[1-10]仕合

「布津野先輩!」


 元気な女の子の声が道場に響き渡った。布津野の道場は新宿区の片隅にあり、それなりの広さがある。名の知られた道場ではあったし、都心近くに位置していることもあり多くの道場生が通っている。


「やぁ、紅葉もみじちゃん。久しぶりだね。開けましておめでとう」

「おめでとうございます。本当ですよ、どうして今まで道場に来なかったんですか? お爺ちゃんも心配していたんだよ」


 安達紅葉がそう布津野を見つけたのは道場の玄関だった。

 紅葉は中学三年生になる少女で、白い胴着に黒袴を見事に着こなしている。

 年齢こそ幼いが、この道場の主である安達覚石の孫にして、二段の認可を得ている合気道家でもある。当然、最適化された恵まれた身体能力に幼いころからの祖父による合気の手ほどきを受け、道場でも屈指の実力者でもある。


「覚石先生にも、心配をかけたようだね。ごめん」

「そうだよ、年越し稽古にも来ないなんて、どうかしてるよ。私、先輩と稽古するの楽しみにしてたんだから」

「勘弁してよ。もう紅葉ちゃんには、敵わないよ」

「合気の極意は勝ち負けではありません」

「まあ、そうだけどさ」


 布津野は頭を掻いた。

 道場に通って十五年以上にもなる布津野は紅葉とは長い付き合いだった。

 まだ彼女が赤ん坊の頃から知っていたし、おしめを変えたこともある。昔から可愛らしい子ではあったが、随分と大きくなった。美しいことが当然となった今日ではあるが、彼女にはそれに加えて明るく人見知りしない性格が一層、可愛らしい印象を強めている。

 それでいて、大人顔負けの実力者であるところがまた、彼女の道場内での人気の秘密だ。


「稽古していくんでしょ?」

「いや、実は用事があってね。今日は覚石先生に新年のご挨拶をしにきただけなんだ」

「え~、先輩と稽古できると思ったのに……、んっ、後ろの大きな人はお知り合い?」


 紅葉が布津野の後ろを覗き込んだ。

 布津野の後ろにいた宮本は、小さく頭を下げた。


「ああ、見学になるのかな。宮本さんと言って、僕の知り合いさ。道場を見てみたいらしくてね」

「ほう、良い身体してますねぇ。もしかして、格闘技とかしています?」


 紅葉が宮本に気さくに声をかける。初対面の相手でも明るく接する事の出来ることは紅葉の良いところだ。


「ええ、紅葉さん……ですか? 宮本です。格闘技は好きで、いくつかかじっています。今日は布津野さんの技に興味がありまして。突然で申し訳ありませんが、お伺いさせて頂きました」


 布津野は改めて宮本に対して感心した。普段はざっくばらんな物言いが目立つ人ではあるが、こういった場面ではちゃんと礼儀を整えることが出来る。緩急ある節度を十分に心得ているのだ。

 紅葉ちゃんもこれを見習っていってほしい。


「ほうほう、先輩の技に……ですか。それはそれは、お目が高い。ちょうどお爺ちゃんも稽古が終わって暇しているところだよ。案内するね」

「ああ、助かるよ」

 そう言って、紅葉につれられて布津野と宮本をつれて道場の奥に入っていった。



「ようやく、顔を出したか。布津野」


 と安達覚石が、現れるなり声を上げた。

 覚石は齢八十になる老齢の合気道家であり、この道場の主でもある。孫である紅葉が連れてきた布津野をみて、少し甲高い声を発して手を挙げる。歓迎して頂いているのだろう、布津野は自然と頭が下がる。


「先生、明けましておめでとうございます。ご無沙汰しておりました」

「構うまいよ。しかし、お前がいないと紅葉の奴が寂しそうでな……はて、その後ろの大きいのはどなたじゃ」


 覚石は布津野の後ろについてきた宮本に気が付いた。


「宮本と申します。布津野さんの道場を拝見したいと思いお邪魔させて頂きました。この度は突然の訪問となり、申し訳ありません」

「そうか、そうか、布津野の知り合いか。構わんよ。くつろいでいきなさい。そんな畏まらんでも良い」

「ありがとうございます」


 お元気そうで何よりだなぁ、と布津野は妙に幸せな気分になった。

 自分が合気道を初めてから、覚石先生には随分とお世話になった。このご老体が健在であることに安堵もした。仕事でゴタゴタがあり、無職になって、その後、色んな事件に巻き込まれて、この数か月はなかなか道場に顔を出すことが出来ずにいた。あらためて自分にとって、この師がいる道場がかけがえのない場所であることを再認識する。


