その52:珊瑚海は燃えているか? 8

 スロットルを限界まで叩きつけた。

 1000馬力近い出力を発揮する栄12エンジンが唸りを上げた。


 古溝飛曹長は獰猛な笑みを口元に浮かべていた。

 その前方視界、キャノピーの向こう側には200機を超える艦上機の群れがいた。


 彼は一瞬だけ後方を振り返る。彼の列機はきちんと追従してきた。

 対気速度は250ノットを超えている。そして、ジリジリと速度を上げていた。

 やや、降下気味に突っ込む。零戦21型の翼がビーンと唸りを上げ始めた。

 操縦桿が重いがどうでもよかった。機銃をぶっ放して突き抜けるそれだけを考えていた。


 とにかく、こちらは3機しかいない。出来るのは、この編隊を切り刻んでバラバラにすることくらいだ。

 護衛についている戦闘機を爆撃機から引きはがす。まず、それを考えた。

 そのために、遮二無二に突っ込んでいく。


 古溝飛曹長は、4年前に海軍を辞める決意をしていた。当時の上官とソリが合わなかったのだ。

 見た目と裏腹に、合理性を重んじる彼は、ゴリゴリの精神主義者であった上官、つまり航空隊司令と相いれない存在だった。


 ただ、海軍と時代が彼を手放さなかった。

 彼は、本土への転任となり教官配置。そして、今回の作戦直前で機動部隊への配属となった。

 

「ほう、気骨があるな」


 彼は感心の声を上げた。

 爆撃機にへばりついた戦闘機は、その位置から動こうとしなかった。

 敵戦闘機が迫ってくる中、突っかかってくることがないのは大したものだった。

 

 畢竟――

 戦闘機とは、敵の爆撃機を撃墜するのが目的の兵器だ。戦闘機をいくら撃墜したところで、爆撃機を落とせないのでは、何の意味もない。

 逆に言えば、護衛戦闘機の究極的な目的は、味方爆撃機を落とさせないことだ。

 これについても、敵戦闘機を落とすのは手段であって、決して目的ではない。


 自分たちが突っ込んでいく相手は、微動だにせず爆撃機を守るべく、空間を占拠している。

 なまなかな精神力で出来る物ではなかった。

 本当はこちらに気付いていないのではないか。そのような疑念すら浮かんでくる。

 しかし、曲がりなりにも空母に離着艦できる操縦士がそのような間抜けなわけがなかった。

 

「あくまでも、爆撃機を守るってことか……」


 古溝飛曹長は、スロットルレバーの機銃発射釦に指をかけた。


「敵機! 上!」


 雨音のような雑音に混じり、列機の声が聞こえた。

 佐久間二飛曹の声だった。

 機内無線機の通話スイッチを入れっぱなしにしていたのが幸いした。

 彼はフットバーを蹴飛ばし、機体を滑らせた。


 鼻先から焦げ臭い匂いがするくらいの至近を曳光弾が通りぬけていく。

 灼熱化したアイスキャンデーのような弾丸の雨が集束していく。

 

 黒に近い青い機体が吹っ飛ぶように降下していった。

 グラマンF4Fワイルドキャット。

 武骨な山猫だった。

 追いかける気もなかったし、物理的に追いつくこともできなかった。

 F4Fが本気で急降下したら、初期段階を除き、追尾するのは困難だった。


 古溝飛曹長は機体を立て直すと、軸線を敵編隊に向けた。ドーントレス編隊だった。

 零戦とドーントレスの空間に、別のF4Fが割り込んでくる。こちらに機首を向ける。やはり数が圧倒的過ぎる。周りは全て敵だった。


 撃つしかない。

 とにかく、撃ちまくって敵を擾乱する。


 真正面からの撃ちあいだった。

 構わなかった。機銃発射釦を押しっぱなしにして突っ込んでいく。

 7.7ミリと20ミリの火箭と、12.7ミリの火箭が交差する。

 

 ガガガアンッ――

 

 連続した破壊音。機体のどこかに機銃弾を食らったのだ。

 

「佐久間!」


 彼の視界の中に、真っ赤な炎に包まれた零戦を捉える。2番機の佐久間二飛曹であった。

 炎の塊となり、礫のように落下していった。


「ぬおぉぉぉ!!」


 古溝飛曹長は、操縦桿を目いっぱい引く。機体が急角度で上昇を開始する。

 太平洋の空で零戦だけが可能な、上昇だった。追従できる敵機はこの空には存在しない。

 失速寸前まで機体を引っ張り上げ、そこで、フットバーを蹴飛ばす、機体が崩れるように姿勢を変える。


 上昇からの反転降下――


 古溝飛曹長は、狂ったように叫びながら、機銃発射釦を押し続けた。


        ◇◇◇◇◇◇


「護衛戦闘機隊、敵機と接触。戦闘に入りました」


 電探情報を元に誘導された戦闘機隊からの連絡だった。

 この情報を得た、第一航空艦隊司令部の反応は様々だった。

 不安の色を隠そうとしなかったのは南雲司令官であった。


「源田参謀――」

 

