短編小説「わたしね、さか屋さんになるの」
ボルさん
ショートショート完結
「わたしね、さか屋さんになるの」
五歳になったばかりの娘、のんちゃんが話しかけてくれる。僕はのんちゃんと手をつないで海岸沿いの坂道を散歩していた。
「へー、のんちゃんは酒屋さんになるの? パパもママもお酒をほとんど飲まないのになぜ?」
「違う、さか屋さん!」
のんちゃんが僕の手を引っ張る。そんな反応でさえ無条件で可愛いと思う。
「え、さかな屋さんかい?」
怒ったような反応が可愛かったので、もう一度とぼけてみた。
「もー。さか屋さんよ! 今のぼっている坂のこと」
ちょっと照れながら言い終えると、僕に坂屋さんについて説明してくれた。まず、坂屋さんに入るとこう聞かれるそうだ。
「いらっしゃいませ。上り坂にしますか? 下り坂にしますか?」
なんでも上り坂は辛いけど達成感を期待できるし上っていくと景色がよく見えるらしい。
一方、下り坂は、楽だけどあっという間に下りきってしまう。爽快感が期待できるようなことを言っているのでどうやら自転車での話みたいだ。
僕は山登りをする時、下りの方が使う筋肉が違って辛いと感じることがある。深く考えたことはなかったが、目標に向かっていくという意味でも上り坂が好きなのだと思った。
手をつないで歩きながらのんちゃんの好きな、おままごとのようなこの会話を続ける。
「上り坂でございますね」
レストランでステーキの焼き具合を聞かれるように、
「傾き加減はどのくらいに致しますか?また、距離はいかがいたしましょう」
なんて聞かれるかもしれない。
「おすすめの上り坂の角度や距離はありますか?」と聞いてみた。
のんちゃんはにこやかに笑いながら「虹の角度がよろしいかと……」と答える。
僕はてっきり四十五度くらいとか言う答えを予想していたのだが、まだ幼稚園児ののんちゃんには、角度の数字なんてわからないことだろう。それにしても「虹の角度」というのは洒落ている。
「ただいま上り坂はキャンペーン中でして、スタートする坂の位置を決めることができます。上り始めが良いですか、途中が良いですか、それとも上り切る直前がいいでしょうか」
例えば、富士登山で一合目からゆっくり登っていくのか、五合目まで車で行ってから徒歩で登るのか、あるいはヘリコプターで頂上ギリギリのところに下ろしてもらうか、どれが一番自分にあった上り坂になるだろうか。体力や目的意識、年齢によっても違ってくることだろう。
もしかしたら人は自分の位置する場所がわからないからこそ「どんな坂を歩いていて、その先に何があって、どのくらい長いんだろう」を無意識にも知りたがるのかもしれない。
「それでは、途中からスタートしたいのですが……」と僕が言うと、
「かしこまりました。今回はさらに特別キャンペーンでエベレストの途中に下ろして差し上げます。おめでとうございます」
のんちゃんはカラカラと笑いながら手を引っ張って坂道を登り始めた。
「デザートは何にしますか?」
屈託ない笑顔で聞いてくる。
「おまかせします」
このまま娘と手をつないで一緒に歩けるのはあとどれくらいだろうか。
のんちゃんは自分たちが歩いている坂を指さしていた。長く伸びた二人の影が坂にくっきりと映っていたのである。それはまるで溶けたチョコレートのような影が坂にトッピングされているようだった。
海風が肌に涼しい。坂を上り切ると水平線を見ることができる。丸い地球のシルエットがそのまま坂道を想像させる。
水平線のような坂道……。
(そうか、僕たちはずっと坂道を歩いているんだね)
のんちゃんの目には父親である僕が今歩んでいる坂道がどのように見えるのだろう?
そして、のんちゃんはこれからどのような坂を選んでのぼっていくのだろうか?
いつの間にか空には虹が出ていた。
それは今にも駆けあがっていけそうな角度の虹であった。
おしまい
短編小説「わたしね、さか屋さんになるの」 ボルさん @borusun
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