その49:珊瑚海は燃えているか? 5

 爆雷攻撃は止んでいた。

 S-44は注排水ポンプのベントを開く。圧搾空気が注排水タンクに流れ込み、海水を外に吐きだす。

 発生した浮力はゆっくりとS-44を浮上させていた。


「艦首が浮きすぎている。ツリム調整――」

 

 マドロック潜水艦長が命じる。


「手空きの者は、艦首方向に走れ早くしろ!」


 ナンバーワンが極めて具体的な、バランスを取る方法を指示した。手空きの乗員がぞろぞろと前部に移動していく。

 自律するタンパク質とカルシウムでできた「バラスト」が、船体の後ろから前へ移動していく。

 原始的に見えるが、当時の潜水艦のバランスを取る方法としては、一番手っ取り早く安全なものだ。

 タンクへの注排水は、無音で行うことは困難だからだ。


 乗員の移動により、艦のツリムが合った。S-44は水平を保つ。


 海中での潜水艦のバランスは非常に繊細なものとなっている。特に前後のバランスは重要だ。

 特に浅い位置での潜航の場合、船体の一部が飛び出てしまう危険性すらあった。

 

「敵、爆雷投下」


 水面を叩く音が聞こえ、爆発音が続く。数発の爆発を除き、それはかなり遠い位置のものだった。

 

「奴ら、耳が相当悪いみたいだな」


 マドロック艦長は唇を舐めた。濃厚な潮の味がした。悪くないと彼は思った。

 汗で皮膚はドロドロになっているのに口の中はカラカラだったのだ。


「ジャップの爆雷は調定深度の幅がせまいのではないでしょうか?」

 

 ナンバーワンが掌を口の前で合わせながら言った。

 どうも、攻撃が大雑把で単調な気がしていたのだ。


「可能性としてなくはないだろうがね」

 

「断定は危険だと?」


「そうではないがな。結局、潜水艦は上下にも移動できるんだ。深く逃げられなきゃ、浅い方に逃げるしかないだろ」


 マドロック艦長は意見はナンバーワンの意見と対立するものではなかった。

 敵の爆雷がどうであろうが関係なかった。とにかく、敵の裏をかく行動が必要だった。

 

「深度10メートルで魚雷を発射する。その後、再び潜航だ。奴らのタイミングを外す」


 マドロック潜水艦長は彼をじっと見つめるナンバーワンに向かって言った。


「それは、全く、ワクワクする話ですね」


「こちらばかりがプレゼントをもらっていたんじゃ悪いからな」


 ニィィッと笑みを浮かべるマドロック潜水艦長。

 狂犬(マッド・ドッグ)と呼ばれる男の笑みだった。


 キシキシと軋み音を上げるS-44。船体の老朽化による耐久性の無さは隠しようがなかった。


「ピンを撃ちますか?」


 ナンバーワンが提案する。要するに聴音だけでなく、ソナーによる敵位置の特定を行うかどうかという話だった。

 彼の言葉を聞き、口の中で小さく「ソナーか……」とつぶやくマドロック潜水艦長。

 この時代の潜水艦乗りにとって、自分から音を出すというのは、あまりいい気持ちのする行為では無かった。

 日米とも、索敵には聴音機が主流となっている。これは、自分から音を出さず、相手の音を探知するものだ。


 一方、アクティブ・ソナー、日本側では水中探信儀と呼ばれるシステムは自分から音を出し、その反射音で索敵するものであった。

 

