向かった先は東の京

 縁あって地方暮らしの事務員から都会暮らしの秘書に転職ジョブチェンジすることが決まった。


 英明ひであきくんが漫画片手に声を荒げたあの日から……。

 と、いう訳でもないのだけれど、ここ1、2年の間に遭遇した事件事故の件数は二桁に上る。

 ……おや? いつから日本は犯罪都市に?

 なんて、実際にはふざけるような余裕もなく一心不乱。

 必至になってどうにかこうにか命を繋いできた。


 そんな中で幾度目かのコンビニ強盗に巻き込まれた時のことである。


 ——勇人はやとくんが人質として犯人に捕らえられた。


 ややあって到着した警察官の尽力により無事に救出され本人に至っては慣れたものだと言わんばかりに落ち着いた様子を見せているのでその点に関しての心配はない。


 問題が重なったのは確保された犯人が連行されようとしていた時。

 最後の足掻きと警官の手を振り切って逃亡を図った相手がこちらに向かってきたのだ。

 より正確に言うと進行方向に居合わせただけ。

 犯人としても人質を得て形成を逆転させようなんて気持ちはなかったろう。

 何せ両手には手錠を嵌められ脅しの武器も徴収された後のことである。


 それでも油断はならない。

 か弱い一般市民の私が取るべき行動は正義感を持って立ち塞がることではなく怪我をしないよう道を譲ること。

 普段ならきちんとその定石に沿っただろう。


 子供を人質に取られたことで恐怖心が振り切れ苛立ちに変わっていた私はふざけるなという怒りを乗せてその土手っ腹にタックルを決めてやった訳だが——。


 どちらかと言えば私よりも進行方向に近い位置に立っていた男性を庇うような形ともなったことから面識ができて、ついでに後日、偶然再会した際に自分の秘書になってはくれないかと打診を受けることになる。

 犯人の腹にタックルを決めた思い切りの良さと行動力を見て他人が中々真似のできるものではない、是非部下に欲しい、と思ったのだとか。

 良い子のみんなのために危険な行動はそもそも真似すべきではないことを注意書きとして記しておきたい。


 それはさておき、男が役員を勤めている会社は都心にあるらしい。

 今は出張中の身で取引先を訪ねているが数日後には本社に戻ることになるとか。

 男の秘書になるとすると私まで県外に出て家を空けることになる。

 実家の管理する人間が居なくなってしまうというのもあって始めは頷くのを渋った。


 やんわりとだがお断りを申し上げもしたのだけれど食い下がってきた男の提示する雇用条件があまりにも魅力的で……。

 今後、必要となる子供たちの養育費のことも考え転職を決意するに至った次第である。


 さあ、いざ新天地!

 引っ越しの手続きを終わらせた私はそんな風に意気込んで実家を後にした。


 ……が、誰も本気の『新天地』なんて求めてちゃいないってのは言わずとも分かる内容に含まれると思うんですよね。


 私が息子たちを連れて乗った飛行機には次元の壁を越える機能が搭載されていたとでも言うのか。

 東京都の羽田空港に到着予定だったはずの便は『東都府』の『葉根田空港』に到着した。

 ハネダ違いである。

 というか、東都府って何……。


 いや、待て。

 東都府、東都府、東都府……。

 どっかで聞いた覚えがあるぞ。


「……おい、勇人」

「ああ」


 ターミナルから出てすぐ。

 新居の下見に来た時とは異なる景色に足を止めた私は息子2人の声につられて視線をそちらへと向ける。

 ……って、ちょっと!


「2人とも大丈夫? 飛行機に酔った?」


 額を押さえた2人の顔色は悪い。

 乗り物酔いするタイプではなかったはずだけど……。

 しゃがんで目線を合わせる。


「いや、魔力濃度の変化に体が追いついてないだけだから少し経てば治まるよ」

「アンタの方こそ大丈夫か」


 ……うん? 魔力濃度の変化って? 何?

 訳が分からず疑問符を飛ばす私の様子を見て英明くんは額を押さえたまま「大丈夫そうだな」と続けた。

 現状についてを何も把握できてないって意味ではまったく大丈夫じゃありませんが。


 勇人くんに手を引かれる。

 何だ何だと思いながらも歩き始めた彼について行くとベンチに辿り着いた。

 ……よく分かったね?


