その18:東京空襲! 小笠原沖海戦 2
日の出まではまだ時間があった。海面はドロドロとした墨汁を流し込んだように見える。
横須賀の海軍基地は深い闇につつまれている。
月明かりが、青白く波頭を照らす。浮かびあがる濃緑色の機体。巨大な機体だった。
二式飛行艇、通称二式大艇だった。
「峰長大尉、風が強いですね」
副操縦士である岡本一飛曹が言った。計器の点検は既に終わっている。機体には問題はない。
「なんとかなるだろ」
大した問題ではないという風に峰長大尉が言った。
「分かりました」
それ以上話すことは無かった。やるべきことをやるだけだった。
二式大艇は太平洋戦争中の飛行艇の中では、異形ともいえる水準の機体だ。
450km/hを超える最高速度は同時代の4発爆撃に対しそん色がない。海軍の主力である双発攻撃機、一式陸攻よりも速い。しかも航続距離は1.5倍だ。
2トンの爆弾が搭載可能。20ミリ機銃5門の火器を備え、防弾、消火装置も備えつけてある。雷撃すらその運用視野に入って開発された機体だった。
空中に浮かんでしまえば、まさに「空中戦艦」ともいえる存在だった。
B-17やB-24といったアメリカの大型4発重爆と互角に銃撃戦ができる飛行艇だった。
もはや、開発思想が他国の飛行艇とは根本から違っていた。そして、それを実現してしまった技術者の執念を感じさせる機体だ。
しかしだ――
この機体は空中性能の高さゆえの欠点があった。
離水が非常に難しいのだ。
とくに、今回のように25番(海軍では250Kg爆弾を「25番」という)を2発吊るし、燃料も限界まで搭載している場合などは特にだ。
二式大艇は、空中での高性能との引き換えに、離着水性能が悪かった。海面滑走時の安定性が非常に悪い。
満載過荷重の機体を浮上できれば、それだけで技量Aと評されるほどだ。
大尉の技術は信頼していた。
しかし、海面コンディションが良いに越したことは無い。
機体のチェックが終わった。四基の火星エンジンが起動する。轟轟と音を上げる。
二式大艇はスルスルと海面を進む。やはり揺れる。とにかく水平を保つこと。
二式大艇には、機首のピトー管の先に、水平の棒が付けられている。
これと、風防に書かれたラインと水平線を重ねあわせ、機体の水平を維持するのだ。
岡本一飛曹は、副操縦席座っている。自然に手に力が入った。
火星エンジンが咆哮の尾を引く。そして、暗い海面を移動する二式大艇。
やがて、その巨体をふわりと空に浮かばせてた。
4月に入り連日のように行われている、空中哨戒任務だった。
全行程が1500海里以上。10時間以上の任務となる。
このような任務がこなせるのは、二式大艇の他にはなかった。
星明りの空を、空中戦艦が飛ぶ。潤んだような月明かりがその機体をヌルヌルと光らせていた。
◇◇◇◇◇◇
すでに、ホーネットからは16機のB-25が飛び立っていた。
本来の計画よりもかなり遠いところからの発艦となってしまった。
「クソ忌々しい、クソ、ジャップのチンケな船が!」
ハルゼーは葉巻を握り潰し、叩きつけた。
彼の機動部隊は、そのチンケな船のため、大きく作戦内容を変更せざるを得なかった。
護衛の軽巡、駆逐艦による掃討と、エンタープライズから発艦した艦上戦闘機F4Fと艦上爆撃機ドーントレスによって、日本側の哨戒艇は駆逐された。
艦上機が順番に、エンタープライズに着艦している。
この着艦作業が終わらねば、どのような行動もとれなかった。
ちっぽけな船を叩き潰すために、米機動部隊は貴重な時間を浪費していた。
すでに、哨戒艇は打電を行っている。最初の打電から2時間以上が経過している。
「ジャップの爆撃機はここまで来るかもしれん」
彼は、嫌な予感に襲われる。
ここで、貴重な空母を傷つけるわけにはいかなかった。
レディ・サラ(空母サラトガ)は潜水艦の雷撃で戦線を離脱している。復帰までまだ2ヶ月はかかるだろう。
太平洋艦隊は空母の数、航空機の性能、搭乗員の練度において劣勢にあった。
「本土から1000キロ以上ですよ。それほどの脚が……」
「情報部から報告じゃ、奴らの双発爆撃機の行動半径は、それを軽く超える」
