コルトクネの機械箱

小林秀観

歯車

 何よりも忘れがたいのはドワーフの卵の事だ。ドワーフの奥さんは自分がさっき産んだばかりの無精卵を朝食に出す。奥さん曰く、種が無ければただの入れ物。

「お! 今日はたくさん産んだなぁ。美味しそうだ」

「とびきり新鮮よ。ほら、アリもしっかり食べな。ナリもね」

 甘辛く炒った卵を食べていたアリの手を匙がすり抜けた。すり抜けた後はいつも通りの人間の手になっている。おそらく奥さんとご主人は見ていなかっただろう。

「ごめんなさい……」

「いちいち気にしないの」

 奥さんが笑い、朝食はいつも通りに終わった。それからアリがふらふらと外へ行くのに付いて行く。カンカンとブリキの音がする。それ以外にはゴウゴウと換気扇の音が聞こえるだけ。ここは箱の中でも下の方の箱。ドワーフはあまり良い待遇はされないから。アリは歩きながら独り言のように話す。

「そろそろ分裂しそうなの」

 アリは水人間だ。水人間は誰から産まれる訳でもない。それは変質であり、分裂だ。普段は実態があり物にだって触れる。けれど分裂の時期が近くなると不意に水になってしまう事がある。そして一つの何者かに変わるか、いくつかの何者かになるのだ。だから寿命という感覚がないらしい。人間と見分けるのは簡単だ。水人間は陽が当たると肌が透けて光を吸収して輝く。あるいはトンボ玉のような瞳で見分けるのもいい。

「初めての分裂で不安なの。記憶の引継ぎはされないらしいって聞いたし、そしたら自分ではなくなるでしょ?」

 アリ自身は上の方の箱で暮らしている研究者から分裂したらしい。

 ここはコルトクネ国。臆病な人間の王様が作った四角いブリキの集落、四角い町。地面から空まで埋め尽くす四角い箱の連なりの国。一つの箱が集落だ。それが集まって町と呼ばれる。箱は一時間もあれば一周できるくらいの広さ。それが上に下に、右に左に何百と。王はあわいに座して震える。空の広さに、大地の厳然さに。惨劇を語る声が、救いを強要する声が耳に残って離れないと震える。空は天井付近の細長い窓から少し見えるだけだ。

「自分が自分でなくなる前に海に触れたいの。溢れるばかりの空が見たい。水があの嵐よりも激しく流れ落ちる崖があるらしいの。外の木は天井より高いそうじゃない。そしてそれらの前に跪いて祈るのよ。どうか傷つけないで下さい。愛して下さい。受け入れて下さいって。そうしたら初めて帰るのよ。世界に。そうしましょう」

 アリが歩き出した。その一歩は家から出た時とは違って、もっと遠くへ向かうように見えた。アリが自分を縛る物を引きちぎったからだろう。

 箱で暮らす全ての者には守らなければならない決まりがある。


〇箱に穴を開けてはいけない。

〇どんな仕事より箱の修繕を優先しなければならない。

〇王様の許可なく天扉を開けてはならない。

〇箱ごとに長を決めなければならない。

〇外の話をしてはならない。

〇武装してはならない。


 こんな感じの決まりがあと五十ほどある。ほとんどの者はそれを守りながら折り合いをつけて生きているのだ。それは私の目に滑稽にしか映らない。決まりを守る事を目的としだした者たち。決まりの正しさを否定させない権力者たち。いったい何のために取り決めた文言だったというのか。

 しかしそんな空気に自分さえ飲まれていたのかもしれないと、歩き出したアリの背中を見て気が付いた。

 どこにでも行けるのだった。

 私は走り出した。

「ワン、ワン!」

「ナリ。お前も一緒に来る?」

「ワン!」

 地上に近い場所にいる私たちはコルトクネの天上に行くため、ブリキの階段を上る。



 カンカンカン、と軽快に響く軽々しい足音が時折ピチャンと変わる。

 自分たちが今世界のどの辺りにいるのかは、階段にぶら下がる数字で知った気になるしかない。ここは『六二の八』だ。私たちは『五の八』で暮らしていたので五日目にしてだいぶ天上近くまで上ってきた事になる。今のところの最上階は六九だ。途中の『三五の八』で会ったキリという少年も一緒にいる。

 キリは十五歳の王族だ。多くの従妹たちの一番下だから王族と言うのも馬鹿々々しいくらい名前だけなのだ。

 私たちは水人間のアリと、臆病な王族のキリと三人でその日のうちに最上階に着いた。最上階は全て研究者たちや天井を作り続ける、あるいは直し続ける職人たちの箱だ。

 研究者たちの所へ話が移る前に少し、入り乱れる種族について話をしたい。

 成人ドワーフの平均身長は一メートル程度。体力があり、体格のいいのが多い。十以下の箱に多く暮らす。

 水人間についてはほとんど話したが、服までが体の一部であるというのは驚きであろう。ついでに言うと彼らに性別は存在しない。

 あとは神獣だ。これについては動物だ。生き物だ。それが偶々どうしたわけか人間の言葉を理解し、話し始めたというだけの存在である。言葉を理解するぶん、他の生き物よりも冷たい表情をしているなどと言われたりする。

 そして最後に人間。臆病で手先が器用。もっとも病に罹りやすく、ストレスが溜まるとよく増える。平均寿命は約百年だ。


 その箱に入ってすぐ鼻がツンとした。水の気配だ。

「お? 誰かね? すまないが今は土台の整備用ロボット作りで忙しいんだ。今度にしてくれるかね」

 こちらを全く見もせずに言うので、キリを小突いた。そうすると自分の役目に気付いたようで、キリは溜息を吐いてからワザとらしく胸を張って言う。

「僕は孤独王子の息子のキリだ。更なる箱の建設の進捗を見に来た。天扉を開けてもらいたい」

 それでもバッと立ち上がるような事はなく、机で植物を弄っていた研究者の一人がゆるゆると立ち上がり振り返る。

「これはキリ様。えぇ、もちろん進んでおりますよ。どこまで上に行っても同じ事だとは思いますがね。地上に脅威があるなら天にもありますので。私は七五くらいで、後は横に広げていくのがいいかと思います。それから天扉なんですがね、今日は無理です」

 その時、ちょうど理由を主張するように箱が揺れた。ガン! と何かがぶつかる音が、聞こえると言うよりは体に響いてくる。

 キリは震えあがった。

「あれは何なの?」

 眉一つ動かさずにアリが聞く。

「鳥ですね。箱半分くらいはある怪鳥です。あまり上に箱をつくらない方がいい理由の一つでもあります。おっと、これは外の話にはあたりませんよね? なんたってあの怪鳥は箱に穴を開ける勢いなんですからね。決まりは守っていますよ」

 研究者が額の汗を拭うのを見ながら私は部屋を出てブリキの階段に行き、何度も足踏みをした。そして一つ深呼吸をする。

「それは大変だ! さぁ、早く天扉を開けてキリたちを外に出せ! 武術が達者なキリが怪鳥をやっつけるのだ! さぁ、早くしろ!」

「お、王様!? 箱から出ていらしたのですか?! すぐに開けます!」

 私の声真似に研究者は慌てて扉を開ける。キリとアリが外に出たのを見てから私はその研究者に助言した。

「助けてくれと叫び続けなさい。そうすれば奴らは都合のいい様にこじ付けるから。そのあとは全て、はい、その通りですと言うんだ」

 私は口をあんぐり開ける研究者を横目に、気分良く外の世界に飛び出した。

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