 元々立っていた場所からはそれなりに離れている。

 都心部に相応しい人の波からは付かず離れずの距離で、勇人くんに手を引かれていなければ見落としていたに違いない。


「ひとまず状況の整理をしよう」


 促されるままベンチに腰掛けた私の前に勇人くんと英明くんは並んで立つ。

 ……顔色から言えば彼らの方こそ座るべきだと思うのだが。


「まずは『ここがどこなのか』ってことだけど……母さん、予想でも何でもいいから……心当たりはないか?」


 すでに答えを持っていそうな勇人くんからの質問に私は開いた口を1度閉じた。

 ここがどこか、なんて。


「まったく何も」


 ————東都府に聞き覚えがあったのは勇人くんたちの愛読書である例の漫画に登場する架空都市の名称が同じだったから。

 そのことについては思い出した。

 が、だから何だという話である。


「あー、うん。そうだよな……そうなるんだろうけどなんて言ったらいいか……」

「ありのままを話すしかないだろ」

「分かってる。どう説明すれば分かりやすいかを考えてるんだよ」

「……2人はここがどこなのか心当たりがあるの?」


 あるんだろう。

 問い掛けの形を取りながらも確信を持って断言するように尋ねる。

 押し黙った勇人くんは数秒の間を置いてから観念するように口を開けた。


「母さんにとってはきっとかなり荒唐無稽な話になる。それでも信じて欲しい」


 ……私たちは親子の仮面を被った赤の他人だ。

 どんなに親であろうとしても私の中にある『産んでいない』という事実をないものにはできない。


 それでもと勇人くんが述べたように。

 私はそれでもと思う。


 それでも、私たちは同じ屋根の下で暮らしてきた。

 10年になろうかとしている。

 それだけの歳月を彼らと共に過ごしてきたのだ。


「……いったいどんな話?」


 荒唐無稽と前置くくらいだ。

 相当に信じがたい話になるのだろう。

 疑うような言動を取ってしまうかもしれない。

 受け入れるのにもきっと時間がかかる。


 ただ、曲がりなりにも成長を見守ってきた『子供』に信じて欲しいと真っ直ぐに見つめられてその言葉を頭ごなしに否定するようなことは到底できそうもなかった。


「多分、前世の記憶っていうのが妥当なんだと思う……俺たちには母さんの子供になる前の記憶があって……その前世で暮らしていたのが今いる東都府なんだ」


 瞬間的に『厨二』の2文字を脳裏によぎらせたことに関しては大変申し訳ないが許して欲しい。

 ……ぜんせ? …………ああうん、前世ね?

