[1-Last]エピローグ

 布津野は今、眠っている。

 その額にはうっすらと汗が浮かんで、とぎれとぎれに呻きながら、短い呼吸をくりかえしている。


 ——また、『色』が濃くなっている


 布津野の、たくさんの色が重なって出来た抹茶色に、また新しい色が加わっている。

 その色は布津野の深いところまで染み込んでいて、布津野はそれを必死に受け止めようとしているのかもしれない。その新しい色は徐々に他の色と混じり合って、濁りながら馴染んでいく。


 ——また、黒に近づいたね。


 ナナは布津野の手を取った。

 あったかい。

 布津野の抹茶色にこっちも取り込まれてしまいそうになる。深くて底が見えない。


「命に別状はないそうだよ」

 ロクが近づいて来た。

「右肩の肩腱板が一部断裂しているらしい。出血も酷かったけど……。縫合手術は成功したみたいだ。確実とは言えないけど、リハビリを重ねて数か月もすれば元通りになる。多少の機能低下は残ってしまうだろうけども、研究所の再生技術ならば、九割の機能は取り戻せるはずだ。生活する上ではまず問題ない。そもそも肩腱板の断裂自体は、珍しいことでは……」


 ロクの青色がぐらぐらと揺らいでいる。

 ロクはとても動揺している。

 そんな時のロクは、難しいことをたくさんしゃべって、自分を落ち着かせようとするクセがある。

 私は布津野のベッドの上に乗り上げた。


「ナナ、布津野さんは絶対安静だよ。ベッドの上に乗ったらダメだ」

「嫌よ」


 布津野の胸の上に頭をのせて、横になる。

 まるで抹茶色の沼。底なしの深い沼に体を沈ませているみたい。ずぷずぷと私は布津野に飲みこまれて、やがて何も聞こえてなくなる。

 布津野の鼓動と、自分の鼓動以外、何もかも。


「ナナ……」

「ロク、私も嫌よ。布津野がいなくなるのは、嫌」

「大丈夫だ、命に別状はない」

「ちがうわ。全然違う」


 今度は布津野の上に跨って、両手いっぱいに抱きついてみる。どぱん、と沼に飛び込んだみたいに、布津野の色が広がって私を囲んで取り囲む。このまま私を底まで引きずり込んだらいいのに。


「私は布津野とずっと一緒にいる」

「……」

「布津野、ここからいなくなっちゃうの?」

「それは……」


 ちらりとロクを見ると、彼はうつむいていた。

 彼の青は、もう輪郭がわからなくなるくらい、ぐちゃぐちゃだ。


「……布津野さんは、機密も知ってしまっているし、黒条組との関係も取り持ってもらっているから、こちらとしても完全に彼を野放しにするわけには……。できれば、協力とか監視とかを続けるのがベストで、完全に離れ離れになることはないと思うのだけど……やっぱり、布津野さんの意思もあるわけだし……」

「ロクも、だよ」


 横目でロクを見る。ロクの目は揺らいでいた。色を見るまでもない。


「……」

「ロクも、嫌なんでしょ」

「そんな、ことは……」


 ロクの色は、いまにも崩れて、ばらばらになりそうだった。これ以上はかわいそうなのかもしれない。ロクは自分の思う通りにしてきたけど、自分の思いが何なのかは何も知らないのだから。


