ホワイト・クリスマス

土芥 枝葉

ホワイト・クリスマス

 どこをどう歩いただろうか。夜の帳が下り、月明かりも差さない山の中では、懐中電灯の照らす部分が視界のすべてとなる。周囲に存在するのは砂糖をぶちまけたように積もった真っ白な雪と、墓標のごとくそびえる木々だけであり、自分以外に生命の気配は感じられない。

 ざくざくと雪を踏みしめながら山の奥を目指す。明確な目的地があるわけではない。なるべく人目につかないような場所があればそこがいい。誰かに探してもらったり、見つかって葬式を出してもらったりするのも気が引ける。野生動物と同じように、そのまま土に還ればいいと思う。市街地から歩いてきたので、おれがこの山に入ったことを知る者はいないだろう。世間的には行方不明ということになるはずだ。絹代がそれを知ったときにどう思うかまではわからないが。

厚着しているとはいえ、ジーンズとスニーカーは雪山向きの服装とは言いがたい。すでに足下は水浸しで、凍ったかと思えるほど冷え切っている。そもそも登山経験もない素人がこんな時期に、しかも夜中に山へ入ること自体が自殺行為に違いない。

 ――自殺するために来たんだろう?

 口に出して自分に問いかけ、そうして卑屈な笑みを浮かべた。もう笑うしかなかったのだ。


 そのうち雪が降り始め、ホワイト・クリスマスか、と独りごちた。本当なら今頃、絹代と二人でシャンパンでも飲みながらケーキを食べているはずだった。そして、プレゼントを渡して……。

 いつでも渡せるようにと持ち歩いていたが、こいつももはや必要のないがらくたと化した。ダウンコートのポケットから小さな包みを取り出し、暗闇へ向かって投げつける。ちくしょう、と胸の内で叫んで。

 ふと、プレゼントを投げ捨てた辺りで何かが光っている気がした。反射的にライトを向けると、そこには白い人影があった。

 踵を返し、逃げた。とても人間とは思えない。死ぬつもりでここへ来たとはいえ、得体の知れないものの餌食にはなりたくない。せめて安らかに眠らせてほしいのだ。こんな状況でもなお恐怖という感情が残っていたのは意外だった。

 捕まればどんな恐ろしい目に遭うかわからない。無我夢中に駆けるが、雪に足を取られて思うように走れない。そして、急に体のバランスを崩した。暗闇の中で激しく回転し、体のあちこちを打つ。ようやく止まったかと思うと、全身、中でも両脚に激痛が走った。過去の経験から骨を折ったらしいことが分かる。ただ、今回は両方だ。

 懐中電灯がどこかにいってしまったので周囲はほとんど見えないが、どうやら斜面を転がり落ちてしまったらしい。体を動かそうとすると神経をナイフでなぞられたような痛みが走った。立ち上がることすら難しい。

 観念するしかなかった。この状況で動けないのでは、早かれ遅かれ凍死するだろう。先ほど見かけた「何か」に取って食われるならそれも致し方がない。むしろ、オレの無様な人生の最期としては相応しいのかもしれない。

 まあ、いいさ。呼吸を乱しながら、再び自嘲した。と、そこへ朧気な光が近づいてきた。どうやら先ほどの人影に見つかってしまったらしい。やはり人間ではなさそうだ。

 距離が縮まり、それが老紳士だと分かる。柔らかな光を湛えたランタンを提げ、コートもズボンも、ロシア人が被っていそうな帽子も、全身白づくめだ。

「メリークリスマス」

 状況にそぐわない穏やかな声で老紳士は言った。確かに今日はクリスマスであり、彼は見事な白い髭を蓄えていたが、サンタクロースとは服装が違うし、自分のもとに現れる理由も思いつかない。

