榎本とショパンの亡霊

 外交官として訪れたからには、それなりの歓待はされるものだ。友好の姿勢を見せておくことは後々功を奏す可能性がある。勿論それは自国の権威を見せつけるためでもある。我が国が誇る文化を見せつけることで相手を圧倒すれば、少しでも交渉を有利に進められるかもしれない。

 榎本も身綺麗な格好をして、招待されたコンサートホールの席についていた。先程ロシア側の者から今日はピアノコンサートだという旨を伝えられた。日本ではピアノという楽器はまだあまり普及していない。勿論榎本自身はオランダ時代に多少聴いてはいるが、もうそれから何年も経った。その間に夥しい名曲が作られ、演奏されているだろう。知っている曲だろうか。

 布張りの椅子にどっしりと体重を預けると、ピアニストが入ってきた。話には聞いている、ロシアで今最も高名な演奏家だ。その表情は自信に満ち溢れている。まるでロシア芸術界の顔だと言わんばかりだ。いや、実際そうなのであろう。歴史を紐解けばまだ芸術に親しんだ時間は浅く、悪意を込めて言えばフランク世界の猿真似をする田舎者の芸術だ。しかし今の日本は猿真似も出来ぬ猿。欧米と同じ土俵に立とうとしている今、その雲泥の差を、ピアニスト一人の表情からさえも感じざるを得ない。

 ピアニストは会釈もそこそこにグランドピアノの前に座り、一呼吸置いて指を鍵盤に這わせた。ダーン、と最初は重い音から始まる。それから紫紺の絹に包まれたような音が渦巻いていく。繊細で静かで、どこか悲しげだ。一曲目からこんな曲なのかと一瞬思ったが、この静かで染み入るような音はじわじわと聴衆を音楽の世界にいざなっていく。

 奇麗な音の粒の心地よさにしばし目を瞑って聴いていた榎本は、ふと目を開けてピアニストを見た。曲が徐々に熱を帯びていく。高まりだしていく。大きい音になった訳でもないのに、音の渦がだんだんと激しくなっていくのが分かる。榎本は拳を握った。なんだ、この曲は。

 すっかり引き込まれた榎本は、そのままコンサートが終わる最後まで拳を握り続けていた。


 コンサートが終わり、榎本はロシアの外交官に謝辞を述べてホテルへの帰路につく。今日の演目は謝辞を述べた際に教えてもらった。そのどれもを忘れないようにと頭の中で反芻した。一曲目のあの曲は、ショパンの「幻想ポロネーズ」であった。ショパンといえばオランダ時代にも名を聞いた、大作曲家である。もう存命ではないらしいが、どんな方だったのだろう。こんな曲を産み出せるような方というのは、どのような人物であったのだろう。

 ベッドに体を預けて目を閉じる。しかし、何故だか落ち着かなくてむずむずする。旅など今に始まった事ではないし、枕が変わったら寝られないような人間でもない。けれど、このままでは寝られないという不思議な確信があった。榎本は目を開けて無機質な天井をぼんやりと見る。若い時分に夢を見た北の、遥か北に今自分はいる。それが急に信じられないような心地になった。今日だって散々社交の場にいたというのに、それが全て夢なのではないか。目が覚めたら桜の箱館、開陽は沈んじゃいないし、みんな生きている――とさえ思えてくる。寝返りを打って時間を無為に食む。

 不意に、耳の奥でダーン、と重い音が鳴る。これは何だったかと考え巡るよりも早く、絹のような音が流れる。ああ、これは幻想ポロネーズだ。深い光沢に、自然と瞼は降りた。


「随分気に入ってくださったんですね」

 背後から聞きなれない声がした。少し高い、おだやかな男の声。ガバッと振り返ると、そこには中世欧州風の恰好をした男。塗装の剥げた木製のベンチに座っている。待て、ここは何処だ。あたりを見渡すと、見覚えのないレンガ街。

