[2-14]狂気

 ロクは携帯端末のディスプレイを眺めながら座り込んでいた。

 目の前には着信履歴がずらりと並んでいる。全てが冴子と宮本によるものだった。

 ロクはそれを何げなく上下にスクロールさせるだけで、こちらからかけ直す気にはなれなかった。しかし、送られてきたメールだけは、返信こそしなかったものの目だけは通しておいた。

 そこには追加で判明した中国マフィアの状況と、これから取る作戦の概要が記載されている。文面だけで把握できる範囲だけではあるが、対応としては順調に推移しているようだ。

 どうやら、グランマが直接指揮をとる事にしたらしい。宮本さんもいる。きっと僕なんか必要ないだろう。


 ロクが座り込んでいる場所は、黒条の屋敷の一間の片隅だった。

 周りには誰もいない、彼一人だ。それが黒条百合華の配慮であることを彼はなんとなく察してはいたが、その事実がより彼を居心地悪くさせてもいた。

 部屋は和室で、畳の匂いがしんと立ちこめている。自分の家には和室が無かった。やっぱり、居心地が悪い。


 ロクはスクロールさせて流している履歴リストの中に、布津野からの履歴がないことについて胸がひやつく不安と、それとは逆の安堵に似た納得を覚えていた。

 きっと、怒っているだろう。あんなに酷いことを言ってしまったのだ。

 息が苦しい。肺が呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだ。胸が締め付けられそうになるとはこんな感じなのかもしれない。

携帯を眺めるのをやめ、目を閉じてうなだれた瞬間に、しかし、ロクはすぐにあることに思いだった。

 よく考えたら父さんは誘拐されたのだから、僕に電話をかけられるような状態ではないだろう。父さんから連絡がないのは、ある意味、当然だ。誘拐された人間が自由に連絡を許すわけがない。

 僕は、いったい何を期待しているんだ……。

 突然、ルルゥと手元の携帯が鳴る。

 ロクはうんざりとした様子で、チラリとディスプレイに目線を落とした。しかし、ディスプレイには、『布津野忠人』と表示されている。

 反射的に電話に出て、携帯を耳元にあてた。


「あ……」しかし、それ以上の言葉が口から出てこない。


 ロクはそのまま凍り付いた。頭の中が真っ白で、発声器官が痙攣して声だけでなく息すら吐き出すことが出来ない。

 ロクは後悔した。どうして電話に出てしまったのだろう。


「何か言えよ、ロク」


 電話ごしに聞こえた声は、しかし、それは自分の父親のものではなく、二ィの声だった。


「二ィ、」

「ああ、俺だ」

「父さんは……」無事か、という続きをロクは飲み込んだ。


 数瞬の間、二ィの忍ぶような笑い声がした。


「父さんか、ロク。どうした? 真っ先に気になるのは、それか?」


 二ィの声が嫌に楽し気に聞こえる。


「お前は最高意思決定顧問だろ? お前が守るべきは日本国民だろ? 無色化計画の遂行だろ? お前の父親じゃないだろ?」

「……」

「どうした、最適解。まさか悩んでるのか? こんなの一択だ。お前の父親を見殺しにして、俺を拘束するか殺害したほうがいい。簡単だぞ。GOAを数部隊手配して襲撃させればいい。お前のことだ、すでにこちらの場所は割り出しているんだろう。ほら、早い方が断然良い、お前がサンを見殺しにした時と一緒だ。ましてや、今回は単なる未調整だ。日本政府の損害は、ほんのわずかだ。皆無と言ってもいい」