「何か用ですか?」

 話が通じるように思えたので、念のため聞いてみた。聞いたところで、その後の展開が変わるとも思えなかったが。

「あなたを迎えにきました」

 老紳士は穏やかに答えた。なんだ、死神か、と妙に納得する。

「オレはもうすぐ死ぬんですね?」

 これも一応尋ねてみた。彼が助けてくれるのでなければ、じきに凍死してしまうだろう。老紳士はゆっくりと頷いて言う。

「その前に、願い事を一つ、叶えてあげましょう。ご希望はありますか?」

 なんだか漫画のような展開だ。誰でも同じように、死ぬ前に願いを叶えてもらえるのだろうか。

「ちょっと待ってください」

 急に言われても、とっさには考えつかない。老人は「どうぞ、ごゆっくり」と微笑み、懐から葉巻を取り出して火をつけた。

 ぼんやりしてきた頭で最後の願いを考える。どうせ却下されるだろうが、助けてくれ、というのはあり得ない。今更のこのこと現世に戻る理由はない。

 それでは、絹代に仕返しをしてやろうか。オレを裏切った恋人に。


 *


 とある地方銀行に勤めるオレは、飲み会の後で上司に無理やりキャバクラに連れていかれ、そこで絹代と出逢った。

 華奢なわりに艶っぽく、何より昔片想いした女に雰囲気がよく似ていた。聞き上手、話し上手の絹代に夢中になるまでそれほど時間はかからなかった。

 絹代に逢いたくて何度も通っていると、やがて連絡先を渡された。店には黙って二人で会うようになり、肉体関係も持った。夢のような時間だったが、それが地獄の入り口だとは、その時は知る由もなかった。


 ある日、どうしてキャバクラで働いているのかを絹代に尋ねた。聞けば、父が借金を残して夜逃げし、母は重い病気でずっと入院しており、多額の金が必要なのだという。しかしキャバクラの稼ぎでは限界があり、もっと稼げそうな風俗に転職しようか迷っているのだという。

 絹代と結婚したいとさえ考えていたオレは、何とか彼女を援助してやりたかったが、趣味のギャンブルのせいで貯金はほとんどなかったし、月々の給料から捻出できる額も限られていた。おまけに両親との関係は良好とは言えず、協力してくれないのは目に見えていた。

 魔が差したのだ。顧客の預金を横領し、絹代に与えた。いずれ自分のボーナスなどから補填しておけばバレないだろう。そんな甘い認識で。絹代は涙して喜んでくれた。はっきりとは伝えなかったが、それがやましい金であることは彼女もわかっていたはずだ。

 一度ではとても足りず、オレは複数の顧客から少しずつ着服を繰り返した。もちろん、自分が破滅への道を歩んでいるという自覚はあった。しかし、絹代の切なげな瞳を見ると、罪を犯してでも彼女を助けてやりたいという思いに駆られてしまうのだ。彼女のためなら自分の人生など、命など差し出しても惜しくはないと。


 そうして昨日のクリスマス・イブ。絹代へのささやかなプレゼントを用意して幾らか浮かれていたところ、行内の様子がおかしいことに気づいた。もっと正確に言うなら、自分に対する周囲の態度が不自然だったのだ。そうして、同僚が話しているのを立ち聞きし、横領の疑惑が持ち上がっていること、その顧客を担当しているオレが疑われていることを知った。

 横領額はすでに一千万円を超えており、すぐに補填できる額ではなくなっていたし、発覚しつつある以上、返せばごまかせるとも思えなかった。


 その日はひとまず帰ることができたが、上司に自白するべきかどうか、何時間も悩んだ。仕事を終えた絹代がアパートに来て、すべてを洗いざらい打ち明けると、彼女は一緒に逃げようと提案してくれた。もし捕まったら、自分のためにしてくれたことだと証言すると約束してくれた。オレは生まれて初めて嬉し涙を流し、絹代を強く抱きしめた。


 数時間後、冷たい風が吹きすさぶ中、早朝から待ち合わせの駅に向かった。自業自得とはいえ、とんだクリスマスになったものだ。しかし、待てども待てども絹代は現れなかった。電話も繋がらなければメッセージも返ってこない。

 簡単に変装しているとはいえ、あまり遅くなると出勤時間に重なり、銀行の関係者に目撃される恐れもある。仕方なく、絹代とは後々落ち合うことにして、一人で下りの電車に乗り込んだ。もしかしたら少し寝るつもりが寝過ごしたのかもしれない。そんなふうに考えていた。

 行き先は決めていなかったので、東北のとある駅でなんとなく降りた。ひとまず絹代と合流したかったのだが、そこで絹代のスマホの電源が切れていること、彼女がSNSのアカウントをすべて削除したことに気がついた。

 嵌められた――。

 ようやく、絹代に利用されていたことに気づいた。恐らく彼女は二度と姿を現さないだろう。父の借金の話も、母の病気の話も嘘だったのかもしれないし、絹代という名前が本名なのかさえわからない。ただ、オレが横領したことは紛れもない事実だった。


