5
三回目のボランティア活動の日、職員室に寄って蒲原の担任教師に話を聞いてみる。
僕は、引き続き宜しくお願いします、と言い残して職員室を出た。
「なかなか理解を得られないな」
幽霊が話しかけてきたので黙って頷く。それから周りに誰もいないことを確認して話す。
「男性恐怖症を克服させて、制服を着られるようにするのが一番いいんだけど」
「そのことなんだが……。あの子のレッテルは【春】なんだよな」
「そうだよ。【春】と書かれた一枚だけ。それ以外のレッテルは貼られていない」
立ち止まって幽霊の方を向くと、難しい顔をして考え込んでいる。
「あの見た目だから男を惹きつけるのも分かる。そのせいで三年の女子生徒からビッチ呼ばわりされているのも分かる。だが、あの子のレッテル【春】が男性恐怖症を意味しているとは、俺にはどうしても思えないんだ」
「周りの奴らが、あいつは誰にでも簡単に体を許す、売【春】すると決めつけてレッテルを貼りつける。そのせいで言い寄られたり変な目で見られたりしたら男性恐怖症にならない?」
出会った当初は、僕と目を合わせて話すことができなかった。けれど、今ではしっかりと目を合わせて話せている。それは、男性恐怖症が少しずつ克服できているということではないのだろうか。
「黒い影は今も大きいままだ。入学したばかりの頃と全く変わっていない。ストレスの原因が男だと仮定して、少しずつ慣れてきたのなら黒い影が小さくなってもいいはずだ」
幽霊の真面目な意見に耳を傾ける。確かにそう言われてみればそうかもしれない。
「初めて指導室から出てきた蒲原を見た時、レッテルの文字は太く大きくなっていた」
その時は元々のサイズを知らなかった。けれど、知り合ってしばらく観察するうちに、文字の太さや大きさが変化していることに気づく。今はレッテルの文字は細く、小さくなっている。つまり最初に会った時の彼女は、何かが原因でレッテルを意識していたことになる。
「今までに蒲原の黒い影が大きくなった時は、どんな状況がある?」
僕が尋ねると、幽霊は真剣な表情をしながら思い出す。
「真実といっしょに指導室の前の廊下で会った時、嘆願書の件で指導室に入った時だな」
「その二回だけか」
「その二回に共通しているのは、指導室……教諭……いや、指導室じゃなくて学校か?」
「そういえばあの時はどうだったんだ。三年生の女子に囲まれた時」
また幽霊が腕を組む。今度は、思い出すのになかなか苦労したのか時間がかかる。
「あの時は確か……大きくなっていなかったな」
意外だ。「ビッチ」なんて直接的な単語が出ていたのに。どういうことだろう。
「まずいな。人が来そうだ」
霊的な勘が働くのか、こいつは人の気配にすぐ気がつく。
窓の外を見るようにして誰かが通り過ぎるのを待つことにした。少しずつ足音が近づき、僕の背後まできた。そのまま遠ざかっていくと予想していたが、音はそこで止まってしまう。
「あの、
その声を聞いてすぐに誰か分かった。幼い頃からずっと聞いてきた声だから。
「何ですか、栃尾さん」
僕は振り向かずに尋ねる。
「大丈夫……ですか?」
彼女のか細い声が耳に届く。
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
大丈夫だから。
蒲原を救ったら次は……。
「でも、顔色が……」
「栃尾さん。ここは家じゃない。学校だよ」
「すみません……。失礼します」
小さな足音がして少しずつ遠ざかっていく。
その音が小さくなっていくにつれて、胸が締めつけられる気がした。
「お前、やっぱりなにかあっただろ」
「ごめん……」
「だったらあの子のことを……」
「だから、ごめん。いずれ話すから。今は聞かないでほしい……」
あの子のことも大事だ。けれど今は、蒲原の方を優先しよう。
レッテルの犠牲者をこれ以上増やさないために――。
