第二章【春】

 もうすぐ五月に入るという頃、図書室は昼も放課後も混雑している。

 間もなく今学期初めての定期試験が実施されるからだ。

 図書委員長の津川先輩曰く、この時期は毎年忙しいという。昨年、僕が入学した年の同じ頃もそうだった。僕が昼休みや放課後に図書室へ寄ると、当番でないのに図書の整理や貸借手続きの仕事を任されたものだ。

「次にお前に救ってもらいたいのは、一年生の女の子だ」

 図書室へと続く渡り廊下を歩いている時、幽霊から次の救済対象者を告げられた。その他の情報を待ってみたが、それ以上何も教えてくれなかった。


「一年生の女の子って……それだけ?」

 秋功学園は一学年六組。一組に四十人ほどの生徒がいるから、最低でも二百四十人はいる。その中から『女子生徒』という情報だけを頼りにどう見つけろというのか。

「大丈夫だ。その子の顔は俺が知っているし、彼女は目立つからすぐに見つかる」

 幽霊は、自信ありげにそう言った。

「目立つってどういう意味?」

「ブレザー姿なんだよ、その子」

「は?」

 足を止めて後ろを振り返ると、幽霊も浮遊を止めて地に足をつける。

 いつ見ても不思議な光景だ。姿がくっきりと見えるから幽霊だと思えない。

 だが、僕以外の人間には見えていないから信じざるを得ない。

 僕から見える幽霊の姿は、黒いスーツ、白いワイシャツ、紺色のネクタイ、二十代半ばの男。少し疲れた表情をしている。生前は何をしていたのか、どうして死んだのか、どうしてこの学校に現れたのか、僕には皆目見当がつかない。そしてどういうわけか、黒い影が見えるという特殊能力まで持ち合わせている。これは、死後しばらくしてから身についた能力らしい。

「そんなに驚くことかよ。真実も一度見かけたことがあるはずだぜ。お前が初めて俺を見た日、校門でぶつかりそうになったあの日、その子は校門でトラブってたからな」

 あの時の子か、と納得する。その日のことは、今でもしっかりと覚えている。忘れたいけれど、嫌でも覚えている。しかし、あれから随分と日が経っているのに制服を着ないなんて……。

「この学校で校則違反をすると最悪の場合、退学もあるよ」

「マジか。そんなに厳しいのかよ、この学校」

 幽霊が目の前に移動してきた。その顔には、驚きと呆れのような感情が出ている。

「制服を着ない程度なら軽いと罰で済むと思う。それでも一週間の停学もしくは奉仕活動かな」

「やけに詳しいな。もしやお前、校則マニアか? お、前から誰か来るな」

 幽霊は、僕の目の前から姿を消した。


 かわりに前方から歩いてくる女子生徒の姿が見える。長い黒髪を揺らして歩く彼女は見知った顔だった。

 すれ違うところでほんの一瞬立ち止まって彼女は頭を下げる。

 僕は気づかないふりをしてそのまま直進した。決して後ろは振り返らない。

 図書室の出入口の戸に手をかけたところで、幽霊がまた話しかけてきた。

「なあ。さっきすれ違ったあの子と何かあったのか。もしかして、昔の女か?」

栃尾とちおさんは恋人でも何でもない。ただのクラスメイトだよ」

 慣れてきたとはいえ、背後から突然話しかけられると体が硬直する。

 しかもそれがスーツ姿の男だから暑苦しいというか気分が悪いというか。しかし、仮にこいつの見た目が女だったとしても幽霊なのだから気分の悪さは同じか。

「すれ違う時に目を逸らしたろ。あの子のレッテルは、正面に貼ってあるのか?」

 よく見ているなと感嘆の声をもらしそうになる。

 しかし、何と答えたら良いか。

 彼女は小学校からの幼馴染で、訳あって僕の家に同居していて、過去に色々あって顔を合わせ辛いと説明して納得してくれるだろうか。

 無理だろうなぁ。嘘をつくな、と罵倒されることが目に見えている。

 あれこれ悩んでいるうちに、しびれを切らした幽霊が話しかけてきた。

「今は理由を聞かない。だが、いずれ話す時がきたら教えてくれ」

 いずれ、か。

 こいつは、黒い影を持つ生徒を三人救ったら成仏すると約束している。つまり成仏する前に話す時が来るということか。だが、黒い影を持つ生徒を三人救うと聞いた時からなんとなく予感はしていた。