 心が折れた。

 銀行はクビになるだろうし、もしかしたら何年か刑務所に入れられるかもしれないが、一千万円という金額は必死に働けば返せない額ではないだろう。

 しかし、心から愛し、信じた女に裏切られたのは相当堪えた。いつかこんな日が来るのではないかという不安がなかったわけではない。しかし、一線を越えてしまった瞬間から、絹代を信じ続けるしかなくなってしまったのだ。

 それがこの有様だ。ここまで来るともう笑うしかなかった。マスクの下で卑屈な笑みを浮かべ、どんよりと曇った空を見上げた。

 日が暮れるまで茫然自失のままふらつき、気がついたら山に入っていた。もうどうなってもいい。それしか考えられなくなっていた。


 *


 ――絹代に復讐してやろうか。殺す必要はない。ただ、オレのことを生涯忘れられないように、ずっと悔やみ続けるように、心にひっかき傷をつけてやりたい。そんな考えがほのかに浮かぶ。

 しかし、そんなことをして何になると言うのだろう。オレは絹代を助けたくて過ちを犯した。……オレが本当に望んでいることは何だ?

「決まりましたか?」

 しばらくして、頭の中を覗いているかのように老紳士が尋ねた。オレは「はい」とうなずく。

「絹代を……付き合っていた彼女を、幸せにしてやってください」

 老紳士は反応を示さず、風の音さえ止む静寂が訪れた。その真意を語れ、とでも言わんばかりに。

「オレは、絹代に騙されて罪を犯しました。絹代が本当に金に困っていたのかはわかりません。でも、これで最後にしてほしいんです。嘘をついてまで金を稼がなくてもいいように、幸せになってほしいんです……」

 涙が込み上げてきた。どうしてオレは泣いてるのだろう。

「それで良いのですね?」

 老紳士の確認に、もう一度大きくうなずき、「お願いします」と答えた。老紳士は白い歯を見せ、にこやかに言う。

「すみません、嘘をつきました」

 彼の言葉の意味を、すぐには理解できない。

「あなたの願いを叶えることはできません」

 脱力し、ため息をつく。死神とはこんなに質が悪いものなのだろうか。老紳士は自分でフォローするように言葉を継ぐ。

「しかし、あなた自身が他の誰かを幸せにすることはできます。もしかしたら、その女性を幸せにできる機会があるかもしれません」

 先ほどまでのいたずらっぽい笑みは消え、老紳士は比較的真面目な調子で言った。意味が分からず、「オレ自身が?」と聞き返す。

「そうです。あなたにはその素質がある。実は、ちょっと試させてもらったんですよ。駄目そうならそのまま死神に引き渡すつもりでしたが……」

 話がいまいち飲み込めない。いったいオレをどうしようというのだろう。そろそろ脳味噌まで凍ってきたのか、頭が回らない。

「私と一緒に来ませんか? 世界中の人々を幸せにしましょう」

 迷わず「はい」と答えた。その中に絹代が含まれるのなら、ただ犬死にするよりもよっぽどいい。

「では、行きましょう」

 老紳士が差し出した手に捕まると、いとも簡単に立ち上がることができた。振り返っても自分の体は見当たらない。魂だけ抜き取られたわけではなさそうだ。

「いや、助かりますよ。私たちの業界も後継者不足でしてね。あなたのような方を見つけてはスカウトしているのですが……」

 雪道を歩きながら老紳士は話す。気さくな人のようだ。

「私たちの仕事は、誰かを幸せにしたいという気持ちが何より求められるのです」

「仕事って……何をするんですか?」とオレは尋ねた。

「そのままですよ。受け取る資格のある方に、幸せを届けるのです。それは幸運や運命などと表現されるものです。相手は子供とは限りません。大人やお年寄りに届けることの方が多いくらいです」

 相変わらず観念的でよくわからない。

「とりあえず、一年間は研修ということで、みっちり勉強してもらいます。その間にもう少し太ったほうがいいでしょう。髭は……薄いようですから、つけ髭で構いません」

「はあ……」

 適当に相づちをうったが、疑問はすぐに氷解した。進んだ先に、二匹のトナカイが繋がれたソリが停めてあったのだ。なるほど、そういうことか。

「今日は仕事用の服ではありませんでしたからね。正体を隠すつもりはなかったのですが。さあ、乗ってください」

 優しく微笑む老紳士と顔を見合わせ、オレも思わず笑みをこぼした。

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