[1-02]ラーメン
◇
ここは東京の新宿。
オフィスビルと歓楽街が立ち並ぶ、日本有数の大都市地域であるこのエリアは、平日の昼過ぎには多くのサラリーマンが往来を練り歩いている。
その往来を縫うように駆ける二人の子供の影があった。二人は髪も服装も真っ白で、異様なほどに美しい。まるで都会に迷い込んだ冬の妖精のようだ、そんな錯覚を周囲の人たちに与え、実際、往来の人々は駆け抜ける二人の姿を立ち止まって凝視していた。中には、携帯端末で撮影を試みようとするものも少なからずいる。
その二人のすぐ後を追いすがるように駆け抜ける男が一人いた。その男は対照的なほどに平凡な男だった。容姿から遺伝子最適化を受けていない『未調整』のようだ。年齢は比較的若そうであることから、おそらく親の不心得で最適化を受けなかったのだろう。その不憫さが、まるでその男の唯一の特徴かのようだった。
その平凡な男――布津野は、後悔していた。
何に自分が後悔しているのかは、布津野自身にも明確には分からなかった。しかし、最近、運動不足がちであった事に対しては間違いなく後悔していた。揺れ乱れる視界には二人の白い子供が駆けている姿がある。流石は遺伝子最適化を受けた子供だ。大人の自分が全力で走って、なんとか追いすがる事が出来るかどうかという速さだった。
布津野は後ろを振り返った。目の前には怪訝な目でこっちを見ている往来の人々。その人垣の向こうから、「待て! 邪魔だ、どけ!」という乱暴な男の声が聞こえてきた。追いかけている奴らの声だ。
――僕は、何をしているんだろう。
その疑問は当然、布津野にあった。あの二人に関わる理由はどこを探してもない。だが、しかし、そういった事を冷静に考える余裕もない。
布津野は懸命に走った。目の前の白い妖精の姿を見失わないように、ただひたすらに駆けた。
次の瞬間、目の前の二人が、わき道に吸い込まれるように曲がるのを辛うじて視界に捉え、反射的にその後を追った。曲った小道には人はほとんどいない。二人が曲がってすぐにあったラーメン屋に飛び込むように駆けこむのが見える。急いで布津野も後を追って中に滑り込んだ。
ラーメン屋に入った布津野は後ろを振り返った。二人を追いかけている男達の姿は見えない。人ごみの中を縫うように駆けて来た上に、わき道に入り込んでラーメン屋に入ったのだ。
こちらを見失ったのかもしれない。そうであってくれ。
そう思いながら、布津野は店内を見渡した。テーブルが二つに、六、七人がけのカウンターがある小さな店内だった。昼過ぎだというのに、客はまばらにいた。冬場のラーメン屋特有の、湿気た暖かい空気が心地よい。どことなく、美味い店であることを予感させる雰囲気だ。
しかし、店内は妙な緊張に満ちていた。客たちは皆、食べることを中断して、店の奥にあるテーブルの方を凝視していた。
布津野はそのテーブルを見て、すぐにその訳を了解した。例の二人が並んでそのテーブルに座っていたのだ。
異様な光景だった。小汚い店内にちょこんと座る、周囲から浮き上がらんばかりに美しい二人の様子は異様以外の何物でもない。まるで六畳一間の家賃三万円のボロアパートにお値段数百万円の精巧なフランス人形を飾ったようなチグハグ感がそこにある。
布津野は、妙に緊張してテーブルに近づいた。周囲の視線が自分に集中するのを感じながら、二人の向かい側に座る。衿もとを緩めてコートを脱ぐ。全力疾走してきたせいで座った瞬間に汗が噴き出してくる。手元のグラスに水を注いで、一気に飲み干す。
……さて、何を聞くべきなのだろうか?
チラリと二人を一瞥する。赤い瞳がまっすぐとこちらを見返している。その瞳には、追われていた事への恐怖も、その場をしのいだ安心も、ましてや布津野に対する依存も感じられない。
布津野は、その瞳に思わず怯んだ-。
「あ……、なんだろう、その……」と言い淀んだ。
男の子は目を細めて、まるで品定めをするようにこちらを見据えた。女の子の方は、眼を大きく開いてこちらを凝視していた。心なしか彼女のほうは少し笑っているように見えた。
緊張のあまりハハと情けない笑いをこぼして、頭を掻いた。どうにかして、なにか会話をしないと。
「あ、そうだ。ラーメン、食べないかい?」
メニューを二人に差し出してそう言った。
◇
……ラーメンは嫌いなのかな?