「ロク、お願いがあるの」

「……うん」

「布津野とずっと一緒にいたいの」

「……」

「何とかしてちょうだい。お願い」


 ロクの色は、ピタリとばらばらになるのを止めた。

 ロクがゆっくりと頷くと、青はいつものようにグルグルと回りだした。



 ◇

「千葉、旦那はどうだった?」


 宮本は辺りに書類やら、PCやらが散乱した自分のデスクに座ると、千葉を見上げた。


「宮本隊長の言った以上でしたね。あの作戦は布津野さんがいなければ、あんなに上手くはいかなかったでしょう」

「だろ」

 宮本は千葉特務准尉から受け取った報告書に目を通しながら、カカッと嬉しそうに笑う。

「隊長、あの人はいったい何者なんですか?」

「さてな、そいつは良く分からんな。俺が知っているのは、旦那が、未調整の無職で、合気道の達人で、ロクとナナのお気に入りだってことぐらいだ」

「人の『最適解』と『可能性』の……ですか」

「ああ、二人とも旦那が入院してから、公務を放り出して、つきっきりらしい」

「それはそれは」


 千葉は信じられないという様子で、頭を左右に振った。


「それだけじゃねぇぞ。黒条の組長も随分と入れ込んでいたな」

「隊長も……じゃないですか?」


 意地が悪そうな笑みを浮かべて、千葉は軽口を叩く。


「ああ、分かるか」

「まあ、あれだけ部隊内で布津野さんのことばかり話してたんじゃあね。隊長にそっちの気があったのかと不安になるくらいですから」

「ハッハッハッ、旦那にならケツ掘られてもいいかもな」

「勘弁してください。仮にも世界最強のGOAの隊長ですよ」


 豪快に笑う宮本を尻目に、千葉は表情を整える。


「それで、ご相談というのは」

「ああ、お前さん旦那と作戦時に一緒だったんだろ。どうだ、お前の目から見て、旦那は?」

「俺はすでに恋人がいますので」

「知ってるよ。部隊に必要かどうか、ってことだ」


 宮本がそう言って前のめりになるのを、千葉は腕を組んで見下ろす。


「難しい質問ですね。配属によってイエス・ノーが変わるかと。実働部隊に欲しいかといえばノーですね。やはり未調整の方には、俺たち用に規格化された装備やシステムを使いこなすのは難しいですから」

「ふむ、となると、諜報系か?」

「まあ、そうなりますが……。それも潜入系ですね。未調整の腕利きが部隊内にいると、純人会系の組織への潜入調査は随分と楽ですね」

「ま、そんなとこだろうな」


 宮本は、噛み砕いて吟味するように何度も頷いた。


「もしかして、隊長は、布津野さんをスカウトするつもりですか?」

「そうだとしたら、どう思う?」

「そうですね、まあ、歓迎ですよ。あの人なら、なにか部隊内に問題を起こすようなことはないでしょう。隊長は?」

「俺の希望で言えば、当然イエスだ。だが、まあ、旦那は人気者だからな。さっきロクから旦那の今後の処遇について相談があったんだ。それで、部隊としての要望をまとめておきたかっただけだ」

「はぁ、意思決定最高顧問から直々に、ですか」

「ああ……、それと旦那の技について、どう思う」


 宮本の目に真剣な光が一瞬だけ走った。


「技……ですか。布津野さんの格闘術ですよね。ええ、凄まじいですよ」

「部隊戦術に組み込めそうか?」

「さあ、それはどうでしょうか? 状況によるとは思いますが……確かに徒手対人戦についてはかなり優れた技能ではあると思いますが……その分、習得に時間がかかりそうです。身体能力で他を圧倒する我々があれほどの精緻な技術を必要とする場面は少ないでしょう。一部の特殊な作戦部隊、潜入や突入系になりますか、そういった部隊なら……ですね」

「ふむ、ふむ。なるほど、やっぱそうなるわな」

「補足するのであれば、」

「ん?」


 千葉はふむ、と少し考え込んで見せた。


「……今後、我々の任務には国内外への潜入突撃が増えると思います。それも政治的な要因からターゲットの殺害を自由にできないものも多いでしょう」

「ああ」

「そう言った場面では、布津野さんの技が役に立つことも多いでしょう」

「おいおい、俺に気を使わなくていいぜ」

「いえ、率直な感想です」

 と言いながら、千葉はわざとらしく敬礼をして見せた。宮本は笑うしかない。


「ん、いや。まぁ、なんとなくわかった。ロクにはそんな感じで報告しておく」

「そんなんじゃ、俺にはよく分からんですよ」

「ハッハッハッ、まぁ、やきもきしてろ」


 苦笑いを浮かべる千葉に、宮本は豪快な笑いを浴びせかけた。



 ◇

 冴子は研究所にある自分の個室で思い悩んでいた。


 彼女にとって、悩むと言うことは珍しい。

 全体的な現状を総括すると、かなり上手くいっていた。理想的といっても差し支えはない。その要因は分からない。ただ想定外のことは多く起こった。そしてその想定外のことが偶然、上手く互いに影響し、理想的な結果を生んだのだろう。

 赤羽組事務所ビルへの襲撃は、大成功といえる。

 懸念だった死者数はわずか一名だった。佐伯奈津江、モドキーズの少女だ。

 冴子にとってそれは数字でしかない。十名程度の死者を想定していた作戦が、一名の死者で済んだ。最小限の犠牲と言える。強いて言えば、死ぬなら赤羽組の組員が良かった。未成年の死亡となると世論はどうしても敏感になる。

