからな」

「意味がわからないぞ」



 コイツは一人で何度も頷いている。それも頷く度に笑みが深くなっているような気がする。



「それで良いんだよ、うん」

「はいはい、諸星」

「ハイは一回で良い」



 コイツは僕の鼻先に人差し指を突きつけながら言い放つ。

 あの日以来、コイツは目に見えて優しくなっていた。それも僕にだけ。

 みんなにも優しくしてやれよ、と思う反面、僕だけに優しい姿を見せるコイツが嬉しく思える。そしてコイツを見ていると何だか落ち着いている自分がいた。

 そしてもっと正直に言うと、気づけばコイツの姿を常に追ってたのだ。



「渡月、お前。……凄いヘタクソだな。よく見てろ。ここは――」

「同じじゃないか」



 コイツが弦を掻き鳴らす。コイツはゆっくりと弾いてくれたつもりだろうが、それでも目で追うのがやっとの早さだった。なんとか追えたその動きは僕の動作と同じに見える。


「何を見ていたんだ? バカなのか? お前は余計な力が入り過ぎなんだ。もう一度やるからよく見てろ」

「ああ。頼む――」

「渡月君、諸星さん、そこまでよ」



 コイツが弦に手をかけようとしたとき、未春先生が僕らを止める。時間はあっという間に過ぎていた。今日もまた、この時間コイツの姿ばかり追っていたような気がする。

 正直に白状すると、先生としてのコイツは未春先生なんかより滅茶苦茶厳しかった。とても厳しく粘り強く、何時も本気で僕を見ていてくれていたのだ。



「オイオイ、何やってるんだよ、渡月。お前全然ダメじゃないか。何度やり直せば気が済むんだよ」

「あと少しだったんだって! もう一度頼む、諸星」



 中断の合図は耳に入ったのだけれど、とても止める気にはなれなかった。このままずっと続けていたいんだ。



「はいはい。もう一回な」

「すまん」



 コイツは未春先生よりずっと優しい目で僕を見てくれていて、ずっと僕のことだけを気にかけてくれている。間違いなくそう言える。

 そう、我が子のことなど一切気にも止めていない僕の母さんの、何倍も気にかけてくれているんだ。



「おーい、お二人さーん。授業はここまでなんだから、片づけてね」

「いいか、よく見てろよ――」

「はいはい、あなたたち二人ともストップ!」



 何時までも止めない僕たちに痺れを切らしたのか、未春先生が僕らのギターを取り上げにかかる。



「はいはい二人とも。そろそろ皆と同じ世界に戻ってくる時間よ? 授業時間はおしまい。もう。二人とも仲がよすぎ。今回はここまで! いいわね?」

「え? 僕たち仲良くなんか……え? え?」



 なんだか顔が熱い。僕の顔はきっと真っ赤になっているに違いない。未春先生ときたら、なんてこと言うんだよ。しかも皆の前じゃないか。



「判りました。済みません」



 え? アイツの素直な台詞に驚いた。そんな、コイツが未春先生の指示に素直に従うなんて、一体どうしたのだろう。僕は暫くそんなコイツを見詰めていた。


 僕ら二人が音楽室を後にしたのは、結局のところ皆が去った後だった。僕らは揃って未春先生に呼び止められた。



「渡月君。諸星さん、ちょっと待ってくれる?」



 学級委員である僕が呼び止められるのはいつものことだ。でも、先生がコイツまで呼び止めたのはどうしてだろう?