「それで、今までどうしていた?」と覚石が布津野をみる。

「はぁ、実は恥ずかしながら、勤め先を辞めさせられまして、無職になってしまいました」

「ほう、それはそれは……」


 素直に打ち明けることができた。どうも覚石先生の前では、自分を飾るということを忘れてしまうようだ。


「このご時世、大変なことじゃろう……」

 覚石は顎を撫でて、何やら思案してい出した。

 慌てて布津野が言い添える。

「ご心配頂かなくても、まあ、なんとかなると思います。後ろの宮本さんからもアルバイトを紹介していただいてますし」

「ふむ……そうか、さてな……。ところで布津野よ、稽古はしていかぬのか?」

「申し訳ありませんが、本日はご挨拶だけお伺いしました。また日を改めて……」

「まあ、そう言うな。紅葉がお前と稽古ができないと、ずっと駄々をこねていたのじゃ。十分程度で構わんから、稽古してやってくれぬか?」

「はぁ、有難いお話ではありますが……」


 そう言い淀んだ布津野は後ろに座る宮本を振り返った。


「旦那、俺は構わないぜ。むしろ、旦那の技が見れるなんて願ったり叶ったりだ」

「……では、お言葉に甘えて、胴着もありませんが」

「そのままで構わんよ。紅葉、稽古してもらいなさい」

 覚石が部屋の隅に控えていた紅葉に言うと、

「やった! お爺ちゃん、大好き!」

 紅葉は飛び上がって喜んだ。



 新年の稽古が終わり、門下生の多くは初詣にでも行ったのであろう。稽古場には誰もいなかった。

 道場の中心には、布津野と紅葉が相対して立っている。両者とも手を組みかわし、一連の技の型に沿って体捌きを確認していた。

 合気道の稽古といっても、多種多様なあり方があるが、この道場では型稽古を中心としている。

 型稽古は二人で行うことが一般的である。

 それは、ごく一般的なイメージでいう実戦的な訓練とはかけ離れたもののように見える。まず、相手が自分の手首を掴むところから技が始まる。実戦で敵が自分の腕を掴むという限定された状況はあまりない。しかし、合気道の稽古は常に状態から始まる。

 その状態から、相手を拘束しあるいは投げるところまでの、決まった動きを繰り返すのが型稽古だった。目の前の布津野と紅葉も一連の予定された動きを繰り返していた。

 この訓練を繰り返して実戦で役に立つのか? 

 宮本はそう疑問に思っていた。しかし、布津野はそれを実戦で使って見せた。その事実と目の前の稽古のギャップを納得しかねた宮本は、その率直さのまま、隣りにすわる覚石に問いかけてみた。