 とはいえ、状況は理想的と言える。

 今回の赤羽組の襲撃により、赤羽組長のほか、数多くの純人会系暴力団幹部を検挙出来た。現在、取り調べ室で彼らの誘拐ルート、取引先になる外国政府について調査している。今回の件で日本が取り囲まれている国際諜報網についてかなりの部分が明らかになるだろう

 収穫はそれだけでない。五人の被害者を解放したGOAの部隊はマスコミによって大々的に報道され英雄的扱いを受けている。

 これにより近々、彼らを中心にした中央防諜組織の設立が国会審議を通過する見込みだ。警察組織を超越する権限を持ち、超法規的な実力行使を容認された組織である。行政組織の隅々に蔓延った外国政府の諜報網を一網打尽にする執行部隊をようやく設立することが出来るのだ。

 懸案の一つであった裏社会にはびこった純人会勢力の掃討も順調だ。

 最大の純人会派であった赤羽組が解体され、黒条組は求心力を失った敵派閥への攻撃、吸収を本格化していた。抗争などの実力行使も行っているが、死者はそれほど出てはいない。どうやら敵の傘下企業の株式買収などを中心とした勢力吸収を中心に相手勢力の弱体化を図っているようだ。

 あの組長はやはりただ者ではない。急速に拡大する黒条組の権勢は逆に不安を覚えるほどだった。


 とはいえ、状況は理想的だった。

 ここまでの成功を収めた原因を、安直に個人に帰属させれば布津野忠人がその大きな役割を果たしたと解釈できなくもない。冴子は何となく、いつもの癖で、個室に置いてある大きな水槽に視線を移した。そこにはマリモがゆらゆらと揺れている。


 ――だが、それは過大評価だ。


 マリモを眺めながら冴子は考え直す。マリモはそこにいるだけで、マリモに意志はない。ただ与えられた環境に対して適応し、死ぬときは死に絶える。

 この一連の作戦を立案したのはロクであり、必要な人材を判断したのはナナである。人の最適解と可能性は、不可能を実現した。ただそれだけだ。

 冴子は小さく息を吐いて、椅子に座って伸びをすると、引き出しの中から分厚い計画書を取り出して、パラパラとめくり出した。少しだけ読み進めて、ため息をこぼした。

 ありとあらゆる懸案が成功を納める一方で、その計画書が聡明な彼女を悩ましていた。

 私は、これについてどのように判断すべきなのだろうか?

 それは、ロクから渡された計画書であった。そして、その計画書は完璧と言えた。

 提案計画のメリットが整然と網羅され、想定されうるあらゆるデメリットについての対処法が徹底的に検証されていた。

 しかし、その計画が提案する内容は、かなり限定された領域についてのソリューションしかもたらさない。

 政府の最高意思決定顧問であるロクが、この計画書に費やした時間は数日ではないだろう。冴子にはこの計画が彼の貴重なリソースを費やすべきものとは思えなかった。

 彼女の手元の計画書を机に置いて、水槽の中のマリモを眺める。


 机の上に置かれた計画書の表には『布津野忠人の今後の処遇についての提案』と書かれていた。


 ◇

 黒条百合華は上機嫌で学校の屋上から遠い空を眺めていた。


 彼女は今まで、とても忙しかった。

 赤羽組事務所襲撃の後、純人会系暴力団に対して未成年誘拐の即時停止を命令。同時に、この命令に従わない場合は武力行使も辞さないと通達したのだ。

 そして思惑通りに、関東全域に及ぶ一大抗争が勃発した。

 しかし、黒条組に真っ向から歯向かう組織はほとんどなかった。

 武力は数であり、その数において黒条組は圧倒的であった。純人会系暴力団の盟主的な存在だった赤羽組が解体されたことも大きかった。求心力を失った純人会系暴力団は黒条組に対抗する力はすでに分散されていた。

 加えて、多くの暴力団は誘拐の実行を下部組織に委託しており、万が一の法的制裁の際にはその下部組織に全責任を負わせる構造になっていたことが彼らの大きな敗因となった。誘拐の全リスクを負いながらも、その利益を十分に享受できない下部組織には潜在的な不満が根強くある。赤羽組の一斉検挙の後、こういった下部組織は純人会系暴力団からの次々と離反し、黒条組の傘下に組みすることになった。