「どうして、父さんを攫った」

「お前が苦しむからさ、それ以外にないだろう」


 ロクは歯を食いしばった。

 本当に二ィは、自分への復讐のためだけに父さんを攫ったのだろうか。


「これはサンに捧げる復讐だ。そうだ。彼女の名にちなんで、ロク、三日間だけ猶予をやろう」

「三日、猶予、どういう事だ」

「今から三日後の俺の気分が向いたタイミングで、布津野さんを殺す」


 ロクは携帯を握りしめた。耳元で端末が軋む音がする。

 それは彼の予測の範囲内の展開ではあったが、自分の父親の生死と中国政府の思惑がどう考えて整合しない。

 本当に二ィは自分への復讐のためだけに、こんな無意味なことをしているのだろうか。


「あと、これは当然で言うまでもないことだとは思うが、その三日間、布津野さんの身が無事だとは思うなよ。中国仕込みの拷問術については学習しているか?」

「二ィ……」

「大丈夫だ、殺すのは三日後だ。しかし、丁寧に拷問する時間もないことは確かだ。多少は手荒になるのは了承してくれ。腕の一本くらいと薬漬けくらいは、まぁ当然だろ」

「父さんは、一般人だ」

「だったらなおさら好都合だろ。これが政治家だったら国際問題だ。一般人を社会的に抹消することなんて、お手の物だろう。最適解?」


 最適解と二ィに呼ばれることを、ロクは非常に不快に感じた。

 吐き気を催すばかりの嫌悪感に思わず奥歯を強く噛みしめる。頭蓋が締め付けられるような感覚に全身が震えた。


「さて、ロクよ。俺から伝えたいことはこれで全てだ。返事は行動で示してくれればそれでいい。それでは切らせてもらう」


 プッと遮断音が鳴って、通信が切れる。

 ロクは虚空を眺めた。薄暗い部屋が広く感じる。狂気をはらんだ二ィの笑い声が耳元にこびりついている。

 見つめた天井には唐草の模様がほどこされていた。その模様は非常に規則的で、一定間隔に唐草が弧を描いて絡まり合っている、それは最後まで整合していた。

 しかし、二ィの行動はちぐはぐで整合性に欠いている。

 ロクは目で天井の模様をなぞりながら、唐草模様のように思考を絡ませた。

 中国政府の目的が日本との開戦にあるのであれば、二ィが取るべき行動は単純だ。品種改良素体の存在を世界中に公表し、日本がこれまで取り組んできた遺伝子研究の非人道性を国際社会に訴えればそれで良い。

 戦争の大義名分なんて、基本的にねつ造されるものだ。そんなものは戦争が始まってから考えれば良い。そして日本のヒトゲノム研究は、その手のネタには事欠かない。

 よって中国政府が単純な宣戦布告を行わず、二ィを使ってこのような挑発的な工作を行う理由は一体どこにあるのだろうか。そして、どのようにして勝ち、その結果として何を得ようというのか。

 しかし、現時点で戦争になった場合、中国が勝つ可能性は限りなく0%であり。仮に勝利したとしても、得られるものもごくわずかである。

 おそらく日本と中国が開戦した場合、この戦争は泥沼に陥り、終わり方を見失い、勝者なき戦争となることをロクは予感している。

 そもそも、これは予測でも何でもなく単なる統計的事実だ。いわゆる単純な侵略戦争が近現代以降に成功した事例は皆無に等しく、被侵略側の民族が消失した事例もほぼない。過去の世界大戦で明白に敗北した日本やドイツですら、現在の大国として存続し続けている。

 結局のところ、中世のような土地と奴隷資源の収奪が単純な生産力の拡大を意味していた時代とは違うのだ。複雑化し高度な専門人材の組み合わせで初めて生産性を発揮しうる現代において、占領行為は膨大なコストでしかなく、それに見合った利益はほとんどない。占領資産を使いこなせる専門人材の確保が難しく、逆にそれが可能なのであれば自国の資産で十分に生産性を向上することが出来る。

 加えて、先進国の整備された遺族への補償制度は戦死者一人当たりのコストを大幅に増大させた。そして、占領した領土から得られる資源は結局のところ被占領人材の協力を得ない限り利用することは出来ない。

