歩く

ぱち

「歩く」

 その日は雪の日だった。ずいぶんと寒い日だった。部屋を出る前に服を着込んで、廊下を歩きながらマフラーも巻いて、玄関に向かう。靴を履きながら見送りに来た母に出掛ける前の挨拶をしようとすると、ふくよかな母の手が僕の肩をたたき、「ちょっと待って」と制止された。母は靴箱を開け何やらガサゴソとした後、靴に入れる保温材を取り出し「今日はうんと寒いから」と僕に手渡した。保温材を靴に敷き、そしてそのまま靴を履く。僕は立ち上がって鞄を持ち上げ、行ってきますと母に挨拶し、母からの「行ってらっしゃい」という返事を聞きながら扉に向かう。

 扉に手をかける前に、分厚い毛糸の手袋をはめる。寒くてたまらない朝だったが、それに耐えられるだけの暖かさは身につけた。

扉を開ける。雪がごうごうと降りそそいでいる。短くも長い一日が、今日もまた始まる。明日は晴れるといいな。そう願いつつ、僕は歩き出した。





 気が付いた時から、僕はずっと歩き続けていた。

 僕は今、歩いている。それ以外には何もわからない。周りも真っ暗で何も見えない。何も聞こえない。なんの匂いもしない。地面に足がつく感覚はある。体を動かしている感覚はある。ここがどこかわからない。自分が誰かもわからない。ただ、歩いている。片方の足を前に出し、膝を曲げ、地面に足の裏をつけ、その足に力を込めて今度はもう片方の足を動かす。これを繰り返す。ただひたすらに繰り返す。

 食欲はない。空腹も感じない。疲れも全くない。自分がいま歩き続けている事しかわからないが、何時まででも歩き続けられそうな事もわかる。歩く。歩く。歩く。歩く。



 歩き続けていた。段々と頭が回るようになり、「なぜ、僕はこうして歩き続けているのか」という事を考えられるようになった。歩いて、どこに向かうのか。自分がまっすぐ歩いているのか、曲がりくねった道を歩いているのか、それさえもわからない。何処へ。



 歩き続けていた。突然、目の前に見えるものが現れた。歩み寄る。どうやら人間であるらしい。距離が近づく。話しかけてみたい。質問を考える。近づいていく。近づいてはこない。

 その人と目と鼻の先まで近づいた。話しかけようとする前に、向こうから話しかけられる。


「調子はどうですか」


 返答に困る。この人はどういう人なのだろうか。僕と親しい人間なのだろうか。しかし、僕は何も覚えていない。どう返したものか。少し悩んだ。


「わかりません。もしかしたら良い方なのかも」


「それは良かった」


 その人はさらりと一言だけ答えた。その答え方の軽さが少しばかり鼻につく。


「あなたは一体何なのですか?」


「どうでしょう、うまく言えません」


「変な人ですね」


「ただ何をするかはハッキリ言えますよ。あなたと一緒に歩くことです」


「僕と一緒に?それはまた何で」


「それもうまく言えません。さぁ、とりあえず歩きましょう」


「はぁ」


 雲をつかむような問答が終わり、その人の言う通りまた歩き始めることにした。その人は、僕のちょうど隣を歩いていくつもりのようだ。一歩一歩踏み出すことに、しっかり同じ歩幅を保っている。少し気味が悪くなった。とりあえず、気にせず歩くことにする。



 歩いている。隣を歩くあの人は、あれから何も話しかけてきていない。この人に質問しても全て「うまく言えない」で返されると嫌なので、あまりこちらから話しかける気も起きない。ただ、もう長いこと無言が続いて気まずいのも確かで、何か話しかけてみたほうがいいかもしれない、とも思える。