 僕は黙って頷くと、図書室の戸を開けた。

「それにしてもセーラー服に黒髪ロングの組み合わせは最高だな。だが俺は、ブレザー派だ!」

 こいつに話す前に僕一人でなんとかしよう。ああ、そうしよう。


 図書室に入ると、本を持った生徒達が図書カウンターの前で長蛇の列を作っていた。図書委員になったばかりの一年生の男子が必死に一人で業務をこなしている。本来ならもう一人当番がいるはずだが、彼以外の図書委員の姿が見えない。今日は僕の当番ではないけれど仕方ない。

「お次にお待ちの方。どうぞー」

 自ら図書カウンターに入って生徒から本を受け取ると、汚れや破損がないか確認し、返却手続きを完了させる。次に待っていた生徒から本と学生手帳を受け取ると、貸出カードに書かれた情報に誤りがないか確認する。

「はい。結構です。それでは、来週までにご返却ください」

 横目で確認すると、男子生徒も落ち着いてきたのか、先ほどよりも早く作業を進めている。長かった列もあと数分で解消するだろう。そう思いながら僕は、次の生徒から本を受け取る。

「ありがとうございました。先輩のおかげで助かりました」

 図書カウンターで孤軍奮闘していた男子生徒が小声で感謝とお礼の言葉を述べてきた。

 気づけば長蛇の列はなくなり、図書カウンターにやってくる生徒もいなくなっていた。

「後輩を助けるのが先輩の役目だから。気にしなくていいよ」

 僕は笑顔を作って言ってみせた。背後霊が野次を飛ばしてきたけれど、聞き流した。

「ところで、もう一人の当番の図書委員は?」

「今日は休みです。なんでもアイドルとしての仕事があるらしくて」

「え、アイドル? この学校の生徒で?」

 この地方都市で、この古臭い学校で、全く聞かない単語が出てきたので思わず尋ねる。

「はい。僕と同じ一年の女子生徒にいるんですよ。といっても、秋葉市や万代市を拠点に活動するご当地アイドルですけどね」

 まさか格式や伝統にこだわるこの学校に、アイドルが入学する日が来るとは。推薦入試の選考基準が変わったか、ゆるくなったか。それとも一般入試で入学したのか。

 だが、この話題はちょうど良い。同じ一年生だから知っているかもしれない。

「同じ一年生で違う意味での有名人がいると思うんだけど、その子のことは知らない?」

 僕がそのことを口に出した瞬間、彼の顔が曇った。話題にしてはいけない存在なのか。


「もしかして……蒲原かんばらのことですか?」


 嫌そうな顔をしながら重い口を開く。

 蒲原、確かに彼はそう言った。それがブレザー姿の女子生徒の名前だろう。

 だが、嫌そうな顔をする理由が分からない。

「その蒲原さんとは、同じクラス?」

「クラスは別ですけど、同じ中学校に通っていました。でも、あいつがどうかしました?」

 一年生男子が訝しげにこちらを見てくる。

 顔も名前も知らない。接点が何一つない。そんな一年生女子のことを尋ねたのだから当然か。僕は、落ち着いて用意していた答えを返す。

「いや、校内で何度か見かけただけ。ただ、どうしてブレザーを着ているのかと思って。ほら、秋功学園は校則が厳しいから下手したら停学処分を受けるんじゃないかなぁと思ってさ」

 ブレザーがレッテルや黒い影に関係しているのかどうか知りたいのだ。


 幽霊は、黒い影を確認しているから救済対象だと言う。

 だが僕は、まだ彼女のレッテルを確認できていない。

 何度か校門付近で注意を受けているところを見たけれど、今日まで救済対象だと知らされていなかったので気にも留めていなかった。校則に違反して平然としているから【不良】【ヤンキー】あたりではないかと思っている。

「あいつは母子家庭で、お金がないから制服を買えなかったのかもしれませんね。あ、違う。途中で母親が再婚して苗字が変わったから、今は母子家庭じゃないです」

 彼からの情報を整理すると、ブレザー姿の一年生の女子生徒の名前は蒲原。母子家庭で経済的に貧しかった可能性あり。母親が再婚して新しい父親ができた。

 制服を着ない理由は、金銭的理由ではないと思う。そもそも制服が買えないのなら、私立の高校に入学することさえできないはずだ。入学金と授業料は払うことができたのに、制服を買えないなんてことはないだろう。

 だとすると、母親の再婚あたりが原因だろうか。彼の話しぶりからすると、金銭的に豊かな家庭環境ではなかったようだ。それが再婚したことで金銭的に余裕ができ、この秋功学園に進学した。しかし、継父への不信感や反発心があるのか、彼に買ってもらった制服が気に入らないからブレザーを着ているのかもしれない。現段階ではこの程度の推測しかできない。