 中近世のような収奪による拡大が効率的だった時代とは、戦争の意味が変わってきている。

 ましてや、日本の国土内にはめぼしい資源は存在しない。そうであるからこそ、政府は遺伝子最適化による人材の確保に走ったのだ。

 そう言った事実や現状把握をあの二ィが見落としているとは考え難い。

 しかし、戦争は合理的に発生するものでもない。第二次世界大戦で日本が圧倒的強国であるアメリカとの勝ち目のない戦争を意思決定したように、戦争の勃発には狂気が絡む。


 その狂気の正体が、僕への復讐なのか……


 握りしめた端末がまた振動した。

 ディスプレイを見ると、そこには『ナナ』と表示されている。

 ナナには何が視えているのだろう。人を超越したその異能の目には、二ィの狂気が、僕の罪がどのように映っているのだろう。


 ロクは端末を耳に押し当てた。


「ロク?」


 恐る恐る問いかけるその声に、ロクは不思議と安堵した。

 ふと気がつく、自分はずっとナナと一緒で迷った時はいつもナナをあてにしてきた。ナナが間違ったことはない。


「ナナ」

「ロク、大丈夫?」

「ねぇ、ナナ」

「ん、なに?」

「僕はどうすればいい?」

「……どうしたの。ロクっぽくない」

「そうかな。僕は困った時はいつもナナを頼ってきたじゃないか」


 ふふ、と笑うナナの声がロクの鼓膜を撫でた。


「困ったことなんて、ほとんどなかったじゃない」

「そうかな」

「ロクは何に困っているの?」

「どうすれば、いいのか、全然よく分からないんだ」

「そんなの、私も分からないわよ」


 そうか、ナナにも分からないのか。

 ロクは目を閉じた。だったら、僕が分からないのも当然なんだろう。


「ねぇロク。お父さんのこと、知ってる?」

「ああ、一応。一通りは把握しているつもりだよ。さっき、二ィからも電話があった」

「……そう、二ィはなんて言ってたの」


 ロクは言葉につまった。

 父さんのことが大好きなナナに、二ィの物騒な話をすることに躊躇した。


「もしかして、酷いこと、言ってた?」

「う、ん。そうだね」

「ねぇ、ロク」

「なに」

「二ィの色ね。濁ってるって言ったの、覚えている」

「うん。父さんと同じだって言っていた」


 そして僕の色は、濁りのない青らしい。

 二ィは濁りだした青。そして、父さんはとても濁った抹茶色らしい。

 それが意味することはナナしか分からない。人の善悪という定義不能の概念を可視化することの出来るナナにしか。


「濁りはね、迷い、苦しみ、恨みの色なの」

「恨み……」


 二ィの僕に対する恨みは、やはりそれほどに深いのか。


「でもね。それは、優しさとか優柔不断とかそういった色でもあるの」

「優しさ?」

「うん、優しくて、誰も切り捨てることができなくて、優柔不断な人は濁っちゃうの」

「優柔不断か」

「そう、だからロクは真っ青で濁ってない優柔不断じゃないから。反対にお父さんは優しいから濁ってる。抹茶色」


 ふふ、と耳元で笑う。

 ナナは父さんの話をするとき、いつも嬉しそうだ。


「お父さんは世界で一番優しいの」

「そう、なんだ」

「でもね。誰かを助けれるのはロクみたいな人だよ」


 そうだろうか。


「だから、お父さんを助けられるのは、ロクだけ」

「……僕だけ」

「そして、二ィを分かってあげられるのはお父さんだけ」

「……」

「私はね、この三人が一人でも欠けるとダメな気がする」

「それは、ナナが視たこと?」

「ううん、私が感じた事。二ィはロクと出会って濁り出して、その濁りに共感できたのはお父さんだけ。だから、お父さんはロクを叱ったんだよ」


 ロクは自分の頬にふれた。ひりつく錯覚が引かない。


「ねぇ、ロク。お願いがあるの」

「なんだい、ナナ。僕はナナのお願いなら何でも聞くよ」


 これはひどい打算だと、ロクは自嘲した。

 僕はナナのお願いの内容を知っている。父さんを助けて欲しい、そう言うに決まっている。そして、僕はナナのお願いを理由にして、しぶしぶ従った風に装おうとしている。

 サンを見殺しにしたくせに、父さんは助けた。そう言った批判を避けるために、ナナを利用しようとしている。

 そして多分、そう言った僕の弱い部分をナナはよく知っていて、お願いをしてくれている。


「ロク、お父さんを助けて」

「ああ」


 ロクはゆっくりと立ちあがった。

 僕は最低なのかも知れない。みんなのためにサンを見殺しにしておいて、父さんにはそうすることをしない。二ィが言うように正義面をした、独善的な人間なのかもしれない。


「……絶対に助けるよ」


 ロクは部屋の障子を開いた。

 廊下から差し込む明かりが目を刺して、まぶしい。


「ナナ、グランマに変わってくれるか? 作戦の変更をしたいんだ」

「うん」


 黒条邸の廊下を歩きだしたロクは、いつものような凛とした声を携帯にむかって発した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る