12

 気づけば声が出ていた。同時に、全身に鋭い痛みが走る。

「痛っ! なん……だこれ……。痛い……!」

 生きている。だがこれでは、出血多量どころか激痛でショック死するのではないか。痛い。痛すぎる。あまりの痛さに目から涙があふれてくる。涙でぼやけて前もよく見えない。

「おっ。気がついたか?」

 ぼやけた視界で前を見ると、真っ黒いなにかがいる。これは何だろう。

「そうか。死神か。僕を迎えにきたんだな。天国でも地獄でも連れて行ってくれ」

「そうです。私が死神です……って何やらせんだ、バカ! 寝ぼけてんのか!」

 震える腕をなんとか目元にやり、痛みをこらえて拭う。目の前にいるのは、黒いスーツと紺色のネクタイを締めた若い男だった。その見慣れた姿に少しホッとする。

「ごちそうさまでした!」

 幽霊は、良い笑顔でそう言い放った。

「死ね! 死んじまえ!」

 僕は痛みも忘れて大声で叫んでいた。傷口がまた開いた気がする。

「残念だったな。俺はもう……死んでいる」

 そう言ってまた笑った。だが、その姿に少しだけ違和感を覚える。

 以前は、本物の人間と見間違えるほどはっきりと見えていた。けれど今は全身薄く見える。涙を流しているせいか、血を流し過ぎたせいか。それとも憑依合体のせいか。色々な考えが僕の頭をよぎっていく。

「あー、心配するな。お前に原因があるわけじゃない。俺に原因があるんだから」

 慌てる僕に幽霊が声をかけてくる。どういうことかと尋ねる。

「最初に言っただろ。三人を救ったら成仏すると」

 確かに言った。ということは、あかねはもう救われた。無事ということなのか。

 激痛が走る体を引きずりながらなんとか布団に寄って彼女にキスする。新たな痛みは感じない。

「さて、これでこの世への未練もなくなったから。そろそろ逝くわ」

 幽霊は、一仕事終えた後のように大きく伸びをした。

 その時、ほんの少しだけ体が浮かぶ。

 だが、そんな軽い調子で成仏させてやるものか。

 お前には、まだ言うことがあるのだ。


「冥土の土産に、お前のレッテルを当ててやろうか?」


 僕の言葉にビクッと幽霊が反応した。それから真面目な顔つきでこちらを見る。

「レッテル? 生身の人間じゃあるまいし、幽霊にそんなものあるのかよ」

「あるよ。僕も最初は信じられなかった。だけど、今ならハッキリと分かる」

 僕も真剣な眼差しで見る。彼は観念したのか、諦めたように言う。

「いいぜ。お前の推理を聞かせてみろよ」

 推理というほどの物ではない。

 なぜなら答えは、最初からこいつが出しているのだから。

「初めて会った時、お前は自分のことをこう呼べと言ったけど、覚えているか?」

「ああ」

「それがお前のレッテルだよ」

「ああ……そうか……そういうことか」

 幽霊は、俯いてその場に座り込んだ。

 その表情は見えないけれど、何となく察する。

「記憶をなくしているのは本当かもしれないけれど、無意識のうちに出たんだろう」

 幽霊は何も言わない。だが僕は話す。聞きたくなくても話してやる。

「最初はそうだと思わなかった。だけど、今までの行動や言動でも気になるところがあった」

 雪森先生の郷土史研究の副業が公務員の副業にあたらないと指摘したこと。

 秋功学園のクラス分けや授業カリキュラムに興味を示したこと。

 教師のことをわざわざ教諭と呼んでいたこと。

 背後霊は背中を取られると成仏すると嘘をついていたこと。

 背中を見せないように過ごしていたこと。

 幽霊のレッテルを言うたび、彼が姿を見せなくなること。

 僕はすべて伝えた。

「それから教育に暴力を持ちこむなと熱く語ったり僕のことを生徒と言ったりしたから」

「ああ、クソ。俺はバカか。それともアホか。バレバレじゃねぇか。気づかない方がおかしい」

 幽霊は顔を隠したまま悔しそうに毒づく。

 本当は昨日洗面所で姿を現した時、浴室の鏡に彼の背中が見えていたから。だがそれは、黙っておくことにした。そのことを伝えたら恥ずかしくてすぐにでも成仏しかねないから。

