遺書
春里 亮介
<HE-α>
いつか僕は、世界の偶然性について語らせてもらったことがある。
偶然性は可能性乃至蓋然性の一部であり、よく多くの希望を細かく咀嚼して飲み込む怪物でなければ、通俗的なイマージュが施されているダイスとなる。無論、この灼熱の大地で鼠色の穢い汗を流し、瓦礫として物質化された都会の空気に漬かっている現状を我慢してまで述懐していることであるので、後者でなく前者の謂いで僕は認識している。
あの時の僕らは、全力で巫山戯ていた。決して手を抜いていなかった。ただただ、日常の二文字で普遍化せられた現実を攪乱することに従事していた。何故かと問われれば、沈黙で返す外にない。何故黙るのかと問われれば、かつていた僕と同じことをしたまでだ、と口頭で返事をするだろう。
僕は偶々、此処に居させてもらっている。僕が現存在として生存していることと僕の努力は因果の糸で結ばれておらず、存在其物に薄っぺらい努力の繃帯が巻かれているだけなのだ。だけど存在はかすり傷一つしていないし、繃帯は微風で千々に裂かれるが故に徒労で終わる。何処からか必然を掴み取ろうとしても、僕の手に触れるのは高速廻転するオートバイの車輪であり、摩擦熱で指先が火傷してしまうがアスファルトの熱気で冷やすことは出来なくもない。
結句、僕は何を望んでいるかといえば……と一人称の小説を執筆するような話しぶりでその何かを言いかけたが、ワインレッドで着色されている陽炎の街にいよいよ耐えかね、N駅前の百貨店に逃げ込むことにした。冷房の効いた店内で身体を震わせて、辺り一帯に漂う化粧品の執拗い匂いに頭を痛め乍らエスカレーターに乗った。安らぐ場所を探している裡に、屋上へ来てしまった。突き刺さるような光熱を提供してくれる恒星に追跡されてしまったようだ。
屋上は簡易的な自然物を寄せ集めたような庭園であり、僕は人工物代表として引き寄せられた。ただし、二つの共存は如何せん難渋な課題であることは明白だった。眼路に捉えた草木は仮想的な枯木へと変貌し、僕が可哀そうに思って撫でるとそれは灰となり、蒼穹へ誘われるように霧散した。だが、生命の残存を僕の意識上で願うと植物は復活し、感謝の辞として僕の胸部に蔦をきつく締め附け(るような思いをす)る。
現実と架空の彼岸を跨ぐ癖は、あの時から変わらない。僕の内界に充溢しているシュルリアリズムが未だに足掻いている。何への反旗なのかは判然としないが、少なくとも正義や悪で語り得るものではない。生憎、ヒューマニタリアリズムは持ち合わせておらず、倫理に流されることを僕は酷く恐れている。この夏日抄(かじつしょう)が上品であれば、話はまた別になるのだが。
熱風に吹かれ、声帯が灼けてしまうような感覚に襲われた。もしかしたら実際に焼失してしまったのかもしれなく、不安を覚えた僕は言表を試みた。
――。
結果的には確かに声音は奪われていたのだが、それは声帯の欠損が理由にはならなかった。庭園の角に布置されてあった床几に腰かけている一人の女性が不意に存在感を強く示していたことに吃驚したからだった。燦々たる日光のスポットライトを浴びている僕の独演であるはずが、舞台なる屋上には別の演者がいたらしい。真砂土で舗装されている小路を無視し、僕と彼女の二点を結ぶ直線に従って駆け寄った。最短距離で向かった先で、ありとあらゆる光芒を吸収消滅させてしまう暗い瞳で虚空を眺める彼女がソフトクリームをなめていた。
髪、切ったのか。
十年振りの再会で放たれた最初の一言が、それだった。我ながら無粋だと自省している。然し、僕と彼女の衰えない関係性を立証している言表であるとも見做せる。
蝸牛が懸命に這うくらいの猛スピードで視線をずらした彼女は、僕の表情を確認してくれた。肩の高さに切られた彼女の黒髪がそよぎ、睫毛を僅かに揺らしていることくらいしか、彼女の機嫌を察する徴表が無い。
あれからきみは、何をしていたんだ。
今度は語尾を、感想ではなく質問調らしくした。僕と彼女の間に隔たりを設ける空白は途轍もなく長く大きいものであり、先駆や妄想で補完し得る代物ではないと解っていた為、直接のクエスチョンに委ねたのだ。