「どうぞ、お掛けになってください」

 男を見ると、ベンチの隣を手で示している。榎本は意図を測りかねてじっと男を見る。微笑んでいるが顔色は青い。目には、どこかで見たような表情が浮かんでいる。が、どこで見たのか思い出せなかった。

「……失礼、貴方は?」

「僕はフレデリック。ただのピアノ好きですよ、ムッシューエノモト」

 素性を知られている。警戒心を悟られぬよう、そっと背筋を伸ばす。男は見たところ丸腰で、体の線も細い。軍人のようには見えない。

「はじめまして、ムッシュー。それで、私にどのようなご用件でしょうか」

 男は、なにやら嬉しそうに手を合わせた。大きい手だ。

「お話を伺いに来たんです。貴方が、先程のコンサートを楽しんでくださったから……どの曲が、お好みでしたか」

 もしかすると、あのコンサートの関係者だろうか。とにかく、すぐに害を及ぼすような者ではないような気がする。榎本は「失礼、」と断って男の隣に座った。

さて、好みの曲。コンサートを思い出そうとして、先程耳に流れた旋律を思い出す。

「……幻想ポロネーズ、ですね」

 美しいメロディ。独特のリズム。そして激流にもせせらぎにも滲む、寂寥。西洋の音楽をあれほどまでに身を乗り出して聴いたのは初めてだった。

 榎本は男を見やる。じっと自分の言葉を待っているようだ。さて、自分が感じたものをなんと表現しようか。逡巡しようとして、ひとつ気がついた。

「ムッシュー。浅学な私にご教授願いたい――ポロネーズとは、どのようなものなのですか」

 西洋の音楽は、たとえピアノの小品でもソナタ、ノクターンと分類分けがされているものが多い。ポロネーズも、そのような分類の一つなのであろう。しかし、それがどのような特徴を持つ楽曲形態であるのか、榎本は知らなかった。

 男は合わせていた手をゆっくりと下ろした。

「ポロネーズはポーランド風の曲、という意味ですよ」

 ストン、と榎本の中で何かが落ちた。そうか、幻想ポロネーズの作者、ショパンは確か望郷の人。自分があの曲に感じたのは、共感であったのだ。もっとも自分が遥かに望んでいるのは、築こうとした理想郷。戻らない日々だ。それでも、共感せずにはいられなかった。もう手に入らない日々を想いながらも、寂しく惨めな夜があろうとも、生きようと、明けゆく空を見つめて生きようとすることに。

「ムッシュー、フレデリック。私は、」

 顔を上げて答えようとしたが、かなわなかった。目を開けたら、朝だった。


 身なりを整え、最後に改めて髪に櫛を通す。今日からは、大事な会談だ。自身の一挙一動に日本のこれからが掛かっている。榎本は深呼吸を一つして、あてがわれた部屋を出た。

 それにしても、不思議な夢だった。夜の冷ややかな風とにおいが、ほんとうのようで鮮明に脳裏に焼きついている。だが、あのフレデリックという男のおかげで、ショパンに親近感を持つことができた。これからは一つ、日本の音楽教育について考えてみてもいいかもしれない。きっといつか、日本で幻想ポロネーズを聴くことができる日も来るだろう。うん、ショパン……フレデリック……あれ?

(あっ)

 榎本は立ち止まった。どうして早く気がつかなかったんだ。幻想ポロネーズの作者の名は、フレデリック・ショパンではないか。

(畜生、俺のすっとこどっこい!)

 思わず頭を抱える。もっといろいろな話を聞いておくべきだった。あれはただの夢じゃない、彼は本当にフレデリック・ショパンであったという謎の確信があった。とすれば、その目に浮かんでいた表情は、哀惜と覚悟。既視感のもとは、榎本自らの目だ。

 榎本は己の頬を両手で挟むようにぱちんと叩いた。次ショパン――いや、フレデリックに会った時に背筋を伸ばしていられる己であるようにいなくては。待っていやがれ、聞きたいことだって整理しておくからな。

よし、と小さく呟いて、榎本はまた歩みはじめた。

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