「先生、失礼ですが、あの稽古は意味があるんですか」


 それを聞いた覚石は、堰をきったように大声で笑い出した。

 稽古中の布津野と紅葉は驚いて覚石を見たが、覚石が「すまん、続けよ」と言うので稽古を再開した。


「宮本さん、だったかね。君は随分とまた気持ちの良い人じゃな」

 覚石はまだ笑いを堪えきれぬ様子だ。

「はぁ、不躾な質問で申し訳ありませんが、お教え頂けたらと」

「ふむ、あの稽古法とダンスとの違いについて……かな?」

「まあ、ありていに言えば、そういうことですな」

 覚石はまた大きく笑うと、宮本の方を振り向いた。

「よいよい、最近はそう言ってくれる若者も少なくなった。……宮本さん、お主は実戦を知っているか?」

「ええ……戦場にも何回か出たことがあります」

「……そうか、布津野とはどういった関係じゃ?」


 宮本は、それに答えるまで少し間を置いた。覚石の目をみつめて、やがて諦めたように頭をふると、

「これは、布津野の旦那にも内密にして欲しいのですが……、私の部隊に旦那をスカウトしたい、と考えているのですよ。ただ、戦闘要員ではないのですが」とこぼした。

「……さようか」

 と覚石はそうつぶやくと、「それまで!」と稽古をしていた布津野と紅葉に呼びかけた。途端に二人は動きを中断し、間をとり、互いに礼をして覚石に向き直る。


「布津野よ、そこの宮本さんと仕合なさい」

「先生?」


 布津野は目を見開いて、覚石を見た。「しあい」とはどういった意味なのか、にわかには図りかねた。


「仕合の取り決めは不要じゃろう。互いに互いの技を見極めたらよい。だが、くれぐれも怪我はせんようにな。実戦以外での負傷は武道家の恥じゃ。不心得は互いに慎みなさい」

「覚石先生、一体、またどうしてですか?」

 布津野は狼狽して食い下がる。

「布津野、お前はこの道場の看板を背負っているつもりでやりなさい」

 布津野の言葉を無視してそう言いつけると、覚石は宮本のほうを振り向いた。

「どうじゃ? 宮本とやら、やるか?」

「……願ってもないことです。布津野の旦那とは、一度やりたいと思ってました」

「そうか、宮本よ。もし布津野に勝てたと思ったら、ウチの看板を好きにして良いぞ。布津野も、看板を守るため全力を出せ。これは命令じゃてな」

「先生、しかし試合形式の稽古は禁止しておられ……」

 そう言いすがる布津野を覚石はぴしゃりと遮る。

「四の五の言うな。ようは勝てば良いのじゃ。ほれ、紅葉、こちらに来なさい。よく見ておくように、布津野の本気じゃぞ」

「はい」

 紅葉はいつもと違う緊張した面持ちで鋭く答えた。

 紅葉と入れ違える形で宮本が道場の中央に歩み寄る。布津野は茫然と立ち尽くしていたが、どうやらすでに臨戦であることに気が付くと、構えを取った。


 ――どうして、こうなった。


「では、はじめよ」


 覚石の合図が張りつめた空気に吸い込まれた。

 宮本は数歩前に進み布津野との間をつめる。

 布津野はその場で静止してその様子を窺う。


 ――勝てないからね。絶対に。


 相対すると宮本の恵まれた体躯を見上げるだけで、こちらの戦意がすくんで足が震えそうになる。

 高い身長に、長い手足、それでいて十分に練り込まれた筋肉は繰り出される攻撃が対応不能なほどに迅く、重いことを予感させた。

 無手の格闘において、体重と身長の差はほぼ実力の差と比例するといっても良い。

 リーチ長ければ相手の範囲外から一方的に攻撃が可能だ。対して、こちらは戦いの主導権を常に相手に譲ることになる。体重が重ければ一撃で体を崩され、組みつかれた際に脱出することはほぼ不可能となる。


