アシュタロスの虚像

第29話 春の陽射しは煌めき

 シャイアが図書室へ直行せずに執務室へ向かったのは、実にあの日から五日後の事であった。


 リユニア公爵からの手紙に気付いたのも五日後、彼が手紙を出し早馬で届けさせたので三日後には着いていたのだが、二日遅れで開封した。


「……いよいよもって危ない気がしてきたぞ」


「どうなされました?」


 険しい顔で手紙に目を通したシャイアが呟くと、ここ数日は王妃という立場を利用してシャイアにつきっきりのナタリアが尋ねた。


 彼女の問いに件の手紙を見せる。


『国王陛下、私は南に運命を見つけました。

何人たりともこれを邪魔することは我慢なりません。

よって蟄居いたします。ご連絡もお控えられよ』


 手紙を読んだナタリアには異常は見つけられない。いかにもあの公爵が言いそうな戯言に見えるのだが、シャイアにとっては内容以上に文の量が問題であった。


「彼がもし、本当に南に運命の人を見つけたのならその人の素晴らしさを便箋五枚、馴れ初めを五枚書いてよこすはずです。この手紙で本当の事は蟄居と連絡の旨だけでしょう。私も南で精神的に攻撃を受けましたが、これはあからさまに異常だ。何かある」


「カレンを差し向けましょう。侍女として」


「行者でなく、ですか?」


「行者として向かったならばリユニア公爵様とお言葉を交わすことができません。蟄居したという事は、既にご自身で自覚できるほどの精神汚染を受けていらっしゃるということ」


「ならば処罰を覚悟で勝手に蟄居したリユニア公爵に、監視役として侍女を送る事にしよう」


 これでは早馬を出す事もカレンの足で駆けてもらう事もできないが、確実に屋敷の中に潜り込める。


 急ぎたい時ほど、回り道が正道であるものだ。臍を噛む思いだが、シャイアはその旨を認めて馬車の手配をした。一刻でも早く手を打たねばならない。


 控えていたカレンも素早く下がって身支度を整えた。


 たぶん、ここまではリユニア公爵も予想していたはずなのだ。こうなる事を望んで手紙を送ってきたのだとシャイアは確信しているが、果たして本当に接触してしまっても良いものかという悪い予感が抜けない。


「陛下、一先ずはカレンにお任せを。……図書室ではどうでした?」


「海からの風で被害が出る事はリァンの報告書で理解した。ので、理由付も万全故に其方は既に農作物の買い戻し、という手を打っている。後は、米の田圃に麦と玉蜀黍を植えるよう伝達した。収穫が早いからな。後は……異国の書によれば、遡るのも難しいほど昔に、神達の国に別の国が覆いかぶさり神は天へ昇ったとされている」


 玉蜀黍も麦も夏には収穫できる。今からでも米の田を潰して育てれば冬を越せる程度の蓄えにはなるだろう。食糧の輸出ができない事も経済的には大きいが、百二十年周期という記録が残っているのだからソロニア帝国や海洋諸国には隠さず事態を打ち明けて協力を要請するつもりだ。


 バルクは想像以上に博識で、異国の書を次々と解読してくれた。リァンとは分野が異なるのだろう、今の本よりも異国の書の方がバルクには馴染みがあるように思える。


 話を聞いたナタリアが首をかしげる。


「幾らアシュタロスが強力な神とはいえ、そこまでの権能を持つでしょうか……?」


「あぁ、そうなんだよ。だからそこはもう、無視してしまおうかなと」


「思考を放棄されてはいけません」


「わかってる、だけど具体的に方策が無いんだ。だから今は目の前の脅威……南と飢饉の二つに備えて様子を見る」


 一先ず具体策に絞ったシャイアだが、気に掛けていないわけではない。


 本当に神々さえ逃げ出したのだとしたら、この国は誰も暮らせない土地になる、と解釈できる。それを看過する事は出来ない。


「その覆いかぶさった国の名前が掠れて読めなかったのが痛いね……意図的なものを感じる。国民のいない国を手に入れる目的が分からない上に今日の手紙で確信した。死の国ではなく、この国を手に入れる事が目的だと思う」


「そうなると、アシュタロスの軍勢の目的は南に絞っても良さそうですわね」


 飢饉で国を潰してしまえば、国を耕す農夫がいなくなる。それでは国を手に入れる旨味が少ない。正に死の国だ。


 一方、南からの挙兵となれば農地は無事で、うまくやれば農民に血を流させる事なく制圧できる可能性が大きい。リユニア公爵を人質に取れば、シャイアにも無視できない。飢饉がただの脅しで、対策のために経済の滞りを引き起こし、挙兵を企てるのだと考えると辻褄が合う。


「本来ならば私を拉致監禁したかったのだと思うのですが……」


「君を拉致監禁するのは砂漠の中で針を見つける程難しいだろうね」


 ほぼ不可能という事だ。シャイアが少しだけ笑顔を取り戻した。


「奥方が強くて助かります」


「早く実情を掴まないと、本当にリユニア公爵様が旗印に挙げられてしまいますわ」


「カレンの報告に期待しよう」


 そのカレンは既に南へ向けて出発している。用心の為に御者をソルテスにしたが、果たして彼女の報告はどうなるのか……焦れる話であるが、最低八日後までは分からない事である。