 第一航空艦隊司令、南雲中将はまるで、預言者の言葉を待つ信徒のような目で源田中佐を見つめていた。

 古武士のような風貌と、水雷戦の権威として、その豪胆さを評価された男の姿はそこになかった。

 それは、どのような有能な人間であっても、人の能力には限界があることを示していた。

 ある局面で極めて有能な人間でも、別の局面では全くの役立たずになってしまうことがあるということだった。

 南雲司令官は決して無能ではない。そして、航空戦も経験している。

 少なくとも、現状の帝国海軍の中ででは、水準以上の機動部隊指揮官といえた。

 そもそも、機動部隊の指揮を経験した人間の数が圧倒的に少なかったが。

 その彼にしても、いや、航空戦を知っている彼であるからこそ、先手を取られたこの現状の危険性が分かったのだ。


「ここを乗り切れば、我々の勝ちです――」


 鷹のような相貌で真正面から、南雲中将を見つめていた。

 そこには、彼が多くの敵を作る原因となっている、過剰な自信というものが見えていた。

 だが、この局面では彼の自信は、可能性を示す、輝くクモの糸に見えた。


 しかしだ――


 南雲司令官は、この作戦の意味を考える。

 仮に、ここを乗り切り、敵空母撃滅に成功したとしよう。

 それでも、今の事態を考えれば、大勝利ではあるだろう。

 ただ、その結果、機動部隊が攻撃力を失ってしまった場合どうなるのか?

  

 ポートモレスビーにはまだ有力な航空戦力が残っている。

 地上基地との戦闘で、幾分被害を受けていると言っても、その存在は、上陸部隊を乗せた船団にとっては脅威以外の何ものでもない。


(分かっているのか源田参謀は――)


「ずいぶん、強気だが―― 航空参謀」


 草鹿参謀長が、あまりにも自信過剰に見える源田をたしなめるように口を開いた。

 すでに、第一航空艦隊は、蒼龍を失い、加賀は戦線離脱している。

 こちらは、敵空母に位置を露呈しているにもかかわらず、いまだに敵空母の所在を掴めない。

 更に、ポートモレスビー上陸を控え、敵基地の撃滅も必須事項となっているのだ。


 もはや、作戦は破たんしているのではないか。草鹿参謀長はそのような思考に行きついていた。


 当初からのこの作戦が、有効なシンプルさに欠けると草鹿参謀長は感じていた。

 第一航空艦隊に担わせる目的が多すぎるのだ。

 その不満が、ここにきて一気に噴き出たようであった。

 彼は、運よくここを切り抜けたならば、即時反転し、離脱すべきだと考えていた。

 今の状態はあまりに危険すぎる。


「二式艦上偵察機より入電! 『ワレ、敵艦隊発見。空母ラシキ物ヲ含ム』です!」


 それは、すでに沈んだ蒼龍に搭載されていた最新鋭機だった。

 雷撃を受けたときにはすでに発艦しており、喪失を免れていた。

 本来艦爆として開発され、「彗星」と名付けられることになる艦上爆撃機。

 その偵察機型であった。

 零戦21型を上回る550キロ以上の高速艦上機だった。

 1942年時点で、これ以上の速度の艦上機は日米ともに存在しない。


 この情報が司令部の空気を変えた。南雲司令長官の顔色が目に見えて変わった。


「さあ、敵空母を見つけました。次は、我々が攻撃し、奴らを海の藻屑にすればいいのです」


 源田参謀の過剰なまでの自信にあふれた言葉が、赤城の司令室に響いた。

 まるで、芝居ががったセリフだと、草鹿参謀長は思った。

 しかし、状況がこの男の言うとおりになりつつあるのも認めざるを得なかった。


 珊瑚海の空は刻一刻とその色を変えていた。


        ◇◇◇◇◇◇


「戦闘機に構うな、爆撃機だ。いいか、奴らを空母に近づけるな」


 雑音交じりの音であったが、その声は聞こえた。

 岩本一飛曹は、そのような指示をわざわざしなければいけない、現状を不安に思った。

 

