2章 メイドは唐突に③
アメリヤが来てから三日たった。 今日も朝から彼女の声が屋敷の中に響く。
「スアピさん、パンを持つときはこう、そしてちぎるときはこういう風に一口ずつです」
「イヨンさん、また背中が曲がっていますよ、ちゃんとレディーらしく背筋を伸ばして優雅に歩きなさい」
「ムラン様、もう少しゆったりとしてください、あまりせせこましく動いているとそれだけで他人から軽んじられるようになるのです」
切れ長の眼から冷徹な注意が彼らに飛ぶ。
そしてそれは一日のわずかな時間を別にしてひと時も途切れることはないのだ。
「……おい、生きてるか?」
「生きてるよ、当たり前だろ……かろうじてだけどな」
応える主の声には疲労がたっぷりとこめられていた。
そしてその主の膝元にはぐったりとした少女が頭を乗せ、うめき声をわずかに上げている。
「まったくこれなら三人で数百人の敵と戦った方がまだマシってもんだぜ」
「あまり同意したくはないけれど、まだ対抗する方法が思いつくだけ賛同するよ」
「む~、疲れた」
時刻はすでに月が天頂から下り始める時間で、ここは彼らの自室である。
「ふ~、仕方ないですが今日はここまでにします。明日も朝から続きを始めるので早く就寝してください」
不満の言葉を後にしてアメリアが立ち去ると、解放された三人は崩れ落ちるように部屋の床に座りこんだ。
「このままじゃ宴とやらに参加する前に過労死しちまうぞ」
普段は快活とした表情のスアピもアメリアからの叱咤により疲労を隠せないでいる。
「お前はまだいいよ…俺は政務も兼務してるんだからさ」
「何言ってやがる、その政務の間だけはあの冷血女から逃げられてるじゃねえか」
「う~、眠い~眠い~」
幼子がぐずっているような様子のイヨンの頭を撫でつつムランはスアピの方に顔を向ける。
「それはそれで大変なんだぞ、今年の冬をどう乗り切るかとか徴税した金をどこに投資するかとかさ」
ムランの父親であるトールは彼らが住むこのヨシュウという街の統治者である。
当然将来の統治者であるムランはトールの片腕となって街を上手く治めていかなくてはならない。
よってアメリアの容赦ない教育と平行して政務の一部として領主代行の仕事もある。
それは多種多様で案件ごとにバランスを考えて決裁していかなければならず、そのためにもあらゆることに心を配らなければならないのだ。
そのためムランの精神的疲労は計り知れない。
ある意味気楽な立場であるスアピや子供のように純真なイヨンには想像も出来ない大変さであろう。
とはいえそれでもアメリアの教育は厳しいものであった。
別に鞭を打たれるとか食事を抜かれるというようなものではない。
しかし所作一つ一つを品評されて駄目だしをされるというのは、この心優しい主の下で自由に過ごしてきた二人にはよほど堪えるだろう。
また二人は主と出会う前は奴隷として生きていた時期があるため、他人に行動を強制させられることにたいして反発心を抱く傾向があった。
だがムランが政務の為に居なくなってアメリヤと三人だけになったときに言われた言葉がそんな二人の反発する気持ちを静め、真面目に今回のことに取り組もうと思わされたのだ。
「二人のことはオルド様から聞かされています。先の反乱の際にはムラン様と共に反乱鎮圧に対して最大限の貢献をしたと」
イヨンはともかくスアピはオルドのことを信用していないため、その言葉に対して裏を考えた。
いわくまたあの腹黒野郎に利用されるのではないかと。
「ですが、残念なことにその貢献はあくまで戦場だけであり、それ以外では主に対して悪い方に貢献してしまう可能性があるとも言われました」
意味はわからないのかイヨンは首を傾げるが、スアピには理解できた。
「へえ、あの野郎に言われるなんて俺もヤキがまわったもんだぜ」
国でも有数の権力者の一族を『あの野郎』と表現したのにアメリアは表情を変えず言葉を続ける。
「なるほど、確かにスアピ様はオルド様が言っていた方のようですね……彼ならきっと私のことをそう言うでしょうとおっしゃっていましたよ」
自身の反応を予測されていたことにバツが悪いのかスアピの顔が歪む。