向こうから何か話しかけてくれないものかと、咳払いを数回してみたり、体を伸ばしたりして素振りを見せる。すると、それを察してくれたのか、


「どうですか、何か思い出しましたか?」


 どうしたものだろう。この人は僕が何も覚えていないことを知っているようだ。それが何故かは、やっぱり「うまく言えない」のだろうけど、しかしこの人はどこか気味が悪い。

とりあえず、そのまま素直に返しておこうと思い、


「いや、さっぱり何も」


「そうですか。でも、もう少ししたら何か思い出せるかもしれません」


「そうですか。だと良いのですけど」


 私がこう答えた後、また会話は途切れた。仕方ない、暫く黙って歩くのを覚悟しよう。



 あれからまたどれだけ歩いたかわからない。そういえば、さっきまではあまり歩いてきた距離とか時間は意識していなかったような気がする。自分の事ながら不思議に思う。

どこまで歩けばいいのだろうか。結局この人は自分をどこに連れて行こうとしているのだろうか。どこかへ連れて行こうとなど、本当にしているのだろうか?疑問は重なるばかりだ。ちらりと隣を歩く人の表情を伺おうとした時、突然、何か映像が頭に浮かんでくる。特に驚きもなく、目を瞑って冷静に映像に意識を集中させる。


 雪の積もった道を歩いている自分がいる。二車線の道路沿いの道で、車線沿いには二階建てくらいのビルがいくつも立ち並んでいる。雪は解けかけていて、道の両脇に寄せられている。ビルには洋菓子屋や喫茶店、雑貨屋などが入っている。僕は手に鞄を持ち、一人で歩いている。橙色の空を見る限り、時刻は夕方。僕の服装は厚着でコートとマフラーを着けており、手袋もはめている。人通りは多いが車の通りは意外と少なく、十秒に一台通り過ぎるくらいだ。

 道路に注意を向けていると、一台の軽自動車が猛スピードで走ってくるのが見える。目の前で、一匹の白い猫が道路に飛び出した。猛スピードの軽自動車と猫はもう二十メートルも離れていない。このままあの白猫は轢かれてしまうのだろうか。そう考えていると、軽自動車は急に進路を変えて、僕の方に向かって突っ込んできた。

そこで、映像は終わった。


「どうかされましたか?何か思い出せましたか」


 隣を歩くその人が、僕に優しい口調で話しかける。


「はい、ほんの一瞬だけですが」


「実は、ここでは普通、一瞬の事、一つの事しか思い出す事ができません。貴方が思い出せるのは、それが最初で最後です」


「そうなんですか。なかなか、厳しいものですね」


「ですが、ちょっと待っていて下さい。少しものを取ってきますので」


「はぁ、わかりました」


 あの人は来た道を少し戻っていった。歩いていたはずだが、姿はすぐに見えなくなった。まぁ、ここは暗いから当然と言えば当然かもしれない。少しだけ歩みを止めて、あの人を待つ事にする。

 なんだか、空っぽだった頭の中が余計空っぽになったような気がする。いや、空っぽにしていないといられないような、そんな気もしている。


 あの人はすぐに戻ってきた。大きな花束を胸に抱えている。花はみな白いものばかりだ。


「ずいぶん早かったですね」


「本当にちょっとだけだったでしょう?これをどうぞ」


「はぁ……?」


 そう言ってその人は私に花束を手渡した。花束は想像していたよりもずっと重い。どことなく優しげな色合いに整えられたこの花束は、いつまでも眺めていたくなるような温かさと美しさを誇っていた。


「綺麗な、花束ですね……」


「綺麗でしょう?」


「ええ、とても」


 花束を持つ手を回し、色々な角度から眺めてみる。名前はわからないけれど、真っ白だったりクリーム色がかかっていたり、紫がかっている花もあったりと様々な花があり、見ていて全く飽きが来ない。


 両手で花束をしっかり持って胸に近づけ、花束を間近で眺めようとしたその時、急に花束はほのかに白い光を放ち始めた。


「あの、この光は一体……?」


「まぁ、少し眺めてみて下さい」


 あの人の言う通り、白く光る花束をじっと眺める。仄かに花束を覆う白い光。その光もまた花束にささった花に似て優しく暖かく、ぼうっと静かに灯っていた。時が経つにつれ光は段々と強くなっていき、しまいには花束が見えなくなる程強い光を放つようになり、あまりの眩しさに思わず僕も目を閉じた。

しばらくして、光が段々と消え始めた。ふと、手に持っているものの感触がさっきと全く違う事に気づいた。植物やビニールの柔らかさやしなやかさがなくなり、固い何かを手にしている。