布津野は、二人とも返事をしないので不安になる。
こちらを見据えていた男の子の目は一層険しくなり、まるでこちらを睨みつけているようだ。一方の女の子は相変わらずジッとこちらを見ている。
「チャーハンも、あるみたいだけど……」と一縷の望みを託して重ねてみた。
「この状況では食事している余裕はありません」ピシャリ、と男の子が言った。
ひどく正論だなぁ、と布津野は思った。
そういえば余裕などどこにもあろうはずはない。つい今しがたまで二人は男達に追われていたのだ。
しかし、とはいえ、追手をまくために入ったとはいえ、ここはラーメン屋なのだ。ラーメン屋に入ってラーメンを食べないというのも道理に合わない。今、このラーメン屋で二つの正論が真っ向から対立している。これは難しい問題だ……。
「そうだね。とりあえず、ラーメンは後にしようか」
そう譲歩すると、男の子がまた睨みつけたが、諦めたように溜息をついた。
「……僕たちが追われている理由を聞かないのですか?」
「ああ、それね。それだよ、それ」
それを聞きたかったんだ。気が動転してしまってラーメンを優先してしまっていた。ちょうど、試験勉強中に無性に漫画を読んでしまいたくなるのと同じ感覚だ。
男の子はいっそう疑わしげな目でこちらを見ると、横の女の子に話し掛けた。
「本当に、この人を信用していいのか?」
「うん」と女の子は布津野から目を離さずに、即答した。
男の子はその綺麗な顔を苦悩に歪ませて何か考えているようではあったが、やがてもう一度大きな溜息をつくと、布津野に視線を戻した。
「まだ安全を確認できたわけでもありませんので、手短にではありますが」
「ああ、構わないよ。なんだか意味深だねぇ」
また男の子が表情をゆがめる。
「……簡単に言えば、僕達を追って来たのは『純人会』の人間です。彼らの目的は誘拐です」
「純人会って……あのニュースで良く出てくる過激派の団体のこと?」
布津野の声が思わず上ずった。
「ええ、流石にご存じのようで助かりました」男の子は目を細めた。
純人会は遺伝子最適化法に反対する過激団体で、他人の迷惑を顧みず公害クラスの騒音デモを白昼堂々と起こしたり、テロ紛いの爆破事件など日夜ニュースを騒がせている危ない集団だ。
「そんな怖い人達が、どうして君たちを誘拐しようとしているんだ」
「詳しい話は省きますが、外国に売るためだと考えられます。ご存じだとは思いますが、遺伝子最適化を合法にしているのは日本だけです。日本人の子供は裏ルートでは高額で売買されます。純人会にとって誘拐ビジネスは重要な資金源なのですよ」
布津野は顎に手をあてながら眉をひそめた。
子供を誘拐して販売するという非道徳的なビジネスなど布津野は知らなかった。しかも、小学生くらいであろう彼が裏取引の実態を把握していることについても、にわかには納得することが出来ない。それとも、最近の最適化を受けた子供とはこれほどに博識なのだろうか。最適化の技術は年々向上し、生まれてくる子供の能力は飛躍的に向上しているらしい。
色々と納得しかねる点が多かったが、この子が語ることが真実だとしたら、誘拐された子供が決して良い扱いを受けることはないことは容易に想像がつく。世界中の反対を押し切って最適化を合法化した日本は国際的に孤立しているのは有名な話だ。ましてや、目の前の二人の異常な美しさからすると、かなりの高額な商品となるのであろう。
きっと、海外の太った富豪の中年に買われて色々と表現し難いような酷く嗜虐的な事をされるに違いない……エロ漫画みたいに。
とはいえ、布津野はいまいち自分の置かれている状況について現実感を持てずにいた。心のどこかで、これは何かの夢なのではないかという気がしてならなかった。目覚めるとと、いつもの手狭なワンルーム・アパートの布団の中で、いつもの生活が始まるのだ。そしてきっと、自分の失業も夢で、いつも通りの億劫さをあくびと一緒に噛み殺しながら出勤するんだろう。そうであってほしい。
「だとしたら、大変じゃないか。警察に通報しないと」
布津野はそう話を合わせてみる。
これが夢でなければ、男の子の虚言という線もある。どちらにしても警察にバトンタッチするのは悪いアイデアではない。
「それも悪くないかもしれませんが、今はやめてください。一度、僕と彼女の安全を確保する事を優先すべきと思います。ところで、あなたはどこにお住まいですか?」
「僕の家かい? ここらへんの近くだけど、歩いて十五分くらいかな」
「一人暮らしですか?」
「ああ、アパートだよ」
「セキュリティ・システムはどの程度のものですか?」
「セキュリティか? 普通じゃないかな、一階玄関はキーで開閉するタイプのやつで、僕の部屋は三階だな」
「……ふむ、悪くありませんね。一度、あなたの家に移動すべきでしょう。僕らの姿は目立ちますから、歩いて移動は危険です。タクシーを呼んで頂いてもいいですか?」
「えっ、ああ……まぁ、いいよ」と勢いに流されて、うなずいた。
「ありがとうございます」
男の子が頭をさげたのを見てながら、布津野は、しまったなぁ、と後悔した。
勢いで了承してしまったが、男の子の言う事が本当であれば危険な事に首を突っ込んでしまったことになるし、夢であっても部屋に他人を入れるのは億劫だ。とは言え、子供二人をこのまま放置するというのも気持ちが悪い。
しかし最も気になる事は、家の中が散らかって汚いことだ。見られて不味い教育上よろしくないもの、主に18禁的なものは、放置してなかっただろうか。独り暮らしが長いとそこら辺は無頓着になってしまい平気でエロい雑誌類などは見えるところに置きっぱなしだ。気になってしょうがない。
部屋に二人を入れる前に、五分だけ部屋前の廊下で待ってもらおうと思いながら、携帯端末からタクシー会社の送迎システムにアクセスしようとした時――。
クゥ~、と空腹を訴える腹の虫の音が聞こえてきた。
その音がした方を見ると、顔を真っ赤にした女の子が上目づかいでこちらを見ていた。
「お腹、すいちゃった」
「……ラーメンとチャーハン、どちらがいい?」
その後、安全確保とラーメンとチャーハンのどれを優先すべきかの意見対立があったが、タクシーが到着するまでの間にラーメン半チャン定食を食べるという包括的な妥協案が可決された。
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