「必要はないだろう。必要以上に危険な橋を渡る必要はない」


 マドロック艦長はそう言うと、潜望鏡のレバーに身をあずけた。


 しかしだ――


 太平洋の各地であれだけの猛威を振るっている日本海軍にしては、この攻撃はあまりにお粗末に思えた。

 アメリカ海軍でも水上艦艇、航空隊関係者の一部には、彼らの強さを過大なまでに評価するような空気があった。

 負け戦を糊塗するための、言いわけであると断じることもできた。

 実際にアメリカを含む連合国が連戦連敗であるのは事実であった。


 戦前、日本の飛行機は複葉の旧式な物であると信じられていた。パイロットは事故率が最も高く、練度が劣悪であると。

 更に、奴らの戦艦など時代遅れの遺物だと信じられていた。


 しかし、それは違っていた。

 奴らの戦闘機は、我々の戦闘機よりも速く、そして強力だった。

 パイロットは手練れ揃いだ。悪魔のような輩揃いらしい。中には、ドイツ人がパイロットをやっていると強固に主張する者もいるという。


 戦艦についても「モンスター」と呼ばれる存在が噂されている。

 我々の戦艦を一撃で葬る巨砲を備えた怪物だという――

 まあ、それは話半分の与太かもしれない。


 おそらくは、過小評価の反動として敵が大きく見えているという面もあるのだろう。

 だた、大日本帝国海軍は東郷の末裔の名に恥じぬだけの力を持っていることだけは間違いなさそうだった。

 決して、遅れた3流の海軍などではない。ドイツやイタリアあたりの弱小海軍とは、わけが違う。


 だが――

 全てに優れた完ぺきな軍隊なのか?

 奴らにも弱点があるのではないか?

 我々が開戦前に、あまり注目もしていなかった部分――


 対潜攻撃。


 もしかしたら、日本海軍は、この分野に関し、かなりお粗末なレベルなのではないか――

 

「ナンバーワン」


「なんでしょうか?」


「敵―― 奴らの対潜攻撃の手腕についてどう思う」


「まあ、あまり褒められたもんじゃありませんな」


「そうか」


「まあ、こっちもだいぶくたびれたロートルではありますが」


 何とも言えない笑みを浮かべナンバーワンは言った。


 確かに、今我々は苦しいのは事実だった。

 今ここで、日本軍の戦技をけなすのは、強がりのようにも思える。

 しかし、客観的に見て、彼らの不手際が大きく目立っているのは事実ではないかと思った。

 マドロック潜水艦長だけではなく、歴戦のナンバーワンも同じ意見を持っていた。


 先ほどからの日本海軍の攻撃は、言ってみれば、チンピラ・ゴロツキが寄ってたかって得物を振り回しているようなものだった。

 派手に見えるが、まるでド素人の戦い方だ。

 特に、駆逐艦が密集してきてからは、敵の方が混乱しているのではないかとすら思っていた。


「奴らにも苦手なものがあるんだろうな」


「生まれつき耳が遠いんじゃないですか」


 鼻で笑うようにナンバーワンが言った。

 まあ、明らかにそれはジョークの類であった。

 上等だった。まだ、我々は戦える。


「敵推進音捉えました。方位確認 023―80 距離800」


 聴音員の報告が司令塔に響いた。

 気が付くと敵の爆雷攻撃は止んでいた。


「魚雷発射準備―― 後部発射管を使う」


 マドロック駆逐艦艦長は静かにそれを命じた。


 魚雷に生命を注ぎ込むべく、全てのデータが、魚雷方位制御システム(TDC)に入力された。


        ◇◇◇◇◇◇


「残りはいくつだ。主計」


「5発です。艦長」


「貧乏所帯のやりくりは難しいなぁ。主計」


 すでに特設砲艦「第二天福丸」の爆雷は尽きかけている。

 今まで叩きこんだ爆雷は海水を擾乱するだけに終わっているようだった。


 浮遊物や重油が上がっていたが、明らかに欺瞞だった。

 浮遊物の中には男物の汚いパンツまで混じっていた。


(奴らは完全にこっちをバカにしている)


