旅人

第2稿第1話

「……殺してやる」

 さっきからぼくの正面で喚き散らしていた母が、荒い息をひとつ付くと、吐き捨てるように言った。この数年ずっと怒鳴られてきたぼくにはもう驚く気力すらなく、ただ、この醜い怪物の死を望んだ。それはもはや人間的な憎しみではなく、ただただ母の不在と、自分の身の安全を望む動物的な欲求だった。隣で居心地悪そうにしている父は、例によって何も言わない。共犯者。その言葉が浮かんで、ぼくは自分の中にまだ思考能力があることを知った。ぼくは何かを言おうとした。その瞬間母がぼくの頬を平手で叩いた。痛みがぼくの鈍った頭を突き抜けて、惨めな涙が二筋溢れた。

「なんか言えよ、ええ?」

 母はぼくの涙を見て怯むでもなく、ぼくの襟を掴んで揺さぶった。視界が激しく揺れて、ぼくの歯が不快な音とともにぶつかり合う。涙がとめどなく溢れて、ぼくはこの女の、自分の、すべての人間の死を願った……


 一


 大学院の朝は遅い。ぼくはいつものように十時過ぎに起き出して、ラジオを聴きながらゆっくり着替えると下宿を出た。暖かい日が差して、一月なのに小春日和の陽気だった。ぼくはイヤフォンを差してスマホで音楽を聞きながら歩く。軽快なアニソンが流れて気分は弾む。日差しは気持ちいいし、正月三が日明けの仕事始めにはもってこいだ。

 赤門を抜けてまず向かうのは学食。十一時半なのに空いているのは、学部生がいないからだろう。ぼくは道産秋鮭丼を頼んで椅子に座ると、スプーンで掬って鮭フレークが沢山乗ったご飯を食べた。調理のおじさんは量を間違えたのではなかろうか。なんだかいつもより多いな。そんなことを考えていると、スマホが微かに震えてぼくの注意を引いた。メール。母からだ。メーラを開く。平日に何の用だろう?

 スマホの画面で五行ほどの文面は明日忙しいので今日送った、という言い訳に始まり、体調が悪いです、と続き、愛してます、というなんの意味もない空疎な言葉で終わっていた。文末に添えられたハートマークに違和感を覚えながらぼくはスマホを置いた。研究室に行こう……


 ***


 研究室に入ると広山さんがいた。ぼくより二つ下の彼女は今修士課程の二年で、修論の真っ最中だ。感じのいい子である。ぼくは彼女におはようと言ってディスプレイをちょっと覗いた。

「修論進んでる?」

「ぼちぼちですね」

 ぼくは彼女の背中に、頑張って、と声をかけて自分の席に着いた。八日ぶりに帰ってきた主人をデスクの上のアニメキャラたちが笑顔で迎える。この間までやっていた深夜アニメのヒロインがコミケの団扇の中で微笑んでいる。放映が終わったら外すつもりだったけど、もう少し瞳美ちゃんとは一緒にいよう。そう思って団扇から目を離してコンピュータに向き合う。仕事しますかぁ。大げさに伸びをして、ぼくは今年最初の仕事に取り掛かった。

 年始なので食堂は昼で閉まる。ぼくは四時間ほど作業して、空腹を覚えた。さっき「大盛り」鮭丼を食べたのにな。これも正月のなせる業か。そんなことを思いながらぼくは本郷通りに出た。

 一月の夕方は早く訪れ、結構寒い。ぼくはいまだにコートを出さずにジャケットとマフラーでしのいでいる自分が可笑しくなった。少し震えながらラーメン屋に入ると、券売機の前に元家さんがいた。

 元家良子。工学系研究科の修士課程で都市計画の研究をしている彼女は、ぼくよりこぶし二つ分くらい低いところにある頭をちょっと下げて挨拶した。

「あけましておめでとうございます」

「ああ、おめでとう」

 彼女は券売機に向き直りながら、夕食ですか? と訊いた。ぼくはうん、と答えながら彼女を見た。少し傾けた顔は長くてさらさらの黒髪に縁取られている。髪から覗いた横顔は綺麗な瓜実顔で、正面から見たらきっちり分けられた前髪が富士額を作っていることを、ぼくは知っている。ぼくは知っている、長いフェルトのコートに包まれたそのしなやかな体の曲線がどれほど狂おしいかを。その豊かな胸のふくらみがどれほど優しいかを。

 ぼくは彼女に恋していた。

 気がつくと、ぼくは彼女に声をかけていた。

「今度さ、夕食行かない?」

 彼女は意外そうな顔をした。ぼくは彼女に並んで席に座りながら、その返事を待った。いいですけど、という彼女はいつになく歯切れが悪い。そこで引くこともできただろうに、ぼくはすでに自制を失っていた。

「元家さん、好きな人いるの」

「いませんけど、八重洲崎さんはいるんですか」

「……今、好きな人といる」

「好きな人と?」

 頓狂な声をあげた彼女がぼくを見る。その目には、不快の二文字が浮かんでいた。

「私、八重洲崎さんには興味ないです」

「でも、さっき好きな人はいないって」

「だったら何なんですか。あなたを好きになる必要なんてないです。私は一人で平気なんで。そんなへなへなした人とは違うんで」

 そういうと、彼女は荒々しく席を立って

「じゃ」

 と言ったきり、店を出て行った。まだラーメンが出てくる前に店を飛び出した彼女を、店員が不思議そうに見ている。周りの大学生が皆笑いをこらえているように思えて、ぼくはいたたまれなくなった。

 外に出るとすでに暗くなっていた。ぼくは重い足を引きずって研究室に戻った。惨めだった。ここ十年で十回目の失恋なのに、それは初めて知った痛みのようだった。痛みはいつも新鮮で、苦しみは終わりがない。そう思いながら夜空を見上げたけれど、涙に歪んだ景色は何も教えてはくれない。

 ぼくは自分の悲惨な境遇を思った。自分には金も、恋人も、何らの人間的魅力もない。精神病に病んだ心の隙間から垣間見える幸せに手を伸ばしても、いつも無残にはねのけられるだけ。その心を維持するための薬が今度は身体を蝕み、醜く太って誰にも相手にされない不快なクズ人間に成り下がる。理学部の建物に向かいながら、ぼくは死を思った。

 その時、ふと母のメールが思い出された。今死ねば、母への復讐にもなる。散々ぼくを虐待して統合失調症にしておきながら、今更ながらに愛しているなどと送ってくる、あの死に損ないに、復讐できるのだ。

 ビルの九階、窓を開けて、何もない空間に飛び出す。重力がぼくをずっと良いところへ連れて行ってくれるだろう……

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旅人 @tabito

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