「しかし、本土の基地からでも巡航で3時間以上、おそらく4時間はかかります。時間は十分にあります」
「最初の打電から何時間たっている?」
「おそらくは2時間は……」
「クソが!」
ハルゼーは貴重な時間が、消費されたことを後悔していた。
攻撃などせず、振り切って逃げればよかったか。
しかしだ――
「敵らしきもの、10時の方向に大型機とみられます。距離20海里」
レーダ手からの報告が上がる。
その報告によって、ハルゼーの思考が寸断された。一瞬ではあったが。
なぜ、こんなに早くやってくるのか。
「叩き落せ!」
「今、上空警戒機はいません。先ほどの攻撃隊を収容中です。収容作業が終わらないと発艦できません」
「捨てろ! 飛行機は捨てろ、甲板を開けるんだ!」
「はい?」
「二度言わせるな、捨てちまえ! いいか、とっとと戦闘機を上げるんだ。叩き落せ」
ハルゼーの命令通り、収納を待っている航空機は海に廃棄された。
とにかく、飛行甲板を開けないと空母は何もできない。ただの可燃物のつまった浮かぶ箱だ。
廃棄と同時に、F4Fワイルドキャット戦闘機が、エレベータで上がってくる。
準備の出来た機体から飛び立つ。もはや編隊を組むという余裕もない。
いち早く、接近しつつある敵を叩き落すこと。これが最重要と思われた。
F4Fワイドキャット。グラマン社の開発した艦上戦闘機だ。
零戦を超える1200馬力エンジンに堅牢な機体構造。
当時の艦上戦闘機とすれば、世界でもTOPクラスの性能を持っている。
ただ、零戦には分が悪かった。はっきり言って、まともに行っては勝ち目が薄かった。
機体の堅牢さと降下性能以外全ての面で劣っており、単機で有利な戦闘はできなかった。
後に米海軍では、F4Fでは零戦に対抗することは困難であると認めることになる。
零戦との戦闘における禁止事項を次々に通達する。
「上昇について行こうとするな」「格闘戦をするな」「480?以下で零戦と同じ運動をするな」
米搭乗員をして「じゃあ、我々はどうやって闘えばいいんですか?」と言わしめるものだった。
このF4Fは決して凡作ではない。戦い方次第では、零戦を落とすこともできた。
しかし、全体的な性能の劣勢は否定することができなかった。
だが、相手が単機の大型機だとすれば、問題はなかった。
高初速の12.7ミリ機銃は、日本の大型機に十分致命傷を与える破壊力を持っている。
防弾装備がない日本海軍の機体(陸軍はある)は脆弱といえた。
ただ、今回の相手は、今までの日本の大型機とは別次元の機体であった――
◇◇◇◇◇◇
偵察員の声が響いた。「敵空母発見」と言った。岡本一飛曹は、副操縦席から、その方向を見た。いた。
白い航跡を引いて、2隻の空母が航行している。日本海軍のものではない。こんなところに、味方の空母はいないはずだった。
機長の峰長大尉は素早く打電を命じた。速度、進路、艦隊規模を読み上げる。
「敵機上がってきます!」
岡本一飛曹も発見していた。戦闘機だ。空母から戦闘機が上がってきている。
甲板には次々に戦闘機が上がってきている。順次発艦してくるのだろう。
このままでは袋叩きだった。
「長峰大尉!」
たまらず、岡本一飛曹は叫んでいた。
「一時退避して、距離を開け、接敵を続ける」
キュンと機体が傾く。大型4発機とは思えない機動性で蒼空を突き抜けていく。
一度空に浮いてしまえば、この2式大抵は規格外の存在だった。
「グラマンか……」
長峰大尉が言った。どす黒に近い青の機体。ずんぐりした武骨な戦闘機だった。
機体の動作は緩慢に見えた。
味方の零戦を見慣れた目から見ると、その上昇力はお粗末といっていいものだった。
これなら、振り切れるんじゃないかと岡本一飛曹は思った。
長峰大尉や岡村一飛曹が知らないことであったが、F4Fが鈍重になっているのは理由があった。
最新のF4Fは、翼の折り畳み機構、および欧州戦線の戦訓から防弾装備を備えていた。
その結果、1200馬力の機体には重すぎる装備となり、馬力荷重が悪化していた。
このため、みじめなほどに機動性は落ちていた。特に上昇力の悪化は酷いものであった。
「大尉! 25番を! 爆弾を投棄すべきです」
通信士が声を上げた。
確かに道理だった。
重たい荷物を抱えて逃げる必要はない。