 シャイアは執務机の前で難しい顔で腕を組んだ。




 カレンは春の陽射しも暖かな中、馬車で南へと出立した。旅路は順調で、飢饉に備えて伝達が来たはずの集落では半信半疑で米の田を潰して麦を植え始めていた。疑っていても、間違っていても構わない。一先ずの生活は苦しくなるが、西の山賊騒ぎを収めた軍師からのお墨付きとあっては農民も無視できないようだ。


 カレンはその旨を道中から王宮に連絡した。こういった事でも伝えておくのは、手掛かりの少ない今は悪い事ではない。


 そして順調に進み五日後の昼、陽光が庭の木々に反射して煌めく中、冬支度でましたかのように凡ゆる口を閉ざしたザナス邸に到着した。


 窓という窓に木が当てられている。門戸も硬く閉ざし、水汲みに使う井戸がある裏口だけは開いている。


 人など誰もいないかのように静かだ。生活音が聞こえてこない。


 明らかに様子がおかしい。南に運命を見つけた、などという戯れが本当に戯れであっても、ここまでの徹底した蟄居は異常だ。


 カレンが一先ず裏口から屋敷の責任者に国王からの書付を見せて入ると、まずはリユニア公爵との目通りとなった。


「カレン様、どうか公爵様のお姿は陛下にはご内密に……」


「お姿を、ですか……?」


「見ていただければわかります」


 案内の侍女はそれきり言葉を発しなかった。


 屋敷の書斎に通されたカレンが、リユニア公爵と対面してその理由が分かった。


 肌が、爛れている。


 包帯を巻いた酷い姿で、薄暗い締め切った部屋の中に座るリユニア公爵は、いつもの調子で笑った。


「カレンか? 恥ずかしいところを見せてしまったな、陛下には内密に……とは言え貴殿は監視役。報告もやむなしだろう」


「リユニア公爵様……! どうか、あまりお話にならないでくださいませ……!」


 あまりに普通に笑っているが、肌の爛れた臭いがカレンまで届く。既に見えているのは左目だけの状態だろうが、よく見ると左半身は無事である。酷い隈があるだけだ。


「……何が有りました?」


「私の右半身が既に敵の手に落ちている。自分でもよくまぁ出来たものだと思ったが、身体を乗っ取られかけて抵抗した。左は私の物だが、右は抵抗したせいで爛れた。まだ腐り落ちては居ないが……眠ると意識を持っていかれる。下手をしたら蟄居を解いて私から反乱の持ちかけを行いかねない為、もう十日は寝て居ない、数えるのも飽きた」


 カレンは遅かった、と奥歯を噛み締めた。しかし、魔術でリユニア公爵を落とそうとしたのなら策はある。


「私を信じてくださいますか、公爵閣下」


 涼しげな騎士のような顔が真剣みを浴びると、本当にひとかどの騎士のように見える。侍女服ながら膝をついた最敬礼の姿は実に勇ましい。


 リユニア公爵はその姿を美しい、と思った。


「やれ、抵抗はしてみるものだな」


「……閣下?」


「任せる。……助けてくれ、カレン」


「かしこまりました」


 カレンは早速リユニア公爵に取り憑いたものを祓う支度を始めた。


 アシュタロスは有能な降霊術の使い手だ。軍勢がもし、アシュタロスの意識の一部でもリユニア公爵に降ろしているのだとしたら、抵抗すれば肌も爛れよう。


 姿を見て遅かったと思ったが、自分がいる間はリユニア公爵の爛れも睡眠も守ってやらねばならないと確信している。


(先ずは追い出す試みを……駄目ならば、抑え込む)


 リユニア公爵の正面に向かい合って立つと、お許しを、と一度膝を折ったカレンは、彼へと深く口付けた。


「んん……?!」


 任せたのは己だし悪くない展開なのだが、普通の口付けと違う。


 口の中で極小の魚が踊り跳ねている。その魚が群れをなして、自分の中へ流れ込んでくる。


 カレンが魔術で己が魔力を送っているのだろう。


 薄暗い部屋の中で、仄かに二人の姿が光を帯びている。


 長い、長い口付けだった。光がカレンからリユニア公爵へ完全に移ると、ようやくカレンは口を離した。苦しそうに口元を抑えている。


 これこそが命を削る奇跡、魔術の中でも高等な退魔術であった。が、苦い顔を見れば失敗したことが分かる。


「追い出すことはできませんでしたが……、中の意識を幻術の中に閉じ込めました。薄い膜の中ですが、この膜は1日は破れません。この間ならば好きになさっても大丈夫。明日また術を施しますので、私がいる間は自由にできるはずです。抵抗は続けて頂きますが、肌の爛れも治るでしょう」


 カレンのこの退魔術が効かないとなると、相当な生贄を払ってこの精神汚染は掛けられたはずである。


 命を削るどころではない、たぶん、命は失われている。どのタイミングでアシュタロスの意識を降霊させたのか……、と疑ったが、ここがどこかを思い出した。


「しまった……!」


 ここで、王妃は大量に殺したのだ。


 それを生贄にこの場所に降ろしたのだとしたら、そしてここにリユニア公爵が来ることがわかって居たのだとしたら、相当な智慧者が彼の軍勢に与している。


「すまない、カレン。まずは助かった。山程詳しく話を聞きたいのだが、今は少しばかり眠っても良いだろうか?」


 リユニア公爵の申し出も確かなので、カレンは一先ず彼を寝かせた。すぐに報告の手紙を書き、ソルテスに託した。これが一番早いはずだ。


 カレンの予測が当たっていれば、敵はもはや王城内部に爪をかけている。


 手紙が早く届くことを強く願った。

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