ただ、彼女は空白をより延長させることを好む性分らしく、眼の前に突っ立っている一人の男を見上げ乍ら、白く冷たい乳脂肪を舌で削り取ることに集中していた。彼女の舌の蠕動は気候的な熱気に後れを取り、コーンの縁から半透明の雫がしたたり落ち、ショートパンツで露わになっている太腿にしっとりと浮かぶ汗と混淆する。新鮮な女性の体液と甘味を伴う雫は直ちに喧嘩を始め、間を置かず蒸発していった。
静寂は嫌いではないが、待たされるのは好きではない。僕は強引にコーンを奪い取って半分ほど残っていたアイスクリームを即座に食べ切った。返す刀でコーンも圧縮させて飲み込み、円錐型に残された包み紙を彼女に見せびらかした。すると彼女は二本の鉄パイプを粗雑に溶接したような腕をぎこちなく伸ばし、包み紙を取った。御丁寧にゴミ箱へ捨ててくれるのかと思いきや、空の色と同化したポロシャツの胸ポケットから手繰り寄せたボールペンで、扇型に開いた紙に記入し始めた。変わった再利用の仕方に僕は感心していると、彼女より書いた内容を見せられた。
<アイスクリームを食べる夢を叶えるべく、此処に来ました>
僕らの対話は媒体を変換して継続されていた。しかるに僕は彼女の右傍に座らせてもらい、紙とペンを受け取って筆談で対応した。
<実にミクロな経緯だな。僕はそんな小規模の過去を知りたい訳じゃないさ>
<では、私が髪を短くした理由を含め、私達四人が離れ離れになった過去を再検討しましょうか>
<是非ともお願いしたい>
<承知しました>
文言上の会話だと、彼女は流れるようにコミュニケートしてくれる。昔もそんな女の子であったかどうかは強い疑を容すこと間違いないが、彼女との再会に純然たる感動を覚えている僕にとって、彼女と言語をぶつけ合うこと自体を喜びに変えていた。
<それと>
ペンを動かす僕の手が止まる。ベビーパウダーに塗れたような白さで蔽われた彼女の指に絡み附かれて制止したのでなければ、僕の思惟機構が錆色の雨にうたれて廃炉と化した訳でもなく、その三文字が扇頂の狭さに依り身動き取れなくなったのが原因だった。如何せんコーンの包み紙では余白面積に限りがあり、包み紙だったそれは僕と彼女の対話でびっしりと埋め尽くされていた。二人の筆跡は比較が難しく、非常に似通ったフォントを採用している。目視で短いデータログを追うと、発信者の名前が記入されていないが為に、つい先刻に書かれたこの文言は僕にとっての送信なのか受信なのか判然としない。僕は果たして敬語を使う人間だったのかと熟考していると、視圏の端よりA4サイズのノートが現出せられた。横を向くと、豹の頭部がまるまる一つ収納できそうな大きさの手提げ鞄が口を大きく開けて僕をねめつけていたのはさほど重要でない様態であって、無表情でいる彼女からノートを渡された事象に意識を持って行き、声音で懐疑を唱える欲求を抑えて白紙であったノートの二ページ目から筆談を再開した。白紙の新品だと見做していたノートであったが、一ページには僕の自画像が描かれていたのでそれは無視した。
<僕にとってのきみは、非連続的存在になってしまったらしい。何がきっかけで唖になった?>
可也怖い質問だった。彼女という存在が異質なものに転変せらるる脅威は、さながら高電圧の如く僕の精神を烈しく痺れさせるだろう。
であるにしても、永遠に等しいこの瞬間に対し、背を向けたくない意志も確乎たるものだった。実態の無い相手に向けられた敵愾心が衰えてしまえば、僕は彼処の戦場地で浮揚する捕虜未満鉛玉以上に頽落してしまう。
度胸がよりあるのは彼女であって、自分のターンになった交換日記を徒然なるままに書き示すように、只管にペンを走らせた。一文二文で終わる会話ではなく――一作の小説としての形態を伴うアンサーが随時伸張していく有様を僕は横で拝見していた。
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