 全くどうしようもない話しだった。

 駆逐艦5隻と特設砲艦がたった1隻の潜水艦にもてあそばれていた。

 すくなくとも、中根主計中尉にはそう思えていた。


 対潜攻撃力という意味では無力化されていたといっていい

 キツイことを言えば、最初から攻撃力は大したものではなかったが。

 ただ「なし」と「あり」の間には大きな壁があるのは事実でもあった。


 すでに、他の駆逐艦も爆雷を撃ち尽くしているように見えた。

 だいたい、この艦よりも搭載数は少ないのだ。


「海面の見張りを厳にせよ」


 風祭艦長は淡々と伝令兵に伝えた。

 命令が全艦に伝えられる。


「主計の予想通り、やってくるぞ―― 撃ってくる」


 その言葉にはどのような感情の起伏も読めなかった。

 淡々と事務的に言葉を口にする。


「爆雷は全て20メートルに調定」


 続けて調定深度を指示する。基本的に45メートルか20メートルしかないのだ。

 今までも20メートルの深度で投下している。

 果たして最後の5発で仕留められるかどうか、怪しいものであった。


 中根主計中尉はその結果に大きな期待はしていなかった。

 インテリにありがちな、現実に妥協していった結果として、たちの悪い悲観主義者になるという側面を彼は持っていたのだ。

 ただ、それを口にしないだけの節度と常識は十分以上にもっていた。

 なによりも彼は帝国海軍の士官なのである。

 娑婆っ気の抜けない中途半端な士官であるとしてもだ。


 その報告は唐突だった。

 

「魚雷発射音! 方位―― 艦首です! 艦首方向0度」


「来たかよ」

 

 感情の揺らぎをみせなかった風祭艦長の言葉になにかの感情が混じっていたのを感じた。

 それが怒りであるのか、恐怖であるのか、それとも歓喜であるのか、そこまでは中根主計中尉には分からなかった。


「両舷全速! 突っ込ませろ! 雷跡に向け突っ込むんだ」


「莫迦ですか!」


 思わず口に出した言葉に、中根主計中尉は青くなる。

 上官に向かっていっていい言葉ではない。あり得ない言葉だった。

 彼は、死人のようにそこで固まってしまった。


「戦争は、すっと冷静に狂える奴が勝つんだよ――」


 風祭艦長は中根主計中尉を見つめ静かに言った。

 その口元にはゾッとする笑みが浮かんでいた。


 思考が言葉にならなかった。自分はこの男について大きな勘違いをしていたのではないかと思った。

 しかし、それも一瞬だった。

 見張り兵の言葉が、彼の金縛りを解いた。 


「敵! 浮上してきます!」


 中根主計中尉は艦首方向を見やった。

 確かに浮上している。いや違う……

 艦首だ。潜水艦の舳が完全に海面の上に飛び出していた。


 刻々と変化する状況の中、伸びてくる4本の白い航跡――

 特設砲艦「第二天福丸」はその航跡に向け突撃を行っていた。


        ◇◇◇◇◇◇


「どうした! 状況報告!」


 立つことが困難なくらいの傾斜の中、マドロック潜水艦長が叫んだ。


「艦尾より、浸水です! 後部発射管が破損!」


「莫迦な!」

 

 報告に聞いたマドロック潜水艦長は、ドロドロの汗を吸いこんだ帽子を叩きつけた。


「ツリム戻せ! 何としても戻せ!」


 浅い海面では海流の影響と水圧の関係でツリムを保つのは困難であった。

 更に、敵のお粗末と思えた爆雷攻撃は、ボディーブローのように後部の船体構造を痛めつけていた。

 

(もっと早く気付くべきだったか)


「艦長! 浮上です! 浮上戦闘です」


 ナンバーワンが言った。

 確かにここからの潜航はあまりにも危険すぎた。

 無理に潜航すれば、更にツリムが悪化し、さらに前部が跳ね上がる可能性があった。

 最悪の選択の状況だった。


 ただしかし――

 

