短編

さのはー

試験管 Ⅰ

 ひと一人が入れる大きな試験管。それだけが私の世界。そこから見えない世界なんて知らないし、生きていくのに、必要のない世界。でも、いつもお話をしてくれる白衣を着たお兄さんは、よく外の話をする。とっても綺麗で、新しい事がたくさんあって……。けれど、私はそれを見られない。ただ、暗い試験管の中で一日一日を過ごすだけ。決まった時刻に起きて、お話をして、実験されて、寝る。それだけの日々。

 でも、その日は違った。試験管はいつにも増して暗かった。警報が鳴り響くくぐもった音が遠くに聞こえた。赤いランプは弱々しい光を投げかけながら回転している。

 私は待った。時刻になってもお兄さんは来なかった。一時間、二時間、三時間……。いくら待っても、人の気配すらない。思考が不安に支配されていく。私が、一人で生きていけると思っているのか? 私はこの中でしか生きられないというのに?

 その時、気付いた。手が動かせる。足も。身体全体も。今まで、一度として応えてくれなかった私の身体が、動く。ずっと動かなかった身体とは思えない程に力強く。


 試験管が割れる。思いっきりぶつけた体重が、全力でガラスを突き破る。背中に挿し込まれた無数のチューブやコードが一気に外れ、試験管を満たしていた液体が流れ出す。流れに押し出された身体は勢いよく飛び出し、少し離れた硬い地面の上に、私の裸体は投げ出された。

 痛い。初めての感覚。背中が痺れる。肌を空気が撫でる。警報ベルの音が耳を劈く。何という刺激の多さだろう。興奮が身を包む。外の世界だ……! 試験管以外の世界だ! 行けるんだ。あの場所に! 一目見たい。あのお兄さんが言っていた場所。綺麗だと言っていた、あの場所を……!


 建物はがらんとしていた。同じ部屋の中で、いつも話してくれるお兄さんが、試験管の方に手を伸ばして死んでいた。私は彼と、目指す場所に、彼が教えてくれたその場所に行きたかった。私は、彼のことが好きだった。

 死体を持ち上げる。驚くほど軽かった。出口の場所は知っている。その行き方も。何度聞かされたか分からない。そこまで行くだけ。私は何事もなく、研究所の出口に辿り着いた。

 陽の光が目を射す。暗い場所しか見て来なかった目が眩む。それでも私は歩く。彼と話したあの場所へ。行こう、私は覚えているはずだ……。


 ……息を呑んだ。美しいの他に言うことは無かった。辿り着いたのだ。待ち望んだ場所に。私の歩調は遅くなり、全身が疲労で動かなくなる。背負う彼の重みは、今になってずっしりと、小さな身体にのしかかる。苦しい。背中から痛みが、ゆっくりと這い上がってくる。息が漏れるのを感じる。

 彼をゆっくりと地面に横たえる。意外にも穏やかな表情だった。私も横に寝転ぶ。もう限界だった。そう、知っている。私は試験管でしか生きられない。分かっていた。

 苦しい。ゆっくりと、死が実感とともに迫ってくる。指先の感覚が消えていく。けれど、私は暖かかった。愛する彼が隣にいる。彼が何度も口にしたこの場所で、私は人生の最期を迎えられる。それだけで、十分だった。

 大きな溜息をつく。もうほとんど感覚は無かった。自然と笑みが零れる。

 ハハ……ハ……。私は幸せだ

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