 そんな事を思っていると、未春先生はあっさりと種明かしをしてきた。



「卒業動画のBGM、あなたたちのギター演奏にしようと思うの。引き受けてくれる? 二人とも、公立は受験しないのよね?」



 僕は今日一日の睡眠学習を終えたコイツに例の話を持ちかける。未春先生が音楽準備室で待っているはずだった。



「卒業動画? そんなもの私には関係ない。私は所詮、お客様じゃないか」

「お客様じゃない。クラスの一員だ。お前も出演するんだよ」



 諸星の奴、まだそんな事を思っていたのか。僕はちょっとだけ悲しくなった。

 でも、確かにそうかも知れない。僕以外のクラスメイトと仲良く話している姿なんて……いや、僕が悪かった。コイツに限って、あり得ない仮定だと我ながら思う。



「冗談じゃない、どうして私が」

「さっき未春先生が言っていただろ?」

「めんどくさい。やだよ」



 コイツは顔を顰め、薄っぺらい鞄をとって立ち上がる。



「待てよ諸星!」



 僕が声を掛けると、アイツはまるでそれを待っていたかのように立ち止まった。赤い髪が緩やかに舞う。



「待ってくれ。話を聞いてくれよ、諸星」

「はぁ。お前も物好きな奴だ」



 口ではそう言いつつも、アイツは僕を振り返る。そしてツカツカと歩み寄ってきたかと思うと、身を屈めて僕の顔を覗き込んできた。



「渡月、お前……もしかして、それやりたいのか?」



 近い、顔が近いって! 嘘のように整ったコイツの白面は目の前だ。



「ああ」



 答えると、コイツは顔を離してくれた。気のせいか口元が綻んでいるような。でも無防備すぎるだろ。実に冷や汗ものだった。



「お前、本当に貧乏くじが好きなんだな。委員長は大変だ」

「言ってろよ。とにかくお前も来るんだよ」



 また溜息。本当に嫌なのかも知れない。いや、嫌がっているというより面倒がっているのだろうか。



「お前……私に、手伝って欲しいのか?」

「当たり前じゃないか。僕はお前に手伝って欲しいんだ」



 コイツは人差し指を顎に当て、なにやら考えている様でもある。



「……委員長として?」



 切れ長の目が僕を射た。口元を僅かに綻ばせ、僕の返答を待つコイツの顔はとても意地悪に見えた。



「僕が手伝って欲しいの!」



 僕は思わず声を大きくしていた。



「そっか。そうなのか。……うん、仕方ないな、仕方ない」



 コイツは一瞬だけ目を見開いたかと思うと、瞼を閉じ両腕を胸の前でワザとらしく組む。



「なんだよそれ」

「やってやるよ。お前が泣いて頼むんだから、仕方ないよな?」



 コイツは僕の鼻に人差し指を突きつける。



「僕は泣いてなんかいないだろ!?」

「はいはい。委員長は大変だ。付き合ってやらなきゃ泣くんだろ? 仕方ないよな、お前は。うん、仕方ない。あんなヘタクソなギターじゃ、そりゃ心配にもなるか。うんうん」



 コイツは何度も頷いて、一人で勝手に納得していた。なんだかからかわれている気もしたけれど、僕にはそれでも嬉しいと思えたのだ。


 ◇ ◇ ◇


 音楽準備室で、未春先生は待っていた。そこで僕らはギターと二曲分の楽譜を渡された。いざ、始めようとしたのだが。



「なんだ。エレキはダメなのかよ」



 コイツは開口一番、そう言った。



「良いじゃないか、アコギで」

「お前はそれで良いのか?」



 いや、それが未春先生の要求なのではないのだろうか。確認したわけではないけれど。ここは当たり障りなく流してみる。



「アコギの方がこの場合は相応しいだろ?」

「そんなものかな」

「そうだよ。……と、思うけど……」

「そっか。お前がそれで良いなら、私もそれで良いよ。うん。問題ない」



 正直、コイツほど音楽的なセンスに自信は無かったけれど、そのコイツが納得したようなので安心できるかも知れない。うん、おそらくOKなのだろう。



「『夜空を君と』? 本当にこの曲で良いのかよ、先生」



 コイツは楽譜を手に未春先生に確認する。



「構わないわ。それに諸星さん、クラスの皆にあの曲を忘れられない思い出として植え付けたのは、他ならぬあなたよ?」



 コイツは大きく溜息をついた。



「はぁ。……まさか、あのバカ親の十八番を弾くことになるなんて驚きだ」

「え? 諸星?」



 コイツの親御さんの曲?