 オーケー。


 朝起きたら居間にいた存在という時点で普通とは言いがたい2人だ。

 隠す気のない英明くんなんて特に子供らしさの欠片もない。

 それが2度目の人生故のことだったというのならむしろ辻褄の合う説明がついたと納得すべきところであろう。


「魔力濃度がどうとか言ってたけど……」

G.Exジー・エクの世界を思い浮かべてもらったら分かると思う」


 ——G.Exジー・エク

 正式名称をゴールド.Executioner《エクセキューショナー》。

 勇人くんにせがまれて揃え、続刊が出るたびに買い、アニメや映画となればテレビを点けて映画館に向かった……。

 例の漫画のタイトルである。


 一般的に魔法が使えて当たり前の世界であり、魔力に当たるものが大気中に含まれていても可笑しくはない——。


 ただ、そうするとここは『漫画の中の世界』なのか『漫画によく似た世界』なのか。

 非現実は今更だ。

 あり得ないなんて笑い飛ばすつもりはない。

 けれど、けれど……。


 勇人くんと見詰め合うこと数秒。

 真っ直ぐなその視線が逸れることはない。

 ……彼が年相応に夢見がちで、この手の冗談を口にする少年だったらよかったのに。


「もう、帰れない……?」


 ここが漫画の世界そのものなのか似ているだけなのかはあえて些事と切り捨てよう。

 問題視すべきはそこじゃない。

 根本的なところで社会システムの異なる、まったくの異世界になってしまったという点だ。

 生まれ育った地元に、家族の元に、私はもう帰れないのか。


 何かを言おうと開いた口を、しかし、何も言わないままに閉じた勇人くんは首を横に振る。


「分からない」

「……まあ、俺たちに関して言えばこっちに『帰ってきた』ってことになる訳だしな」


 フォローするように口を開いた英明くんの不器用な優しさに私はほんの少し頰を緩めて笑った。


 ……ああ、そうか。

 彼らにとってはここが『故郷』になるのか。

 私は彼らを帰るべき場所に送り届けることができたのだと、そういうことでいいのだろうか。


 もしもそうだと言えるならそれだけが私に与えられる救いに違いない。



          ▼ ▽ ▼



 勇人くんと英明くんの話によると、ここは私の知る日本ではないけれど『日本』と呼ばれる島国であることに変わりはないらしい。

 地名はともかく地形は一緒。

 言語も日本語。通貨の単位も円。

 しかし、肝心の紙幣、硬貨の形式が異なる。


 ……何が言いたいかって、日本だけど日本じゃない場所で、手持ちも預金も全財産がパァってことだ。

 携帯電話も圏外表示で使えなくなっていた。

 絶望した。純粋に絶望した。


「資金のアテがない訳じゃないんだけど……」

「まずは身分証だろう。アレがないと動くに動けないぞ」

「母さんを連れた状態で裏道を使う訳にもいかないしなあ」

「連れてなくても使うなよ」


 英明くんにジト目を向けられた勇人くんは肩をすくめてそれを流す。

 裏道って何、と思わなくもないが多分突っ込んではいけない分類の話だ。

 大人しく聞かなかったことにしておこう……。


 今後の方針についてを子供たちに任せ切りというのも親として情けない話だがこの世界について詳しくない私じゃ下手に口を挟むこともできない。

 漫画の内容を知っているとは言っても暇ができた時に流し読んだ程度で話の流れと主人公の近辺の偏った知識しかないのだ。

 正直に言ってなんで身分証がないと動くに動けないのかもさっぱり分からない。


 だって身分証って運転免許証とか保険証とかでしょう?

 無いと困るのは分かるが車を運転する訳でもなければ病院に寄る予定もなく、急いで用意しなきゃならない理由がな……あっいや、待って。

 日本だけど日本じゃない現状だと私の持ってる身分証とかその他のカードもただの薄っぺらい板切れになったってこと?

 つらい……! つらすぎる……!


弓立ゆだてくん!」


 気付きたくなかった事実に思い至ってひしがれていると不意に聞き覚えのある声に呼ばれた。

 うつむかせた顔を上げ、声の主へと視線をやった私は驚きから目を見開く。


「良かった、まだここに居てくれて」

「どうして……」

「1度下見に訪れているとは言っても慣れない土地だと色々大変だろう?」


 迎えに来たのだけど迷惑だったかな? と、眉を下げて笑った相手は転職先のお偉いさん。

 私を秘書にと望んでくれた例の男性だ。

 廿浦つづうら重三じゅうぞう。43歳。

 白髪混じりの黒髪を後ろに流したよくいるサラリーマン然とした風貌ふうぼうの。

 今後の上司が目の前に立ってようやく自分がベンチに座っていたことを思い出した私は慌てて立ち上がる。


「いえそんな! お気遣いくださりありがとうございます」

「随分と軽装だけど荷物はそれだけかい?」

「あっはい、大半は引越しの業者に頼みましたので」

「なるほど。確かにその方が楽でいいね」


 バッグ1つの私に首を傾げた相手はその理由に納得すると流れるように自然な動作で腰に手を添えてきた。

 アレだアレ。エスコート。

 ヤラシさを感じさせないやつ。

 根っからの田舎者には刺激が強くて思わず背筋が伸びる。


「どこか寄りたい場所はあるかい?」

「いえ」

「夢見草商店街!」


 足元から無邪気を装った声が上がる。


「最寄りの商店街がそこになるみたいだから移動のついでに寄っておきたかったんだ」

「ちょっ、勇人くん……!」

「それは名案だね。さっそく向かおうか」


 待って欲しい。色々と。

 上司に関しては日本じゃない日本になっていることに触れない辺り、規模は違えど勇人くんや英明くんがうちに現れた時と同じだろう。

 この異常事態を『異常なもの』として認識していない。

 馬鹿正直に指摘すればこちらの頭が疑われる。


 ただ、まったくの別物になったと言える世界にどうしているのかという疑問は残るが……。


 問題は勇人くんだ。

 最寄りの商店街って。

 普段の遠慮がちな態度をどこに置き忘れてきたというのか。

 予定していた引っ越し先が存在する保障もないのに。


「廿浦専務のお手を煩わせる訳には参りませんので」

「これから秘書になる君と少しでも親睦を深めたいという私の我儘だよ」

「しかし」

「付き合ってはもらえないかな?」


 曰く『夢見草商店街』は本当に引っ越し先から近いらしい。

 こちらの世界の住人となった上司が言うのだから間違いないだろう。

 雇用契約の都合もあって事前に引っ越しの予定と新しくなる住所を伝えていたことを思い出した私はそれを知る上司を頼る以外に辿り着くすべがないことを悟る。

 ……うん。ここは意地を張らずに甘えよう。


 夢見草商店街なる場所が最寄りの商店街になることを言い当てた勇人くんに任せておけばどうにかなりそうな気がしなくもないけれど目の前にある確実性を捨ててまでわざわざ彼に負担を掛ける必要もない。


 頭を下げつつお願いすることに決めると廿浦専務は人好きする笑みで応えてくれた。

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