消失世界のホログラム

蒼月 水

プロローグ

 1951年、ドイツ東ベルリン―――


 同市内にて、一人の男が東ドイツ憲兵によってらえられた。男の容疑は大量銃器の所持。逮捕当時、男は三十を超える幾種類もの大小様々な拳銃を小さな肩掛けバッグにあふれさせ、それでいて身なりよろしく、立派な白い顎鬚あごひげをたくわえ、もっぱら裕福なで立ちであった。

 別言、だった。

 男の奇妙さを正確に物語るには、男の服装及び所持品を説明するだけでは不十分すぎるだろう。

 夏も最盛期に差し掛かろうとする強い日差しのもと、男は長袖のワイシャツを腕のところまでまくり、左手には厚手のコートを抱え、コートのポケットには分厚い手袋と、これまた頑丈そうな皮の帽子をはみ出しながら突っ込んで、さながら真冬の雪山にでも遭難したかのような様子だった。男はその暑そうな容姿にもかかわらず、ガクガクとあごを震わせ、何か怖いモノが見えているかの如く、目を泳がせ続けていた。

 何より、最も奇妙であったのは男のだ。

 顔から指の先までをおおうそれは、青白く、染色したように均一。

 何分なにぶん、男はひどく緊張しているようで、具合が悪く、が引いていたのかもしれない。その青は、また一段と男の皮膚へと人々の視線を集めた。

 取調室とりしらべしつで、男が話す強いシベリアなまりも、男の奇妙さを際立たせる一因になっていたに違いない。

 当時、ソビエトの影響下にあった東ドイツとはいえ、さして強いシベリア訛りのドイツ語を話す人物をベルリン市内で、それほど多く見ることはなかった。まして、男の様に見るからにあやしい人物が、それもスペインの旧貴族の様な古風で整った洋装をまとった人物が、聴き取れぬほど強いシベリア訛りで話すのは、誰にとっても不自然であった。何より、男はロシア語など一言も理解わからないのであった。

 一方、男の話すことと言えば、支離滅裂しりめつれつで、神に祈る仕草しぐさを見せたかと思えば、知らぬ名の神について語りだす。憲兵が多量の銃について尋ねれば、そんなものは知らないの一点張り、といった様子だった。

 男が何か嘘をついているだとか、誤魔化そうとしているだとか、そんな様子は全く見て取れず、むしろ、男の言動を摘記てっきするのなら、困った状況から救い出してくれないかと懇願こんがんしている様にもとれた。

 いまだ、減退のきざしを見せない、過激な反乱者レジスタンスへの武器商人を疑っていた憲兵も、男の本心を突き止めるどころか、その正体すらつかめない状況にあった。言葉は通じさえしても、意思まではして通じ合うことのない、この奇妙な男を前に、憲兵たちは怒りどころか恐怖にも似た恐ろしさを感じずにはいられず、誰も一様に脂汗で背中をびっしゃりと濡らしていた。

 戸惑う男の様子を見続けたがために、男以上に具合が悪くなってしまった憲兵が一人、二人と「気分が悪くなった」と言い残し部屋を後にする。結局、取調室に残ったのは数人の憲兵と、その奇妙な男だけになってしまった。

 すでに、何時間と時間が過ぎてしまった頃、ようやく憲兵たちはこの男とまともに話をすることがいかに時間の無駄であるかを認めざるを得なくなっていた。端的にこの男から反乱者レジスタンスへの武器供与を自白させるのを諦めた憲兵の一人は、まず、その奇妙な男の正体を知るべく、ある質問を投げかけた。

 いな、投げかけて

 ついに、その奇妙な男に訊いてしまったのだ、尋ねてはいけなかった。いや、尋ねただけなら、結果的には問題なかったのかもしれない。

 憲兵の質問は至極普通であった。誰もが会話に困ったら訊くのかもしれない、取り調べなのであればなおのこと初めに訊いておくべきであっただろう、あの単純な質問―――憲兵は男に出身地を尋ねた。

 一方、男は驚く様子は全く見せず、躊躇なく、考える時間も一切取らず、それを口にした。スラスラと、よどみなく、おのが氏名を名乗るかのごとくハッキリと。

 しかし、誰も理解わからなかった。その単語を理解することどころか、それを聞き取ることすら出来なかった。少なくともその場にいた誰もは。

 人間、耳慣れない言葉は一言で聞き取れないものである。だから聞き返すのだ。何と言っているのか理解わかるまで。だから、男は繰り返した。でもやはり、誰も首をかしげるばかりで、その名前を知らなかった。

 本当にらちが明かないと思った憲兵たちは、男に地図で指さしてもらおうと考えた。生憎あいにく、手元にはドイツの地図どころか欧州の地図もなく、欧州を中心として全大陸を描いた世界地図しかなかった。それが、最終的には失敗だったのだろう。いや、大失敗だった。少なくとも、近辺しか分からない様な、もっと大きな縮尺の地図であれば、その悲劇は起きなかったに違いない。まあ、それもただの時間かせぎにしかならなかったのかもしれないが。

 奇妙な男は、一目でそれが世界全土を示す地図であることを理解する。そして、多少の違和感を感じたのだろう。海は青く塗られ、土地は茶色と緑で綺麗に塗り分けがなされている。そしてなにより、欧州が中心に描かれているのだ。いや、男が感じたは、そんな小さなことじゃなかったはずだ。

 刹那せつな、男は頭を抱え、苦しみのうなり声を上げた。

 駆け寄り、男を支える憲兵に、机を支える憲兵。奇妙などんよりとした緊張感ただよう取調室に一変、また別の活発な緊張感が走る。

 男は、苦しみを訴える一方、何か大事なことを思い出した様でもあった。それを逃さず、一人の憲兵は推して訊く。が、どこなのかと。

 男は、片手で頭を支え、もう一方でゆっくりと地図を指す。苦しみに耐える、つむりそうな細い目で指先を確認し、指を置いた。

 そこは、現在の南アフリカ共和国のあたりであった。

 そして男は消えたのだ。

 唐突に、跡形もなく。男が残した痕跡こんせきと言えば、アフリカ大陸南端にできた爪痕つめあとと、男がしていた崩れかけた椅子。それだけだった。それ以外には何も。

 実はこの時、部屋の憲兵すらも消えていた。一人、コーヒーの替えを取りに行っていた者を除き、部屋で男に立ち会っていた憲兵は皆、跡形もなく失踪した。


 さて、男は本当にこの世のモノだったのか。

 そして、彼らはどこへ行ったというのだろうか。


(ピーク調査書より)

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