「ん? 知ってるよな?」

「何を?」



 コイツは小首を傾げる。



「私の母親のことだよ。シンガーソングライタ―の諸星由美子。お前を車で轢き損ねたバカ女だよ。……知ってたろ?」



 僕はコイツに目を向ける。言われてみれば、名字が同じ。でも知らなかった。そんなこと。大ファンである父さんが聞いたなら、きっと狂喜乱舞して喜ぶかも。そして母さんは物凄く嫉妬するに違いない。家庭の平和のためにも僕は黙っておこうと心に決めた。


 諸星由美子。アメリカ、ロサンゼルスで活動する世界的に有名な日本人。世界に通用する、日本を代表するアーティストの一人だと聞いている。諸星の奴、芸能人の娘だったのか。道理でこんな、怖いぐらいに美人なワケだ……。



「ん? どうした渡月。私の顔に何か付いているのか? そんなに見るな。流石に恥ずかしいだろ?」

「い、いや。なんでもない」



 僕はコイツの顔をずっと見ていたらしい。顔が熱い。僕の顔はきっと耳まで真っ赤になっているに違いなかった。



「変な奴。でもまぁ、委員長だからな。問題ない。うん。問題ない。……で、もう一曲はなんだよ。……え?」



 市立第四中学校校歌 作詞・作曲・編曲 諸星由美子



 もう一枚は、ここ市立第四中学の校歌だった。



「ここの校歌、初めて聞いたけど、これカッコ良いな。全く校歌らしくないのが特に」

「そう思うか?」

「うん。凄く今風だ。気に入ったかも。歌詞、早く覚えないとな。この校歌なら、唱うためだけに卒業式に出る価値がある……って、作詞作曲、諸星由美子!? あのバカ親、こんな暇なことしていたのかよ……どおりで今風な作りなわけだ」

「卒業式、サボる気満々だったんだな、お前」

「なに言ってるんだ? 聞くまでもないことだろ?」



 こ、こいつは……。僕は呆れてものも言えなかった。コイツの顔は真顔。さも当然、と言わんばかりだった。むしろその態度は、そんな判りきった事を聞く僕の正気を本気で心配しているように思えた。



 ◇ ◇ ◇



 コイツはコードをなぞりつつ、弦をつま弾く。初見だというのに完璧に校歌を演奏して見せる。コイツが演奏を二度三度と繰り返す内に、かすかに呟いていただけの歌詞はやがて僕を大きく包み込んでゆく。

 僕と未春先生はそんなコイツから目を離せなかった。コイツの才能が見せたあまりの妙技の連続に、ただただ聞き惚れていたんだ。夕陽がコイツを夕陽が赤く照らし出し、赤い髪が光に溶け込む姿に、僕はいつしか吸い込まれていたんだと思う。



「でも、凄いわね、諸星さん。これで諸星さんの髪が漆黒だったりしたら、今よりももっと……。そうね、最高に絵になると思わない? 渡月君」

「思います。凄く綺麗に、今より何倍も魅力的になると思……」



 コイツが演奏を中断し、口を丸く開けたまま僕をまじまじと僕らを凝視する。



「――だ、そうよ。諸星さん。ああ、今の聞いてた? そのまま続けてくれていて構わなかったのよ?」

「はは、ははは……。黒髪……私……綺麗……魅力的……」



 コイツは何度も何度もその言葉を噛みしめるように呟いていたんだ。そして、僕の耳に未春先生が囁き賭けた言葉が、僕の心を確信に変えた。



「どう? 渡月君、諸星さんって本当に可愛いいでしょう? 先生ね、渡月君に素敵な恋をして欲しいの。判るわよね。貴方たちなら、それが出来ると信じてるわ。貴方をこっぴどく振った女が言うのもなんだけど、恋の傷はね、恋で治すの。……先生は貴方たち二人の想いが本物だと知っている。貴方たちのことをいつまでも、どこまでも応援するわ。ね? 渡月君。出来るわよね、先生を好きでいてくれた貴方なら――」



 僕はその日、未春先生自身から僕の初めての恋が完全に終わったことを知らされた。だけど、少しも悲しくも寂しくもないのは何故だろう。

 僕は紅に染まるその部屋で、また校歌を歌い始めた紅髪のクラスメイトから目が離せなかったのだ。

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