 黒条百合華が行ったことは、極道組織の構造改革と言える。

 一部の親組織が弱小組織にリスクを負わせ旨味だけを吸い上げる構造的欠陥を的確について、既存の極道組織の収益構造を崩壊させる。政府との結びつきを強めつつ合法的な収益モデルを確保し、誘拐に変わる事業を創出し、利益を妥当に分配する。大局的な見方をすれば、暴力団の資金源となっていた誘拐ビジネスは、純人会と結託していた警察が解体した今、それほど旨味のあるビジネスではなくなっていた事も背景のひとつと言える。

 しかし、そんな成功は黒条百合華にとっては、どうでもよい事だった。もはや関東圏の裏社会の掌握と秩序化は、それほど興味深いトピックでない。

 なぜなら、この一連の計画には巧妙な脚本家が存在し、たまたま自分が役者として選ばれただけであるという事を熟知していたからだ。指示通りに役をこなし、多少のアドリブを加えて気の利くところを見せてみただけだ。黒幕である脚本家はさぞ満足している事であろう。


 そして、その黒幕たる脚本家の正体についてもある程度の検討はつけていた。

 おそらく、事件の時に出会った白髪の美女——臼井冴子もその関係者であろう。しかし彼女が黒幕本人ではない。そう、百合華は直感していた。あのマリモ好きには黒幕は似合わない。

 おそらく黒幕は彼女と同じ白い髪と紅い目をしている他の人間だ。

 そして、その黒幕の横には、必ず布津野がいる。

 それが彼女の確信であった。


 ——ふふ、その布津野の兄様あにさまのお話を、ようやく聞く事が出来る。


 布津野の兄様——その呼び方を彼女はいたく気に入っていた。

 素晴らしい音の響きだ。叙事詩における珠玉の一節のように全身をふるわせる魔力がその言霊にある。まるで恋する娘のように、何度もその呼び名を反芻してきたが、未だに飽きるということはない。


「クロちゃん、おまたせ〜」


 紅葉が、思索を愉しんでいた百合華に声をかけてきた。

 屋上に吹き付ける風に学生服をはためかせながら、紅葉はお弁当箱を掲げてみせる。昼休みで弁当を二人で食べようと約束したのだ。


「モミちゃん、ひさしぶりね。赤羽組のときはありがとうね」

「ううん、クロちゃんのお蔭でみんなを助けることが出来たんだ。こちらこそだよ。それに、ほとんど先輩が倒してしまったみたいなもんだからね」

「あら、そうなの?」


 さっそく、目的の布津野の話を聞けて、百合華は目を輝かせた。思わず頬が紅潮するのを抑えることが出来ない。


「うん、一階の制圧だって、ほとんど先輩が一人でやっちゃったんだよ。私達が突撃した時には、布津野先輩の足元にはゴロゴロとヤクザが倒れていてさ。最ッ高にかっこよかったんだから」

「そうなの? 残念だわ、私も見てみたかったわ」


 百合華は両手を絡めながら、紅葉の話に耳を傾けた。

 紅葉には、布津野について誇張して話す傾向があることは百合華も十分に承知していたが、百合華にとってそれは大した問題ではない。私が聞きたいのは布津野さんの事実ではなく、彼の物語なのだから。

 百合華は達観していた。自分は布津野に惹かれている。それを恋と表現する事も出来る。でも、恋ではない何かかもしれない。少なくとも、自分は布津野という人を愛しているわけではない気がする。きっと、愛しているのは布津野という存在がまとっている物語だ。品のない表現で言えば、虚構と言える。虚構を愛するゆえに恋なのだろう。

 自分は歪んだ人間だ。

 その思いを百合華は再認識する。しかし、ネジが直線ではく螺旋構造を取るゆえに深く物体を抉り固定するように、自分が歪んでいるからこそ、事実を穿ち真実に辿り着けるだ。

 そして、辿り着いた奥底には美しさが潜んでいる。

 そう言った観点でみると、布津野を語る上で紅葉は最良の詩人と言えた。

 彼女の布津野に対する物語はもはや神話だ。そして彼女の純朴な性格から発せられるその神話は叙事詩のように美しい。


「先輩はすごく強いんだ。でもそれを誇ることをしない。ずっと前からそうで、あの時もそうだった」

「ええ」


 百合華は頷いて、耳を澄ます。素晴らしいプロローグだ。


「私たちがビルに突撃した時は、もう中は静まり返っていて、ゴロゴロと転がっているヤクザの真ん中で立っている先輩がいた。多分、三十人くらいはいたと思うよ。電気の消えた部屋の真ん中でさ、先輩は無傷で、こっちを見て笑うの。もう、最ッ高だよ」