「ごめん。待った?」
待ち合わせに遅れた人は大体こんなことを言う。謝罪の言葉にしては軽いと思うけれど。それを謝罪の言葉として受け入れてくれるかどうかは、待たされた人次第である。
「待ちました。早く行きますよ、先輩」
どうやら受け入れられたようだ。心の広い寛容な後輩に感謝である。
ボランティア団体の事務所には、内勤スタッフが数名と蒲原がいるだけだった。他の人達は、すでに駅前に向かったというので僕らも急いで向かうことにした。今日は、前回と違って晴れている。雨が降る心配もなさそうだ。
秋葉駅に向かって商店街を進んでいく。屋根があるので太陽の日差しがこちらには届かない。商店街の曲がり角まで来ると、僕らは左へ方向転換する。
遠くに秋葉駅の大きな駅舎が見える。腰をかがめてゴミを拾っているボランティアスタッフの姿もなんとか見えた。
八百屋、文房具屋、閉店したラーメン屋、レコードショップ、空き店舗、床屋、居酒屋、空き店舗……。秋葉駅に向かって歩きながら並んでいる店を確認していく。以前よりも営業している店が減った気がする。
「地域格差……地域差別……」
「え?」
「東と西で逆転しちゃいましたね」
「あ、ああ……そうだね」
少し見上げて彼女の顔を確認するが、暗くもなく明るくもない。淡々と語っている印象だ。
「先輩。知っていますか?」
「なに?」
「昔は、西で生まれて西に住んでいるというだけでいじめられた人もいるそうです」
「そうだね。昔は東の家の女性が西の家に嫁ぐなんて言ったら絶縁されたらしいよ」
「それなら西の女性が東の家に嫁いだら玉の輿ですか?」
「いや、そんな縁談はなかったんじゃないかな」
「悲しいですね。それなら駆け落ちするしかないってことですか」
話しているうちに秋葉駅の前まで来た。あとは、この横断歩道を渡るだけだ。空を見上げると、駅舎の上部に大きなステンドグラスがはめ込まれていることが分かる。
「なんだぁ。おい。一瞬だが、ふかふかちゃんの黒い影が大きくなったぞ!」
幽霊の声を聞いてすぐに蒲原の背中を見る。だが、レッテルの文字に変化はなかった。
残念ながら彼女がなにに反応したのか、見分けることができなかった。
「それともう一つ思い出した。あの子の黒い影が大きくなっていた時があったんだよ」
信号機の色が切り替わった。僕と蒲原は、並んで歩き始める。
「入学式だ」
学校、指導室、教師、入学式――。
黒い影の発生原因、レッテルを意識する原因の共通点は何だ。
早く見つけないと大変なことになる。そんな予感がした。
「すみません。遅れてきた先輩を連れてきました」
「申し訳ありません。これからすぐに始めます」
僕と蒲原は、清掃ボランティアの責任者に頭を下げる。自分だけが謝るならまだしも、彼女にも頭を下げさせてしまって非常に申し訳ない。
「今日は、人が少ないからどうしよう。そうだ、二人には0
「あっ!」
幽霊が声を発した瞬間に背中を見た。
一瞬にして蒲原のレッテルの文字が太く大きくなる。【ズレ】と言われた時の津川先輩のレッテルもこんな風に変わったのだろうか。
「ああ、ごめんごめん。若い子には分からないよね、0番街なんて言っても」
この人に非はない。彼にしてみれば冗談や軽口のつもりだったのだろう。
だがこれ以上何も言わないでほしい。口に出せば出すほど彼女が傷ついてしまうから。
「いえ、分かります。秋葉駅の西側、都会側のことですね」
「君は男の子だからいずれお世話になるか……なんて彼女の前で失礼だったね。あはは。ごめんごめん」
そろそろ黙ってほしい。
口を閉じてほしい。
僕の愛想笑いにも限界があるのだ。
「あれ、そういえば君。もしかして【秋 ……」
「じゃあ、僕らは西口側を清掃してきます。失礼します!」
