地獄物語

鷦鷯エミリ

第一章

第1話 様相、揺動①

 夜の静寂を破るように、乾いた音が辺りに響いた。同時に、少し離れた場所から男のうめき声があがる。

 男は酒瓶を呷り、空になったそれを後ろに放り投げる。それほど大きな瓶ではないものの、男の背後の地面は破片で白く染め上げられていた。

「……畜生」

 男の声を聞く者はいない。

 西地区【葛城かずらき】。ため池を有する大きな公園に人の気配はなかった。人どころか、生き物の気配すらない。男の眼下には城の堀から続く水路もあったが、水音は張りつめた空気を乱すほどではなく、水路沿いにぽつりぽつりと立つ外灯の光はいとも簡単に闇に吸い込まれていった。

「畜生……!」

 男は声を荒げる。そしてついにはまだ中身の入っている酒瓶を足元に叩きつけた。破片と同時に濁った液体が飛び散る。

 飲む酒も、投げる瓶もなくなった。男は乱暴に座り込み、ただただ眼前の暗闇に何かを探して濁った目を泳がせる。

 ふと、その暗闇がわずかに揺らいだ気がした。男はだいぶ酔っていたが、自分が酔っていると自覚できるほどには正気を保っていた、つもりだった。それでもやはり自分の正気を疑わざるを得ない。

「誰だ?」

 男は悪い夢を見ている、と思った。水路の対岸に現れたのは、線の細い人影。申し訳程度に配置された外灯の明かりが、露出している肌をぼうっと不気味に浮かび上がらせる。女かとも思ったが、若い男のようにも見えた。いずれにしろ、夜中にたった一人こんなところにいるわけがない。

 自分のことは棚に上げ、男は酔いを醒まそうと首を左右に振った。そうして目の前がただの暗闇であることを確認し、息を一つ吐いて目を閉じる。いつもと同じだ。このままじっと時が過ぎていくのを待ち、酔いが醒めるころに夢も覚める。

 どうせなら、怪談じみた夢ではなくもっと幸福な夢がよかった。

「どうせなら、なぁ……」

 金があれば南の歓楽街で夜遊びでもしたいところだが。男は自嘲じみた笑いをもらし、腕に顔をうずめる。

 夢の世界へ旅立ったのだろうか。規則正しい寝息と共に、時折下卑た寝言が男の口から漏れる。しばらくすると、その寝息も周囲に溶けていった。


───ッバシャァァァ…………


 夜の静寂を破るように、重い水しぶきが音を立てる。

先ほどまで男がうずくまっていた場所には青白い人影が立っていた。いつの間に対岸から移動してきたのだろうか、人影は単なる男の妄想ではなく、確かにそこに存在していた。

 赤く染まってゆく水路を見下ろしながら、人影は口元を歪める。その手には闇を切り裂くように鋭い輝きを放つ得物が握られていた。しかしそれも、やがて宵闇の一部となり消えていく。いつもと同じように、時だけが非情に過ぎてゆくのであった。

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