 紅葉は、きゃー、と頭を振って端に突き刺したウインナーを頬張った。

 百合華はその光景を想像していた。あの事件の詳細については、他のものから詳細をまとめて確認済みだったので、布津野が倒した人数は十人程度であることを彼女は知っていた。

 しかし、事実など重要ではない。私が愛しているのは虚構なのだから。


「それでね、モドキーズのみんなもようやく先輩を認めたの。ねぇねぇ、クロちゃん、先輩がね、今モドキーズでなんて呼ばれているか知っている?」

「あら、なにかしら? 知りたいわ」

「うふふ、なんとね、布津野の兄貴だよ。クロちゃんと五分の盃交わしたんだから当然だってね。最初はあんなに因縁つけといて、みんな、手の平を返したように先輩のことばかり話すんだよ」


 布津野の兄貴、それも良い響きだ。

 モドキーズの若者に囲まれて、兄貴、兄貴と呼ばれる布津野の兄様はどんな顔をするだろう。ほぼ間違いなく苦虫を噛みしめたような顔をするに違いない。

 その表情がまた良い。


「……でも、先輩はあの後ずっと、ふさぎ込んじゃってさ」

 紅葉は顔をゆがめて視線を下に向けた。

「佐伯さんの事、すごい傷ついていた」

「紅葉ちゃん……」


 この神話の核心に近づいてきた。

 そして、それこそが最も百合華が紅葉から聞きたかった一節だった。

 今回の事件の結末は成功だったが、そこには犠牲はあった。一人の少女の死、それは佐伯という名の少女……。布津野を庇って死んだのだ。

 赤羽組襲撃における報告であらかじめその事については知らされていた。布津野がそこで何を為し、何が起こり、何が失われたか、全てを把握していた。

 しかし、それは報告であり散文であり、物語ではなかった。

 報告には一人の少女が布津野を庇って死亡した、とあった。

 その事実は、百合華の芸術的感性を刺激するには十分だった。そして、その顛末について、布津野の神話の語り手である紅葉から聞くことを、百合華は何よりの楽しみにしていたのだ。

 あの布津野さんが、自分のために死んだ少女を目の前にして……

 そのイメージは創造的であり、それを表現できる語り手は紅葉以外にあり得ない。彼女は現場に居合わせており、なにより布津野に対する信仰は十分にしみ込んでる。


「あれはね。私たちが人質を解放した部屋から出る時だったの。佐伯さんと布津野先輩は最後尾だった。佐伯さんが廊下に出た時、刀をもったヤクザが現われて切りつけてきた。先輩は佐伯さんを庇って、切られたの。切られたまま、ヤクザの目を抉り取った」


 ゾクゾクした。

 特に最後の一節が最高だ。『目を抉り取った』ですって? 少女を庇って、目を抉り取るという、静から動への飛躍、善から悪への転落。あの兄様がそれを為したのよ。どんな顔をしていただろうか? 凄惨? 哀哭? もしかしたら恍惚?


「それで先輩は、ヤクザ動けなくなったと思って後ろを向いたんだ。そしたら、そのヤクザが拳銃を取り出して、先輩を撃とうとした。佐伯さんは先輩を庇って……撃たれたんだ。頭を貫通してね……即死だったと思う……」

「それで、布津野さんはどうしたの?」


 続きが待ちきれず、百合華は紅葉を急かした。紅葉が怯えた目でこちらを見る。

 百合華は自分が笑っていることに気がついた。紅葉はそれを奇妙に思うだろうが、そんなことはもう構わなかった。


「……先輩は、その後、奪った刀で、そのヤクザの手首を切り落とした。凄い迅かった、迅いというか自然だった。みんなが気づいたころには先輩は、手首から吹き出した血を浴びて真っ赤だった。武器術は稽古したことあるから分かるけど、刀って凄く重くて振り下ろすのも大変で、片手で扱えるような物じゃないんだ。でも先輩は、綺麗に刀を振ったの。ストンって、感じで……」


 最高よ。

 兄様がふるう日本刀。切り落とされる手首。染まる返り血。

 これ以上に美しいものがこの世にあって?

