第4話 異常者

 男が歩いている。


 町から離れた、町工場が建ち並ぶ工場地帯、休日とあって、どの会社も人の気配がない。


 男は安物の野球帽を目深にかぶり、大きなマスクをして顔を隠しながら。

 膨れた安物のダウンジャケットのポケットに両手を突っ込み、背中を丸めディパックを背負い、人気のない場所を選んで歩いている。


 獲物を探している。

 身元がバレないように、住んでいる場所から少し離れた場所まで来ていたが、たようだ。


 このご時世だ、野良の動物は少ない。

「明日は場所を変えるか」

 今日は楽しめないかもしれない、そう思い帰ろうとした時。

 黒い影が視界に入った。


 猫だ。


 男は背中に背負っているディバックを下ろし、中から餌を出した。餌で釣ればバカなヤツらは釣られてくる。


 餌を見せると鳴き声を上げて近づいてきた、他の人間からも餌を貰っているのだろう。

「こっちにおいで」

 そう言いながら、工場と工場の間に出来ている細い路地に誘い込んでいく。

 マスクの下でニヤニヤと笑いながら。


 安心して餌を食べ始めた猫を見ながら、ディバックの中を探りハンマーを取り出す。

 動かなくしてしまえば好きに出来る。

 凶器を振り上げ、猫めがけて振り下ろそうとしたとき。


「おじさん、なにしてるの?」

 声がした。

 少し高い、子供の声だ。

 ビクッと体を震わせ声の方に振り向くと、小学生くらいの少女がこちらを見ている。


 男が急に動いたせいか、少女の声が聞こえたせいか、猫は一目散に逃げだし姿を消した。


「この辺で猫とか犬とか殺されてるのって、おじさんの仕業?」

 物怖じもせず、少女は男に問いかける。


 『見られた』、心臓が苦しい、息が荒くなる、血の気も引いている。

 乾いた口から、やっと声を出す。

「そ……んなことはないよ」

 感づかれている?

 どうしよう、どうすればいい?

 心の中で自問する。

 見られてしまった、いや、まだだ、何とかごまかすか。


「手に持っているのは、なぁに?」

 少女の問いかけは続く。

 思わず口ごもってしまう。

 話されたらどうする? いや、話されるだろう。

 話さないように脅すか? 子供なら脅せば黙るだろう。

 いや、少し痛めつけるか、幸い他に人は居ない。


「こっちに来てごらん、お菓子をあげるよ」

 目を細め、出来るだけやさしげな声を出し、少女に話しかける。

 ディバックの中に手にしていたハンマーをしまい込み、何かを探すふりをしながら手探りでナイフをケースから出す。


 緊張からか息が荒くなる。

 いや、興奮しているのだろうか、これから、この少女に行う事に対して。

 怯え恐怖に歪む顔を想像して。

『人間相手だ……、やり過ぎないようにしないと』


 一歩、二歩、少女は男の方に向っていく。

 もう少し近づけば……。

 男は飛び掛かるように、少女の細い肩を掴み押し倒し、その眼前にナイフを突きつける。


 細い肩を掴み? 

 男の手はすり抜ける、そこに何も無いように。

「!? ーーーーっぐぅ!」

 男はそのまま頭から前のめりに倒れ、顔も体も大地にしたたかに打ち付け、うめき声を出した。


 ごぼっ。


 急に男の鼻と口に液体が入って来た、慌てて手足をバタつかせて起き上がる。

 男は困惑する、田舎の町工場の立ち並ぶ裏路地で溺れそうになったのだ。


「な……何だこりゃ……」

 息が詰まりむせながら、やっと声を出し、びしょ濡れのまま尻もちを着いたような恰好で唖然する。

 腰のあたりまで黒々とした水がある。

 空は薄暗く周りも薄暗く、地べたに座って腰のあたりまである黒い水が、辺り一面に広がっている。

 周りには工場も、建物一軒も見当たらない。

 さっきまで居た場所とはかけ離れた、異常な場所。


 ゾワリと背筋に冷たいものが走る。

 肌が泡立ち、びしょ濡れの身体に冷たい汗が流れだす。

 男は自分の置かれた状況を、有り得ない状況、在り得ない場所、自分は今そこに居る。


「はっ……、うっぁ」

 喉がひりつき、乾いた口から間の抜けた声が出る。


「うっ……、うあぁああぁああああぁ!! 誰か!! 誰か助けてくれーーーー!!」

 恐怖と不安と混乱が押し寄せ、男は大声を出す。


 その叫び声は、誰にも聞こえず、どこにも響かず、薄暗い空間の中に沈んでいった。

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