 光が完全に消え、目を開ける。僕が持っていたものは、とても厚い一冊の本であった。


「あの、これは……?」


 なぜ今僕は花束ではなく本を手にしているのか。そもそもあの光はなんだったのか。突然起こった様々な出来事に僕の頭の中は混乱してしまった。きっと何も返ってこないとわかりつつも、ついこんな風に尋ねてしまった。



「さ、とりあえずはそれを開いてみて下さい。」


 やっぱり。思った通りだ。呆れてしまいそうになる。 五百ページ程はありそうな本。言われた通りに、僕は表紙をめくってみる。赤ん坊の写真がいくつか貼ってある。


「これは、アルバムなんでしょうか?」


「はい。もっと先の方も見てみてください」


 初めて「はい」という言葉が返ってきたが、それはどうでもいい。促されて、数十ページ程先を見てみる。五歳くらいの少年の写真が貼ってある。少年はロボットのおもちゃを持って公園の砂場だと思われる場所で遊んでいる。ただ、この少年、いやに見覚えがある。見覚えがある、という程度のものではない。


「もしかしてこれは、僕ですか?」


 たまらず、あの人に質問する。


「はい、これは紛れもなく貴方です」


 同じページの他の写真も見てみる。同じ少年が写っているが、かなり怒っているようで、ロボットのおもちゃを持った手を振りかぶっており、こちらに向かってそのおもちゃを投げつけようとしているように見える。


 今度は数百ページ程めくってみる。少年は12歳くらいで、どうやら水中に潜っているようだ。とても嬉しそうな笑顔で、体の向きからして水底へと向かっていく様子だ。次のページには木陰で眠っている少年の写真が貼られている。


「少し記憶が戻ってきたかもしれません。でも、私が海に潜っている時に、近くに父か母はいたかと思いますが、確かカメラを持っていた事はなかったはずです。第一、水中カメラなんてウチにはない。」


「そうかもしれませんね」


「第一、ものを投げつけられようとしているのに、悠長に写真を撮る人間がいるとも思えません」


「そうでしょうね」


「では、これは一体誰が撮った写真で、何のアルバムなのでしょうか?」


「最後のページを見てみて下さい。」


 それを聞いた瞬間にアルバムを再び開く。ページをめくる。何度も何度も、


 最後のページに行き着いた。我が家の玄関にいて、扉を開いている僕の姿が見える。コートとマフラー、そして手袋を着けて鞄を持っている。そして、その下には、道路の脇、ガードレールの下で白い花束を持っている、見覚えのある手が写った、小さな写真が貼ってあった。

 その手の持ち主を、僕はずっと昔から知っている。きっと。



「さ、行きましょう」


 暫く経ってから、その人は僕に語りかけた。僕は再びアルバムの一ページ目を開き、歩き始める。

 隣を歩くその人に、再び質問をしたくなった。何を聞いても仕方がないような気がするけれど、それでも聞かずにいられなかった。


「結局、僕はどこに向かおうとしているんでしょうか」


「私には、それに正確に答えることはできません。なんの役にも立てず、本当に申し訳ない」


「いえ。僕もわかって聞いていましたから」


「実を言うと私は自分でも自分が何なのかわかっていません。ただやるべき事だけが頭の中に入っている、それだけの空っぽの存在なんです。」


「そうなんですか、そう……」


「でもきっと、私がここにいる理由は、あなたの質問に関係しているんでしょう。そう信じて私もやっていけてます」


「お互い、わからない事だらけなんですね」


「そんなものですよ、何と言ったってこんな不思議な所にいるんですから。でしょう?」


 それもそうか、と僕はつぶやいた。彼もこくりとうなずいた。それから、また歩き始めた。

 僕たちがどこに向かっているのかはわからない。ただ、少しだけ寂しい所に、それでもやっぱり幸せな、そんな所に向かっているような気がする。いや、そうだと嬉しい。僕の手にはアルバムもある。あの人も隣を歩いている。まだ、ひとりではない。僕はいま、歩いている。歩いている。

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歩く ぱち @orangemarch

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