 

「……先輩は刀をふりあげた。綺麗に正中線をなぞるようにまっすぐ。武器術は稽古で何度も見てきたけど、あんな振りかぶりは初めて。片手だけだったのに、刀身は全くブレてなかった」

 紅葉が目を閉じて語り出すと、百合華も目閉じて思い描く。

「すごく怖かった。先輩が怒っているの初めて見たの。佐伯さんを撃った男の返り血で、真っ赤になりながら、先輩はまっすぐに立っていた」

 吹き付ける風の音が煩わしい。百合華は紅葉の方に近づいて彼女の手を握った。

「でも、結局ね。先輩はそいつを殺さなかった。私はもうそれ以上、先輩を見ることが出来なかった」


 紅葉はそう言って、胎児のように体を丸めて自分を抱いた。

 完璧だ。全てにおいて完成されていた像がそこにある。

 自分を庇って死んだ少女の傍らで、返り血に染まった布津野さんが立っている。そのイメージは混沌として背徳的な陰美をたたえている。

 兄様が手首を切り落としたヤクザが、赤羽の組長だという事実が運命的なスパイスになっている。あの低俗な男が、兄様に切られて、その下賤な返り血で兄様が汚されたという事実もひどく凌辱的。


 ——マリモに似ているから……


 兄様をそう評した女のことを思い出した。

 それはあるインスピレーションを想起させる。

 赤黒い血にまみれたマリモ。生命の深緑と殺人の紅が為すコントラスト。

 私は、それ以上に美しいものを見たことがない。



 ◇

 その日が、布津野の研究所監禁生活の最終日となった。


 切断された右肩の健は、二週間ほどの安静期間で随分と調子を取り戻していた。

 幸い動かなくなるということはなく、リハビリを通して少しずつ機能は回復している。どうやら研究所の医師が施術してくれたらしく、経過は絶好調と言えた。

 よかった、右手が動かなくなったら、覚石先生から紹介された道場の指導員としての職も失うことになるだろう。

 胸を撫で下ろしながらあたりを見渡した。呼び出されたのは研究室の応接間で、何やら大切な話があるから、と冴子に呼び出されたのだ。

 布津野の向かいには、冴子が左右にロクとナナを従えて座っていた。こう見ると三人は年の離れた兄弟のように見える。応接間の壁面が白いせいで、彼らの頭髪が壁に溶け込んで見えた。もしかしたら、急に消えていなくなってしまうかもしれない。


「布津野さん、今後の貴方に対する処遇が決まりました」


 冴子が言ったので、布津野はすぐに現実に引き戻された。

 それは自分が知りたくて仕方のないものだった。はやく転職活動をしなければ、半開きの将来が完全に閉じてしまいそうだった。


「結論から言いますと、布津野さんに提示できる選択肢はひとつだけになります。もし、ご了承いただけない場合は、別案を提示するつもりですが、我々としては今回の提案を受けて頂けると大変助かります」

「はい」


 布津野は、ふと、転職における採用面接とはこんな感じなのだろうかと思った。なんだか、ドキドキする。拘束された期間の手当とかは貰えるのだろうか?


「色々あるのですが、重要なことから申し上げますと……」

 おもわず前のめりになる。もしかしたら一日あたり二万円くらいはもらえるかもしれない。一応、色々働いたし。


「……布津野さんには、ロクとナナの父親になってもらいたいと考えています」


 ——はい?


「はい?」と思った事を口にも出してみた。

「養子縁組です」

「はぁ」

「あの……どういうことでしょうか?」

「どういうこと、と申しますと」

「えっと、あれ?」


 おかしい。何で僕の質問が通じないのだろう?


「えっと、養子縁組って?」

「法的血縁関係を成立させるための手続きです」


 へぇ、法的血縁関係なんてあるんだ……。さっきから会話が成立していない。なぜだ。


「そう、ですか……」

「はい」


 冴子はそう答えると、こちらを窺うようにして黙り込んだ。しばし無言が続く。布津野は、どうやらまだ自分が質問する番なのであることに驚いた。


「あの、ロク君とナナちゃんが僕と養子縁組をする理由は何ですか?」

「気になりますか?」

「ええ、とても」


 冴子は、そうですか、と頷くと左右に座るロクとナナに視線を落とした。


「養子縁組を申し出た理由はたくさんありますが、一つには彼らの社会適応試験が必要なことです。エスノグラフィと言いますか、これには出来るだけ一般的な生活環境を用意し、実際に体験することが良いとされています。参与観察とも呼ばれる手法です」

