第8話 一章 二月十五日 月曜日

 僕は毎朝コイツに声を掛けることが楽しみで仕方がない。



「おはよう、諸星」

「渡月、おはよう」

「うん、諸星おはよう!」



 コイツが僕に向ける表情に、以前の激しい拒絶の面影はなかった。



「なぁ、諸星」

「なんだよ、渡月」



 そしてコイツと僕の間で普通に話が出来る。会話が成立する。ただ、それは僕だけに許された特権であることに、このときの僕は気づかなかった。


 斜め後ろの席に目を配る。アイツは今日もまた睡眠学習中だった。

 諸星叶望もろぼし・かなみ

 それが先日、三年の二月初頭というあり得ない時期に転校してきたアイツの名前だ。アイツが転校してから二週間が過ぎていた。

 ここ二週間というものアイツの周りには誰の影もなく。かといってアイツから誰に話しかけることもない。空気のような誰からも無視され忌避されるヤンキーという名のレッテルを貼られた劣等生の姿がそこにある。

 もうすぐ午後の授業が始まろうかと言うとき、目惚け眼のアイツが珍しく声を掛けてきた。



「委員長、……放課後さ。そ、その……なんだ。ちょっと面貸せよ」



 思わず身震いするほど低い声だった。コイツの言葉に静まりかえる教室。クラスの皆が一斉に僕らに顔を向け、そして次の瞬間には我先にと視線を逸らす。

 せっかくコイツから話しかけてきたと思ったのに、その第一声がこの仕打ちですか。

 コイツのこの言葉から察するに、僕が焼きを入れられると誰もが思ったはずだった。実際、僕も危険を感じずにはいられない。このときのコイツは今にも僕に掴みかかって来るんじゃないか、って簡単に予想できる程に真っ赤で強張った顔をしていたのだ。



 ◇ ◇ ◇



 なんの冗談だか、ご丁寧に体育館の裏手まで誘導される僕。



「良いから黙ってついて来いよ」



 そう聞いたのはつい先ほどだった。

 そんな事を言われて、こんなヤンキー伝説を思い出させる場所に連れてこられた日には命がいくつあっても足りはしない。僕の心臓は今にも破裂しそうなくらい早鐘を打っていた。

 教室から出てくる前、悠人の奴がコイツに連行される僕を見て両手を擦り合わせて拝んでいたことが忘れられない。そう思うなら助けろよ! と心の中で突っ込みを入れるも、誰が助けてくれるわけでもなかった。

 僕はこれからどうなるんだろう。今やコイツの下僕と成り果てた、元々この中学にのさばっていた不良どもが徒党を組んで襲ってくるのだろうか。それともこの先に罠でも張ってあるのか。とにかく、僕はそんなことばかり考えていた。


 僕は歩みを止めていた。枯れ草が生い茂り、寒々と荒れ果てたプール裏まで来たとき、アイツが急に立ち止まったのだ。アイツが大きく息を吸う音が聞こえる。



「渡月!」

「は、はい!」



 アイツがまたも深呼吸した。そしてこぼす弱々しい、コイツらしくない声。



「あ、あのさ……」



 ついに殴られる、と思ったのだけど、何か様子が変だった。



「もっと早くこうすべきだったんだ。でも私、不器用だから無理だった。昨日、母さんが言ったんだからな? 私がこうするって言い出したんじゃないからな? いいか? 勘違いするなよ? 判っているよな!? 私、初めてこんなことするんでどうして良いか判らなかっただけなんだからな!? 全部お前が悪いんだぞ!?」



 弱々しかった声が、だんだんと熱を帯び、トーンを高めて僕を糾弾する。な、何が始まるというのか。そして、僕は何を怒られているんだ? 僕が一体何をした……。



「これやるよ!!」



 裂帛の気合いと共にコイツが突き出した両の掌。それは完璧に油断していた僕の柔らかな鳩尾にめり込んだ。思わず崩れ落ち、膝をつく僕。



「委員長? おい、渡月??」

「い、痛てぇよ」

「わ、悪ぃ! ……私、こんなつもりじゃ」

「どんなつもりだよ。ったく……」



 僕は倒れたまま痛む腹をさすろうと手を腹に持って行き――。



 カサッ……。っ? 紙をつぶす音がする。なんだ? 紙袋? 僕はその決して小さくない、むしろかなり大きめの紙袋を掴む。市内の一流百貨店の包装紙に包まれたそれはかなりの大きさと、それに相応しい重量を持っていた。



「その、さ。……あの、一日遅れだけど、いいよな? 文句ないよな?」

「……」

「渡したぞ、確かに渡したからな!? 返品は不可なんだからな!?」



 なにやら慌てているアイツは僕から顔を背け、早口に妙なことを言い捨てる。そして未だ地面に倒れ伏した僕を残し、この場から一目散に駆け去って行った。いや、逃げ去ったと言うべきか。



「なんだよこれ?」



 そうは言いつつも僕は紙袋を開けてみて目を剥いた。僕の手に残されたのは僕が生まれて初めて肉親以外から貰った一日遅れの宝物だった。心臓が早鐘を打ち、本当に爆発するかと思った。本当に何もかもが信じられなかった。



 ◇ ◇ ◇



 皆には内緒で悠人にだけ、くしゃくしゃになった紙袋を見せてみた。



「へー。岩戸屋の紙袋か。高級百貨店とは気合いが入ってるな。って、お、お前これ、どうしたんだよ。おい、誰からだよ!? なんだよこの豪華スペシャルデラックス……まぁいいや。まずはお祝いしないとな。やったな、ついにお前にも! 織姫ちゃん呼んでお祝いしようぜ」

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