「敵きます! 突っ込んできます! 我々に突っ込んできています!」


 聴音の絶叫。


「くそ! 浮上! 浮上戦闘準備!」


 S-44は潜水艦の最大の武器をここで捨てた。


        ◇◇◇◇◇◇


「魚雷来ます!」


 見張り員が吼えるように絶叫する。

 4本の雷跡の内、1本が完全に真正面から向かってきていた。

 左にも右にも逃げることができない。舳のど真ん中を真っ直ぐに突き進んできている。


 魚雷の搭載する高性能炸薬は1発で3000トンの艦艇を仕留めるだけの破壊力を持っていた。


 速度を上げ、突き進む「第二天福丸」おそらくは10ノットを少々でるくらいであろうか。

 魚雷との相対速度は50ノットを超えているかもしれない。


 中根主計中尉は手近かに捕まる物が無いか確認した。

 そして直撃の衝撃に身構えた。

 ちらりと、風祭艦長が視界に入る。彼は何事もないように、そこに立っていた。


 喜んでいた――

 この年齢不詳の予備役少佐は、自分の艦を魚雷に突っ込ませ、明らかに笑みを浮かべていた。


(くる!!)

 

 中根主計中尉は目をつぶり身を丸める。もはやそれは本能的な物であった。


(……)


 永遠と思えるような濃密な数秒が流れていく。


「魚雷! 艦底を通過!」


「なんだって!」


 中根主計中尉は立ち上がった。


「当らんさ―― この距離では魚雷は当たらんよ。深度が安定しない」


 ニィィッと笑みを浮かべながら、風祭艦長は、中根主計中尉を見つめていた。

 その言葉を聞いて彼にもこの現象の種が分かった。


 魚雷はジャイロが安定するまで、深度が深い。それは海面に飛びだしてしまわないためだ。そして一定の距離を進み、指定された深度を進む。

 魚雷とはそう言うシステムなのだ。だからあまりに接近しすぎると魚雷は艦底を通過してしまうのだ。


(俺はド素人か……)


 このような魚雷システムのことは十分に知識では知っていた。

 だが、実戦の命のやりとりの中で、淡々とその事実を根拠とした行動などとれるものではなかった。


(くそ! アメリカが艦底起爆信管をもっていたら、どうする気だったんだ)


 得体のしれない艦長に対し、八つ当たりか屁理屈に似た感情が湧きあがってきた。


「さあ、主計。伝統的な潜水艦攻撃の方法を見せてあげよう」


 風祭艦長はじっと前方を見つめて言った。

 中根主計中尉もその視線の方向を見た。


 艦首を突き出した潜水艦が間近に迫っていた。

 もうどのように舵を切っても間に合わない距離にまでつまっていた。


「各員衝撃に備えよ――」


 艦長の命令がなにを意味しているのか、少なくとも海軍で飯を食っている物であればそれがなにを意味しているか分かる物であった。


 凄まじい衝撃が「第二天福丸」を襲った。

 鋼と鋼がぶつかり合う凄まじい音だった。

 中根主計中尉は手近なパイプに捕まりながら、配置転換を願い出ることを決心していた。

 

 ああ、もう船は勘弁して欲しい。陸戦隊―― どこでもいい。いや、北より南か……

 どこか南の孤島でもかまない。そんな島の設営隊辺りの主計でもやらせてほしい――

 このような理不尽な戦闘に巻き込まれるよりその方がずっと幸福な気がした。


「沈みます! 潜水艦沈没!」


 声が聞こえた。

 中根主計中尉は力なく顔を上げると、その海を見つめた。

 3000トンの鉄の塊に突撃された潜水艦は艦首が引きちぎられ、司令塔らしき場所をむき出しにしていた。

 そこには大量の海水が流れ込み、もはや沈没するしかない状況にあることが分かった。


 割れた船体から、何人もの米兵が海に飛び込んでいるのが分かった。

 ある意味、潜水艦の最期としては、幸運な部類に入るのではないかと思った。

 それが何かの救いになるとは思えなかったが。


「主計。戦闘詳報は明日1200までに提出だ――」


 この戦闘の終わりを告げる言葉が彼の耳に届いた。

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