「投下しろ! 25番投下!」
長峰大尉の命令で、両翼に懸吊されていた2発の25番(250キロ爆弾)が重力の力で落ちていく。
「あ…… 当たるか……」
そう甘くは無かった。狙いも付けず、適当に投棄した爆弾が当たるなら、訓練など必要はない。
一瞬、良いラインで落ちていった爆弾であったが、それはただ海水を跳ねあげるだけで終わった。
しかし、この爆撃が、思いもよらない影響をエンタープライズに与えていた。
◇◇◇◇◇◇
エンタープライズの中央エレベータが破損した。原因はヒューマンエラーということになるだろう。
爆撃されたことによって、艦は大きく舵を切る。
その結果、大きく傾き、エレベータで揚げられていた最中のF4Fの拘束が外れた。
そのまま格納庫に落下したのだ。
機体は大破し、大量のガソリンが流れ出す。
充満したガソリンは、火花で簡単に爆発を起こす。
ただ、エンタープライズの開放型格納庫であることが幸いした。
換気は素早く行われた。
しかし、落下した機体の衝撃でエレベータが損傷。中央エレベータでの作業ができなくなった。
この間、エンタープライズは貴重な時間を失っていく。
後部と前部のエレベータから機体が引き揚げられ、機体牽引機がそれを発艦位置までもってくる。
中央エレベータが落ちくぼんだまま、停止しているため、飛行甲板が半分しか使用できない。
着艦はホーネットにするしかなかった。
◇◇◇◇◇◇
F4Fは上昇を続けるが、高速で逃げる二式大艇を、なかなか捕捉することができなかった。
ジリジリとじれったいような速度でしか距離がつまらない。
焦れたF4Fは12.7ミリを突き上げるように撃ってきた。
アイスクリームのコーンのような火箭が伸びる。
「撃ってきやがった」
「当らん、この距離では当たらん」
長峰大尉の言うとおりだった。いかに弾道特性のいいブローニング12.7ミリ機銃でも上昇して追いかける形での銃撃は当たらなかった。
なによりも、距離が遠すぎた。
「反撃する」
「え?」
岡本一飛曹は、耳を疑った。いかに、高性能な飛行艇とはいえ、戦闘機に対しまともに戦えるものではない。
確かに20ミリ5門の火力は当たれば、敵を木端微塵にでるだろう。
しかし、そうそう当たるとも思えなかった。
「機体を傾け、全砲門を敵に向ける。一撃で仕留める」
確かにジリジリとしたものであったが、F4Fと二式大艇の距離は詰りつつあった。
敵が集結する前に、各個撃破というのは、ある意味正しい選択だったのかもしれない。
この二式大艇であるならば。
「フラップを出すぞ――」
「速度が……」
長峰大尉は離着水のときに使用するフラップを全開にして、速度を落とす。そして大型機ではあり得ないような機動で機体を傾けた。
岡本一飛曹にとって、この機動は自殺行為のように思えた。しかし、大尉には勝算があったようだ。
機体は大きく傾くと、全砲門がF4Fを射角内に捕えた。
こちらが速度を落としたので急速に間合いが詰まってくる。
二式大艇の5門の20ミリ機銃が、重低音の唸りを上げる。
F4Fも両翼を真っ赤にして12.7ミリを放ってくる。
太い火箭と細い火箭が交差した。
ガガガガっと機体に衝撃が走る。命中だ。どこかに12.7ミリを食らったのだ。
しかし、この機体は想像以上にタフだった。
火を吹かない。いや、もしかしたら当たりところがよかっただけかもしれないが――
岡村一飛曹は副操縦席からその光景を見た。
急に力を失ったように、F4Fがガクッと崩れ落ちた。機首を下に向け、投げられた石のように落下していく。
煙は吹いてないように見えた。
(当たったのか? 20ミリが……)
見ていると、機首を持ち上げ反転上昇を行い、くるっとキャノピーを下にした。
搭乗員がこぼれ落ち、白い落下傘が空に咲いた。
おそらく、エンジンかどこか、機体の致命部に命中したのだろう。
20ミリ機銃は、十分にエンジンを撃ちぬき破壊する威力を持っていた。
「機動部隊への接敵を継続する」
長峰大尉の言葉には一切の高ぶりも無かった。淡々と冷静にそれだけを言った。
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