「それは、つまり二人を普通の子供たちと同じように扱うためってことですか?」

「ええ、近年では改良素体の社会適合試験は必須ではありませんが、その他の事情も鑑みて布津野さんを養父として試験を行うことになりました」

「他の事情?」

「お伝えできないこともありますが……。そういえば、貴方はすでにナナの能力についてはご存知でしたね。この能力も理由の一つです」

「はぁ」


 布津野が要領を得ず曖昧につぶやいているのを見て、冴子は説明を続けた。


「ナナは人の可能性です。人類が新しいコミュニケーションを実現しうる可能性を秘めた存在です。その彼女の社会適合試験はこの研究プロジェクトにおける重要なミッションなのです」


 布津野は、おとなしく冴子の隣に座っているナナに視線を落とした。綺麗な赤い瞳をいっぱいに見開いて、じっとこちらを見ている。


「また、ナナが貴方に懐いていることも重要な判断要因になりました。彼女の目は人の善悪を見分けます。その彼女が認めた貴方は、少なくとも彼女に対して害意を抱いていない証左となり、試験の適切な環境といえるでしょう」


 こんな小さな女の子に害意を持つ人の方が少ないと思うのだけど、布津野はそう思いながらナナの瞳を見返した。

 とは言え、世の中は広く深い。幼いナナに対して良からぬ事を考える奴もいるのだろう。そうでなくても、いずれナナは美しい女性になるだろう。確かにそうなれば、あまり、その、なんというか、まあ、下心の強い男を養父に選ぶのは良くはないだろう。

 ……かと言って、自分に性欲がないわけでもない。やっぱり基準がイマイチわからない。


「でも、危険ではありませんか?」


 そう聞いたのは、性的な意味では断じてない。

 先日の誘拐事件に巻き込まれたばかりなのだ。二人の身柄を、世界各国が取り合うくらい貴重な存在らしい。そんな二人を外で、一般的な生活を送らせるなんて不可能なんじゃないのか。

「懸念されるリスクについては承知しています。しかし、だからといって、試験の中断はありえません。二人は研究所内で愛でるために生まれたわけではありません。遺伝子の可能性を追求するために生まれたのです。リスクを恐れて研究を中止することは、彼らを生んだ意味自体を失うことです」

 淡々とした様子で冴子は言い切った。


「もちろん、二人に降りかかる危険を放置するというわけではありません。社会適応試験といっても、完全に放置するわけではありません。必要な護衛や監視のもとで、なるべく一般的な生活環境における素体の行動を観察します。前の誘拐事件はあくまで、こちらが意図的に仕掛けた囮調査に過ぎません。懸念であった警察内部での純人会勢力が一掃され、試験における安全性は改善されていると考えられます」

「……そうですか」

「ご納得、頂けましたでしょうか」

「はぁ、大体のところは、まぁ」


 布津野が言葉とは裏腹に首をしきりに傾げているのを見て、冴子はため息をついた。


「貴方が養父に選ばれた理由は他にもあります。布津野さんが黒条組と我々を繋ぐパイプ役となっていることもです。貴方はすでに重要なパートナーとなってしまっているのです。加えて、貴方は我々の機密を知り過ぎています。可能であれば我々の監視下に貴方を留めておくべきです。養子縁組はそのための形式でもあります」


 宮本さんが自分に仕事の依頼……。何か不穏な気配がした。あの人はどことなく自分を窮地に叩き落とすような気がした。根が良い人だけに、輪にかけて厄介だ。


「最後の理由は、布津野さんが独身であるということです」

「……はぁ」


 さっきから自分は、はぁ、しか言ってないな。


「現在の判例から考えて、独身の方は養子縁組を結ぶことは困難です」

「それは、むしろ、僕が選ばれる理由にはならないんじゃあ……」

「つまり、布津野さんのパートナーをこちらで自由に選定することが出来るということです」


 いや、その理屈はおかしい。多分、絶対に、根本的におかしい。

 なにか不穏な予感がした。ここまでも割と超展開ではあったが、それでも理路整然とはしていた。しかし、ここで突然の飛躍だ。この目の前の美女のとんでもない発言に、布津野は恐怖を感じた。