「実は私もあの方のことはよく知りません。私はグランスカル家ではなく別の家に仕えていたのですが、とある事情でそこを離れることになりましたので」
表情を変えないアメリアにスアピもどう反応していいかわからない。
「ですが同時にこんなことも仰っていました。ムラン殿もスアピ殿、そしてイヨン殿はいずれも輝かんばかりの才能を持っています……そしてそれに気づいていながら放置するのは国家に対しての不忠であり、また私にとっても不幸なのだと」
ますます話が理解できないようで困ったようにスアピに視線を向ける。
当のスアピはというとオルドがアメリアを派遣してきた理由をなんとなくわかってきた。
あの野郎、まだムランのことを諦めてなかったのか。
実は先の反乱勝利の宴の際にオルドはムランを王都に連れていこうとしていたのだ。
そしてそれは純粋にムランの能力を評価し、自身の手で彼を引き上げようという善意であったことも知っていた。
スアピとて主であるムランが評価されることは嬉しい。
また王都にまで呼び寄せてくれるというのが破格の褒美であり、そのこと自体はオルドに何ら悪意はないだろう。
だが善意は時に悪意以上に恐ろしいということも彼はその長く生きてはいない人生によって痛感していた。
オルドはその善意ゆえにムランの気持ちなど考えていない。
また自身の善意が他人にとって有り難迷惑だということも理解しない。
というより理解できないであろう。
王国有数の貴族の子息という立場なら無理も無いだろう。
ムランのように有能ではあっても小市民的な感覚を持った人間の気持ちなどわからないのだ。
だからオルドからその誘いがあったときに彼の主はどうやって角が立たないように断ろうかと必死だったという。
辺境の地で一兵士から成り上がった父親の苦労を目の当たりにし、また成り上がりが疎まれることも彼は知っていたのだ。
ましてや魑魅魍魎渦巻く権力の場に引き立てられることなどムランにとっては刑罰にも思えたであろう。
またスアピがオルドを嫌う理由として、彼が自身を誠忠な男と思っているが、反乱軍の首領と密約をし、また自身の手柄にするために味方である討伐軍の総司令官をひそかに暗殺したという事実がある。
それ以外にも自身の手駒を使って色々と暗躍していたようだ。
それらのことに対して確実な証拠はない。
だが彼はお人よしの主と違い、疑い深い男であり、その暗躍に気づいてしまった。
善意の徒と見せて行動する人間ほど信用できないものはない。
それは彼が主と出会う前に様々な人間や聖職者によって実際に目の当たりにしてきたものだ。
ましてやそれが味方ではなおさらだ。
なので彼はひそかにオルドを脅迫し、街を出ていくよう説得をした。
もちろん場合によっては彼や彼の手駒たちと戦う覚悟も見せて……。
もっともその脅迫もどこまで通じたのかわからない。
とにかくオルドは彼の説得を受けてムランを王都に連れて行くという話を白紙に戻し、すぐに街から出て行った。
まあ、その際にきっちり仕返しもされたけどな……。
だが先ほどのアメリヤからの伝言によって、オルドがまだムランを自身の陣営に入れようとしていることを諦めていないことに気づいた。
もちろんオルドの期待通りに動きたくはないのだが、今回は……。
「あいつの期待通りに動くのは癪だがしょうがねえ……」
とにかく相手の思惑は理解できた。 そしてそれが悪意ではないことも……。
その点だけは信頼できる人間だ。
腹黒で性格が捻じ曲がっている男だが、ことムランに対することに関してだけ……だが。
無言で右手を差し出したスアピにアメリアは一瞬驚いた表情をしたが、すぐに微笑を浮かべてそれを握り返した。
お互いに約束を交わすように……。
そしてその上から白く細い手が重なった。
イヨンもなんとなく、それを理解したのか真面目な顔で二人を見上げている。
「よろしく頼むわ眼鏡ねえちゃん」
「はい……それと私はアメリアです。スアピさん」
「イヨンは……イヨンだよ」
微妙にずれた自己紹介を改めて行い、三人の従者達はぎこちなく笑いあったのだった。
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