意気消沈する蒲原の手を引いて秋葉駅の改札へと続く階段を上っていく。その先にはステンドグラスがはめ込まれた壁がある。外からでは何が描かれているか分からない。だが、内側から見れば蒸気機関車だと分かる。赤青黄といった色鮮やかなガラスで表現されている。
「秋葉駅の東口と言えばこれだよね。蒲原は、通学路だから毎日見ているの?」
「はい……」
返事はしてくれた。けれど表情が暗い。
僕は、つないでいた手を離して西口に移動しようと促す。彼女は、黙って頷いた。
駅の改札と売店を通り過ぎると、自由通路の左右の壁がガラス張りに変わる。この真下には、何本も線路が通っている。僕には、どれが0番線なのか見分けがつかなかった。
黙って歩き続けて西口に下りる階段までたどり着いた。こちらには、大きな銅像が置かれている。何を模して創られたのか判断に困る。イルカのような生き物と三日月のような物体がくっついている。
「蒲原は、この銅像が何に見える?」
登下校で毎日見ているだろう彼女に尋ねる。少し考えてから口を開いた。
「イルカと……すごく大きな枝豆?」
「あはは。イルカは分かる。でも、枝豆って。あはは」
「そんなに笑わないでくださいよ。枝豆は、県の特産品だから良いじゃないですか」
蒲原の声に少しだけ元気が戻ったと分かる。さりげなく背中を見たら、文字も通常のサイズに戻っていた。
「先輩。夕日が綺麗ですね」
ふいに蒲原が窓の外を指さしてそう言った。
西口側は、ステンドグラスではなく透明なガラスだ。だから遠くまで見渡すことができる。
「本当だ。真っ赤な夕焼け」
彼女の髪も夕日をたくさん浴びて赤みを増している。それは見惚れてしまうほど美しい。
「先輩には、将来やりたい事やなりたい職業がありますか?」
沈む夕日を見つめたまま、蒲原が問いかける。
僕は少しだけ考える。だが、全く思いつかなかった。
「決まっていない。今は、大学進学を検討している程度かな」
そういえば僕は、今までに夢や目標を持ったことがあっただろうか。
「大丈夫ですよ。一組の先輩ならきっと良い大学に行けます」
「あはは……。ありがとう。蒲原は大学に行くの?」
秋功学園の生徒の大半は、進学を選択する。昔は、この国の最高学府に進学する者も多かった。今でも毎年数人は合格している。田舎の私立高校にしては上々な成果ではないか。
「無理ですよ。あたしは【落ちこぼれ】が集まる六組生ですから」
「それは僕のことだ……」
「え?」
まずい。声に出してしまった。なんとかごまかそう。
「いや、それより蒲原にはあるの? やりたい事やなりたい職業が」
「やりたいことは特にありません。でも、将来なる職業はあります」
将来なる職業?
なることがすでに決まっているということか。
もしかして蒲原のご両親は自営業なのかな。
話の続きを待っていると、彼女はこちらに背を向けて階段を下り始める。僕はその背中から目を離すことができない。階段の途中で立ち止まり、こちらを向かずに答えてくれた。
「【娼婦】です」
耳を疑った。いや、僕の聞き間違いかもしれない。あまりにも馴染みがない単語だから。
「ふかふかちゃん。今、【娼婦】って言わなかったか?」
そちら方面の言葉に造詣が深い幽霊も疑問に思ったらしい。聞き間違いではなかったのか。
「先輩は【秋葉】の生まれなんですよね?」
蒲原が僕に尋ねる。そういう意味で聞いたのではないと分かっていても答えに躊躇する。
「……そうだよ」
偶然にも最悪なことに、僕は【秋葉】の家に生まれてしまった。偶然にも最悪な少年だ。
「あたしの母親は、0番街で働いていました」
「……」
「秋葉市に生まれた人で、男の先輩なら……この意味、分かりますよね?」
ああ、そうか。そういうことか。僕は、とんでもない勘違いをしていた。
「だからあたしは、
名前嫌い。ほんの少しだけ親近感を覚える。
それにしても……。
笑えない……。
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