 ――この差を埋めるのが技だが……


 宮本の構えは開いた浅い左半身。牽制のための左に、重い攻撃のための右の備え。

 軽く開いた身体は、打撃から組み付きまで幅広い状況に対応できる。

 完全にプロだ。技でも勝てる自信はない。

 この負けが確定した試合に一体、何の意味があるのか……などという思考を布津野は拭い捨てた。


 相対する二人の間には、緊張感が張りつめていた。

 雑念の入り込む余地はもはやない。

 布津野の思考は沈み、身体の反射に全てを委ね、脳の機能を停止する。

 攻撃の予兆……

 己の備え……

 相手の呼吸……

 布津野の意識は、次第に相手の呼吸へと収束していく。


 実戦――つまり殺人を前提とした戦いでは、体格や技以上に重要な要素がある。それは相手の意識の間を取ること。「先を取る」と表現される事も多い。

 打撃や組み付きなどの代表的な攻撃手段は、相手を殺すためのプロセスでしかない。

 重要なのはより死に直結する結果を相手にもたらす事にある。

 眼球への打撃、

 みぞおちによる呼吸停止、

 頸動脈圧迫による意識断絶。

 敵を如何に無力化し生殺与奪権を得るためのそれらの致命的な攻撃自体には、力は殆ど必要ない。

 重要なのは、相手との同調し、その意を解し、殺せる位置に自分が立つこと。


 宮本が動いた。

 鋭く重厚な前蹴り、布津野はその蹴りに吸い込まれるように一歩前に出た。

 その蹴りは、紙一重で空を切り、風圧だけが下半身を叩く。

 宮本の拳と布津野の掌が交差し、布津野はあっさりと押し負けた。

 両者の間に頭一個分の間が空く。

 宮本の足が跳ね上がりその間をなぎ払った。

 その回し蹴りは、ビュンと唸って、空振りに終わる。

 布津野は宮本の裏――背中にいた。


「ぜぁ!」と宮本が吠えた。


 空振りした蹴りの勢いをそのままに、軸足を組み換え、振り向きざまに背後へひじ打ち、


 ――宮本の視界が暗闇に塞がれた。


 宮本はその原因が、自分の目を布津野が掌で覆ったことだと気付いたのは、繰り出したひじ打ちを放った後だった。

 ズンと芯を捕えた打撃の衝撃を両者は共有した。

 布津野は吹っ飛んだ。受け身を取りきれずに、何度か転んだ後、立ち上がる。


 攻撃を受け止めた右腕が痺れて動かない。まさか、全身が吹き飛ばされるとは思わなかった。

 骨折れてないかなこれ……。

 目の前の宮本は、呆然としたように布津野を見ている。

 勝負の緊張感は潮が引くように過ぎ去っていった。


「それまでじゃな。どうじゃ、布津野よ」


 勝負が終わったことを確認した覚石は布津野に問いかけた。


「はぁ、まあ当然ですが、勝てませんね。腕が痺れて動きません。あのまま追撃されたら組み伏せられてお終いです」

「お前というやつは……看板かけてやっておるのじゃから、もう少し気張らんか」

「僕にかけないでくださいよ」


 布津野は困ったように笑うと、その場で正座して痺れた腕をさする。

 折れてはないと思うが、指先まで痺れて本当に動かない。防御が不味かったとか、打ち所が悪かったというわけではない。防御の上から腕が不能にされたのだ。とんでもない威力だ。


「まぁ、でもこれは勝てませんよ。何度やっても同じです。一撃で腕を持っていかれました。宮本さんの長い間合いで、打撃戦をされるとお手上げですね。こっちは手も足も短いですから、文字通り手も足も出ません」

「ふむ、まあ、布津野らしいことよな……宮本さんはどうじゃ?」


 呆然と立ち尽くしていた宮本は、覚石の言葉に目を覚ましたかのように反応した。


「……布津野の旦那、悪い冗談だぜ。俺の目、抉り取れただろう」

「え、いや、どうかな? そんな余裕はなかったと思うけど……」

「白々しい嘘はよしてくれ。目を塞いだだろう」

「塞いだっけ? まあ、でも一瞬だったし、すぐに吹き飛ばされたでしょ。あのままつづけたら確実に僕はやられていたと思うよ」

「それだけじゃない。旦那は俺の驚きを理解してないかもしれないようだが、俺は強いんだ」

「そんなことは、分かっているよ。見れば誰だって分かる」

「そうじゃない。俺は五歳から訓練を受けて、そこで最も高い評価を受けて、今は特殊部隊のリーダーだ。そんな俺とやりあえる奴なんて、同じ部隊のやつでもほとんどいない」


 そんなスゴイ人だったんだと、布津野は改めて宮本を見直した。あの大きな体躯と鍛え上げられた体にはそんな秘密があったのだ。ロクやナナ、冴子が頼りにするのも頷ける。


「そんな俺と、未調整の旦那は渡り合うことが出来た。こいつは異常だぜ」

「偶然だよ、次やったらボコボコにされちゃうさ」

「偶然ってのは何度も続くものじゃねぇ。旦那は偶然が多すぎる」

 宮本が掻きむしりながら、布津野をさらに問い詰めようとした時、

「宮本さんや、その辺にしときなさい。勝ち負けは互いで判断すれば良い。仕合の結果と、実際の結果は違う。一喜一憂せず、それぞれの反省点を確認して次の工夫につなげるのが良かろう」

 覚石が二人のやりとりを中断すると、あらためて布津野を見る。

「布津野よ、時にお前、今は無職なのだな」

「はぁ、お恥ずかしながら」


 布津野は頭を掻いた。


「良ければ、道場の指導員としてお前を雇ってやってもいい。指導員の給与では生活は難しいが、まあ何か日雇いをしながらであれば、生活には困るまい」

「本当ですか!? 先生」


 布津野は思わず声が上ずった。目を見開いて前のめりになる。


「お爺ちゃん、本当!? やった布津野さんと毎日稽古出来る」

 紅葉は手を叩いて喜んでいる。


「先生よ、ちょっと待ってくれ。何というかそれは、また卑怯じゃないかい」と宮本が慌てて口を挟んだ。

「宮本さんよ、こういうのは早い者勝ちじゃてな。まぁ、今ここで決めろとは言わん。布津野にも色々と考えることもあろう。後で答えを教えてくれ」

「ありがとうございます!」


 布津野は深々と礼をした。心の底から頭が上がらなかった。


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