「生前の記憶、思い出したんだな。自分探しの旅は、いつ頃終わったんだ?」

「つい最近だ。ふかふかちゃんを救った翌日。洗面所でお前に呼ばれて消えた時だな」

「消えている間、お前はどこにいたんだよ」

「近くにはいた。だが、俺自身が黒い影に覆われて姿を現せなかった。やはり黒い影は、その人間の心の傷やストレス、後悔や未練なんだろうな」

 生身の人間ならストレスを抱えすぎて精神を病んだり、引きこもったり、自傷行為に走ったり、最悪の場合は死を選んでいたかもしれない。そう考えると、黒い影に全身を包まれた蒲原は、かなり危なかったということか。そして幽霊が大丈夫だったのは、すでにこいつが死んでいるからか。

「俺が幽霊じゃなかったら、今頃黒い影に包まれて死んでいたかもな」

 僕が考えていたことと全く同じことを言うので思わず笑ってしまう。

 いてて、傷口が……。

「幽霊は秋功学園の教師だったのか? それか秋葉市内のどこかの高校の教師?」

「秋葉市なんて町は聞いたことがない。それに俺は、正確には教員ではないんだ」

 どういうことだろう。彼の背中に貼られたレッテルには、確かに……。

「半分正解で半分不正解。生前の俺は、正規採用の教員を目指していた高校講師だった。でも、まさかそれがレッテルになるとは思いもしなかったぜ」

 幽霊が顔をあげる。その表情は、初めて見たと言えるほど悲しげだった。

「子どもの頃からずっと教員に憧れていた。子どもに勉強を教え、夢や希望を与えられるような教員になりたいと思って努力し続けた。大学も教育学部に進学して教育実習にも行った」

 とても懐かしそうに話しているのに、表情は悲しげなままだ。

「だけど、大学卒業時の教員採用試験には落ちた。倍率が高い試験だ。初回で合格する奴は、ほとんどいない。何度も受ける奴の方が多い。それでも大学を卒業すれば教員免許は持てるから、どこかの学校で講師をやりながらまた来年受ければいい。そう思っていた」

 声にも悲しみの感情が帯び始めている。僕は、黙って彼の話に耳を傾ける。

「この国は、どこも子どもが減っている。子どもが減れば学校の生徒数も減る。そうなれば一学年のクラスの数も減る。クラスが減ればクラス担任の教諭も減る。そうなれば当然、採用する教員の数も減らすよな。だけど教員は、いつの時代も人気のある職業だ。志望者は、たくさんいる。だから正規採用の教員の枠が減ったのに、講師の枠も減らないわけがないよな……」

「じゃあ幽霊は、講師にすらなれなかったの?」

 幽霊は弱々しく首を横に振る。

「非常勤だが、公立高校の講師の枠をなんとか見つけた。でも、正規の教諭ではないから給料も待遇も良くない。一年契約で次があるかも分からない。だから、空いた時間に家庭教師のアルバイトもしていた。非常勤の高校講師は、副業が認められているからな。将来への不安と日々の忙しさに襲われながら毎日必死に働いて、気づけば二度目の教員採用試験が迫っていた」

 彼の体がまた薄くなった気がする。けれど顔色だけは、とても悪いように見える。

「二度目の試験もダメだった。だが、同じ高校でまた講師として勤められることになって少しホッとした。それ以上に大きな不安が襲ってきた。この先、ずっと試験に受からなかったらどうしようか。三十代、四十代、下手したら五十代になっても講師をやっている人もいる世界だ。講師なのに好きな人と結婚して子どもまで作った人もいる。すごいわ、本当に。俺には……できない」

 幽霊から嗚咽の声が漏れる。

「次こそは、と思って仕事に励んでいる時、一本の連絡が入った。大学時代の友達からだった。話を聞いていたら、正規採用の教員として働いていた同じ大学の友人が亡くなったって……」

 僕は、何と声をかけたら良いか分からなかった。

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