「ロクとナナの家庭環境には、可能であれば我々の関係者が参加することが望ましいです。ロクとナナには政府の意思決定に関わる依頼もあります。ゆえに養母はこちらの関係者であることが好ましいのです」

「ちょっと、待ってください。そんな、知りもしない女性となんて」

「いえ、貴方の知っている人ですよ」

「えっ……っと、だれ?」


 などと、間抜けな質問がこぼれた。


「私です」


 冴子が淡々と言い切るものだから、布津野は空いた口が塞がらなかった。


「以上の理由から、布津野さんの今後の処遇につきましては、私と婚姻関係を結び、ロクとナナを養子に迎えて頂くことになります。可能であればお受け頂きたく思います。どうぞ、よろしくお願いいたします」

「ちょっ、ちょっと、待った」

「はい。問題ありません」


 布津野は頭を抱えて現状を整理した。幸いなことに、冴子の説明はいつものように論理的で分かりやすかった。つまり要点は、冴子と結婚して、ロクとナナを養子にするということだ。

 うん、わからん。

 これをイエスと答える理由はあるだろうか? 仮にノーと答えた場合どうなるのだろうか? 結婚ってもっとこう、段階があるべきだし。子どもを持つということは、それ以上にもっとナニかしないと出来ないものだったはずだ。

 それに相性というものもある。あまりにも環境が違い過ぎる相手と結婚すると大変だ、と結婚済みの友人が愚痴を言っていたのを思い出す。

 チラリと前を見た。三人の美し過ぎる白い人間たち。自分との共通点は手と足が二本ずつついていることぐらいだろうか? いや目と鼻と口もついてはいるが……。


「布津野、嫌なの?」とナナが不安気に尋ねてきた。

「いや、いやいや、嫌じゃないよ。うん」


 どっちなんだよ、と自分でもわけが分からない。

 実際、嫌に思う要素は特にない。しかし、やはりというか、当然だが、唐突過ぎた。もっと、こう時間をかけてお付き合いから始めるべきではないだろうか? どうだろうか? もし、お断りをしたら冴子さんが傷つけてしまわないか? それとも男なら腹をくくるべきなのか? 友人も口を開けば嫁さんの愚痴ばかりだが、結婚は勢いで決めるものだと太鼓判を押していた。


 ……それも、何か違う気がする。


「布津野さんは今、無職でしたよね」とロクが声をかけてきた。

「え、うん。そうだよ」


 話題が逸れて、ほっと安堵した。

 ロクは冴子を見上げた。


「グランマ、養子縁組における受け入れ判断は家庭裁判所が行います。おそらく、養親側の経済力が問われるはずです。無職の布津野さんではそもそも養子縁組は難しいのでは?」

「ああ、その事ですか。それはまったく問題ありません。養子縁組を結ぶ前に、布津野さんには職を斡旋させて頂くつもりです」

「職を斡旋……ですか?」


 布津野は思わず食いついた。それを見たロクはニヤリと笑っていた。


「ええ、いくつか選択肢を……」

「それは、それは正社員ですか?」

「正社員? 雇用形態のことでしょうか? ええ、おそらく公務員の正規雇用になると思います」

「公務員!」


 公務員とは、あの公務員のことであろうか? 真面目に働いてさえいれば解雇はされないという夢のような職業のことだろうか?

 布津野は歓喜に目がくらんだ。目の前が明るい未来で照らされて真っ白だ。

 未調整の自分がまともな職につくことは諦めていた。アルバイトをしながら、道場の手伝いをして細々と生き長らえていくつもりだった。

 しかし、そんな彼のもとに最良の未来が今、勝手に切り開かれていた。


「是非、是非! お願いします!」

「それは、養子縁組をお受け頂けるということですか」

「はい、こちらこそ。ふつつか者ですが、何卒、よろしくお願いします!」


 ナナが顔をぱぁと輝かせて駆け出した。そのままの勢いで、布津野に飛びついた。

 慌てた布津野はそれを、抱きしめるように受け止める。ナナの吸い込まれるような赤い瞳がキラキラと輝いている。


「布津野、ううん、お父さん、ありがとう!」


 ナナの笑顔が眩しかった。


 こうして、僕はロクとナナの父親になり、冴子さんの夫となることになった。

 それは忘れもしない。僕が三十歳の独身で無職だった頃の、一月が終わろうとしている時だった。



 ―― 第一部終了

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