「ありがとう。じゃあ、僕はそろそろ戻ろうかな」

 当番でもないのに昼休みに図書室に来たのは、同じ一年生からブレザーの女子生徒のことを聞くためだ。同じ中学校出身の生徒から話を聞けるなんて大当たりだ。

「はい。こちらこそありがとうございました。でも、蒲原はやめておいた方がいいですよ?」

 去り際、僕の背中にそんな忠告をかけてきた。

 その意味を聞こうとしたが、また図書カウンターに人が集まり始めたので断念する。


 別館の図書室から渡り廊下を通って本館に戻ってくる。廊下に人の姿はないので幽霊に推論を聞かせる。概ね納得して、彼も自分の意見を出してきた。

「俺が幽霊だと自覚したのは、今年の三月頃のことだ。それから間もなく黒い影が見えるようになった。このことは以前にも話したよな?」

 具体的な時期を聞いたのは初めてだが、僕は同意の意味を込めて深く頷く。

「すでに黒い影を抱えていて、だんだんと大きくなってきたのが二人」

「二人? ああ、そうか。三月はブレザー姿の一年生、蒲原さんが入学する前か」

「メガネちゃんともう一人は、元々は小さかったはずの影が少しずつ大きくなっていったんだ。だけど、ブレザーの子は違う。すでに大きかったんだよ。あまりの大きさにそれはもう驚いた」

 僕は幽霊の話を聞いて、蒲原という子がどれほど深刻な悩みを抱えているのかと不安になる。これは、早めに彼女を見つけて接触しないといけないかもしれない。


「失礼します!」


 大きな声と共に女子生徒が教室から出てきた。

 そこは、指導室と書かれたプレートが掛けられている。主に進路の相談や校則違反者を指導するための教室だ。その生徒の姿を見て、確かに指導対象になるわけだと納得する。

 同時に、自分は幸運だと思った。

「やはり大きいな。あんなサイズ見たことないぞ」

 幽霊は、こちらに背を向けて歩いていく彼女を見ている。

 おそらく黒い影のことを言っているのだろうが、身長の方も大きい。女子高校生の平均身長は軽く超えている。そのスラっとした立ち姿に、ブレザーがとても似合っていると思った。

 突然の出会いに見惚れてしまっていたが、彼女の背中に貼られたレッテルを確認する。だがそこには、僕の予想と大きくかけ離れた文字が書かれていた。


「【春】……?」


 文字通り、季節を意味する単語だ。

 決して荒くれ者や規則違反者を意味するものではない。

 てっきり【不良】【ヤンキー】のようなレッテルが貼られていると思っていた。

 不良者のレッテルとしては、あまりにも不釣り合いで珍しい。

 だが、それで思わず声に出してしまったのはいけなかった。

 彼女はこちらに気づいて体を反転させる。そして不機嫌そうな表情で、こちらにつかつかと向かってくるではないか。


「何か用ですか?」


 目の前に立つと、こちらを睨みつけるように見下ろされる。

 僕よりも頭一つ分くらい大きい。だが今はそんなことどうでもいい。

 レッテルを見ていたとは言えるわけがない。

 僕が黙っていると、彼女はさらに口を開く。


「今、あたしの名前を呼びましたよね?」

「え? 【春】って……君の名前?」

 まさかレッテルが彼女の名前だとは思わなかった。僕は慌てて弁解する。

「いや、ごめん。そんなこと知らなくて、ただ何となく【春】だなぁと思ったから」

 我ながら苦しい言い訳だと思った。

 けれど、今が夏や冬でなくて良かった。

 四月末なら【春】と言ってもおかしくないはずだ。


「あたしの前で【春】なんて言わないで!」


 彼女の目つきがさらに鋭くなった。

 貼られたレッテル、彼女にとっては名前を言っただけでこの怒りよう。

 いったい【春】には、どんな意味があるというのだろう。


「簡単にヤレると思ったら大間違いだ!」


 彼女の叫び声が廊下に大きく響き渡る。

 それからまたくるりと反転して去っていく。

 そのレッテルの文字は、太く大きかった。

「な、大きかったろ?」

 呆然としている僕に幽霊が話しかけてきた。

「しかしデカイなぁ。Eか、いやFはあるかもなぁ……」

 幽霊が両手でその大きさを再現し始めたが、僕はなにも言えなかった。

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