 岩本徹三一飛曹。日中戦争からの歴戦の搭乗員だった。彼は瑞鶴戦闘機隊の第3小隊を率い、珊瑚海の空を飛んでいた。

 以前から、無線電話の改善を要望していた彼であったが、こんなことを指示しなければいけないのは情けないことだとも思った。

 しかし、現実に第一航空艦隊の搭乗員の技量は全般的に落ちていると思っていた。

 ベテランは疲労が重なり、また補充された未熟練搭乗員の技量は危なっかしいものがあった。

 岡嶋大尉からの指示はその意味でも、妥当といえば妥当なものであった。

 実際に、戦闘機に飛びかかっていく、奴が後を絶たないのだ。


 彼は空戦に対し、凄まじく冷めた。現実感覚を有した男であった。

 戦争とは自分が生き残り、1機でも多くの敵を殺すことだと割り切っていた。

 生かしておいてはダメだ。生きのこれば、敵は学習し手ごわくなる。

 よって、彼は弱った敵こそ、叩き落す目標と決めていた。


 同僚からは「それはあまりにずるくないか?」と言われたが、気にすることもなかった「では、そいつを生かして帰してなんの得があるのだ?」と彼は言った。

 同僚は黙ってしまった。誰かが、やれねばならいのだ。だから、俺がやる。落下傘降下しようが、不時着しようが、息の根を止める。それが自分の使命だと思っている。

 そして、空母戦であるならば、敵爆撃機、攻撃機を第一目標にするのは当然だった。


 すでに、敵情報は入ってきている。

 戦爆連合200機以上。

 こちらは、赤城、飛龍、翔鶴、瑞鶴の4空母から戦闘機100余機だ。

 おそらく、戦闘機の数で言えば、互角かそれ以上ではないかと思う。


「あれか……」


 岩本一飛曹は青い空にゴマのような黒点を見つけていた。

 中隊長機がバンクを振り、大きく迂回する。太陽を背にしての攻撃を行う気だろう。

 まあ、敵がそう簡単に許してくれるかどうかは分からないが。


 彼の明晰で冷めた頭脳は、すでに自身の戦闘プランを組み立てていた。

 

「突っ込むのは最初だけでいい――」


 誰に言うともなく、独りきりの操縦席の中でつぶやく。

 この機数での戦闘である。乱戦になるのは必定だった。

 彼は、一度突っ込んだら、空域から離れ、防衛線を突破してきた攻撃機を狙うことに決めていた。

 独断であるが、誰かがやるべきことであった。


「全軍突撃せよ――」


 思いのほか明瞭な声が響いた。

 岩本一飛曹は叩きつけるようにスロットルを操作した。

 零戦の栄12型が軛を外されたかのように唸りを上げる。機体が軋むような加速で背もたれに押し付けられた。


 第一航空艦隊、100機を超える零戦が、狩を開始した。


        ◇◇◇◇◇◇


 戦闘開始後30分は経過しただろうか。

 

 岩本一飛曹は残弾と燃料を確認する。燃料に余裕があったが、すでに20ミリ弾は尽きていた。


「いい飛行機ではあると思うが、戦闘機としては問題ありだ――」


 彼は零戦に対する率直な感想をつぶやいた。

 彼自身、零戦は「良い飛行機」だと思っていたが「良い戦闘機」とは言い難い部分があると感じていた。

 なによりも、20ミリ機銃の弾数の少なさは致命的であると思っていた。

 1門55発の機銃弾を撃ち尽くしてしまうと、零戦の攻撃力は、一世代前の九六戦並みになってしまう。

 零戦の戦闘における、火力は実質的に九六戦に毛の生えたような物だと思っていた。

 

 7.7ミリで敵を落とせないことは無い。しかし、それは熟練者の岩本一飛曹にしてから、非常に手間のかかり、危険な作業だった。

 彼は、この空で4機目となる獲物を追いかけつつ、それを思った。

 被弾しながらも、こちらの空母を目指して飛んできている。アメリカ軍が精神力の無いへなちょこだという奴は、一度、零戦の後ろに乗せて空戦を体験させてやりたいと思っている。奴らは強い。侮れないどころの話じゃない。


 今は、こちらの数も練度も敵を上回っている。しかし、これがいつまで続くのか。彼は日々の戦いの中で、アメリカの底知れぬ不気味さを感じていた。

 だからこそ、落とせる敵は確実に落とす。

 彼の零戦が軽快な音を立て、7.7ミリ機銃を発射する。ドーントレスの主翼付け根に集束した弾丸がバチバチと火花を上げるのが見えた。

 やがて、うっすらと煙を吐いて、高度を落とすドーントレス。爆弾を放棄した。

 それでも、彼は攻撃を止めない。

 一人でも多くの敵パイロットを殺すことが自分の役目であると信じていた。


 7.7ミリが操縦員を傷つけたようだった。

 ガックリと機首を落とし、そのまま海に突っ込んでいく。

 弱々しい飛沫を上げ海面に激突した。


 彼は機体を立て直し、失った高度を上げていく。周囲を見張った。

 すでに、この空域での戦闘は終息しつつあった。

 敵編隊はバラバラとなり、組織だって飛行を行っている機体は皆無に思えた。

 

 すでに、残弾も尽きかけている。


「帰還するか――」


 彼は無線電話で補給のため帰還する旨を伝えた。

 とくに、返事はなかったが、構わなかった。

 

 彼の零戦は翼を翻すと、母艦へと機首を向けた。


「サイダーでも飲むか……」

 

 彼は慎重にサイダーの栓を抜いて、炭酸を逃がす。

 そして、一気に飲んだ。

 サイダーは、乾いたのどに気持ちよく流れ込んできた。

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