不可能な条件。 必死の逃走と追跡 。 前編
敵襲の可能性はムランも考えていないことではなかった。
敵の隊長が血の気の多い人間なら十分に考えられていたことだからだ。
しかしこんなことは予想外だった。
つまり敵襲があるにしてもせっかくの逃走の機会があることに気づけば、いかに考えの足らない指揮官だろうが、まずはここから退転して他国なりに亡命するだろう。
そう考えれば多少の小競り合いはあるだろうが、本腰を入れて攻めて来ることは無いだろうと思っていた。
深く自分達を追い詰めれば体勢を取り戻した本隊が戻ってくることは目に見えているからだ。
自分達はスアピとイヨンを殿に配置して何とかやり過ごせば、敵はおのずと退いてくれるはずだ……そう思っていた。
しかし小高い木の上に登って砦方面を見ると、森からたくさんの鳥達が飛び立っている。
期待が打ち砕かれたのを確信した。
敵が自分の予想通りに一部の部隊だけを出してきただけならあそこまで鳥は飛び立たない。
巨大な殺気が森の中を移動しているからこそ、その殺気に当てられた鳥たちが恐慌して飛び立っているのが見てとれた。
「本当に全軍出撃してるのか、そんなことして何になるんだ!今だったら安全に退避できるんだぞ!部下の命だって助かるっていうのに……」
生粋の軍人では無いムランに取って戦略上の一旦退却を拒否しているようなその動きは理解の出来ないことだった。
「名誉を守るためだとか意地だとは言っても何処かに落ち延びてそれから再起を翻せばいいじゃないか……今だったら十分に安全に退却できるはずなのに」
まるで敵側の一員になったようなその言い方に、スアピは軽い溜息をつきたくなった。
十年来の付き合いの友人であり主であるこの青年の弱点はここだ。
辺境の地で山賊や盗賊等の討伐をしたことはあるが、なるべく殺さずに捕らえて懐柔するだけのやり方をして何度も裏切られてきた。
その度に何故そうなるのかを理解できないこの青年の甘さは、兵士上がりの領主で善政をしてきた父親への部下や領民の忠誠だけを見て育ってきたが故の無自覚な他者への信頼があるのには気づいていた。
こいつは甘い……。
だから今回のような貧乏くじを引かされることになる。
いずれその甘さのツケを払わされて絶望を見ることになるだろう。
俺のように……その時は必ず来るはずだ。
「……こうなったら……こうして……いや……」
だが、ブツブツと対策を考えるムランの横顔を見ながら顔が自然に綻ぶのをスアピは感じた。
ただその甘さが無ければ俺はこいつと一緒にいられることはなかっただろう。
もしかしたらその辺の路上で野垂れ死にしていたかもしれない。
こいつが甘いなら俺がこいつにかかる障害を全て取り除けばいい。
そうだ……この身体は心はすでに一つの主を見つけた。
俺はただ一振りの槍であればいい。
主に仇なす障壁を穿つだけの存在として、スアピの名前をこの主に授けられたときから……。
「なんにしてもこのままじゃすぐにこっちまでやってくるよ、急いで出発しよう」
「ああ……そうだな」
穏やかにスアピが返事をした。
敵が近づいているという知らせを受けた兵士達の反応は意外にも淡白なものだった。
三度目の襲撃ということもあり、慣れたということもあるが、すでに全員が気づいているのだろう。
もはや逃げてもすぐに追いつかれ皆殺しにされることに……。
すでに絶望してやけになる元気もない。
死を前にした人間は恐ろしいまでに冷静になってしまうものだ。
かつて父と供に戦場をかけた老人の言葉が頭に浮かんだ。
しかしその諦観にも似た冷静さは時に、死中に活を求める際に思わぬ効力を上げることもあるということも老兵から聞いている。
死を必と思えば即ち生くる。
確実な死を目前に迫られた者達は戦うことを選ぶ。
人としての情、優しさ、愛が離れた剥き出しの本能だけで戦う人間はシンプルでありとても強い。
だからこそ敵を追い詰めるときは必ず逃げ場を用意しておくものだ。
老人の言葉がもう一つ浮かんだ。
ムランは一番誠実そうな若い兵士に手紙と金を持たせ、本隊への使者を命じた。
「本隊まで辿り着いたならこの手紙をオルド様に必ず見せてくれ、そしてこの金は君への別れの餞別だが、もし救援が間に合ったならこの数倍の金を渡そう」
その口上を受け取った兵士は顔を強張らせながらもコクリと強く頷き、馬に乗って陣を出て行った。
「金を持たせることは無かったんじゃねえか?しかも別れの餞別なんて縁起でもねえ」
難色を示したスアピにムランは軍人らしい正装に着替えながら答える。
「だからこそなのさ、欲深い者や気の弱い者なら逃げてしまうだろうが、誠実な人間はそういう最後の頼みを聞いたら限界を超えてでも頑張るもん……らしい。まあ親父の元部下の爺ちゃんに聞いたんだけどね」
「そう上手くいけばいいけどな……んで、そんな格好して何処行くんだ?」
主の儀礼的な服装を見慣れていないスアピがまるで似合っていないぞというように顔をしかめている。
「できることはやっとかないと……無駄だとわかっていてもさ」
にこやかに笑う主の姿を見てやっぱり似合わねえとスアピは呟いた。
「隊長、あちこちの木々にこんなものが……」
部隊よりも前に先行していた兵が筒に紙を縛り付けたものを持ってきた。
グラムが紙を広げ、中を読み始める。
「なんて書いてあったのですか?」
アッサームがグラムの横に馬を並べて尋ねる。
グラムはあきれたような怒っているような様子でアッサームに紙を渡す。
「……降伏ですか」
グラムは返事もしない。
「……まあ当然考えることでしょうね、何しろあちらは本隊に見放されて孤立していますからね」
「何ともふざけた話だ!我が隊の兵士と副隊長を殺して置いて今更降伏とはな!」
「それではこれは握りつぶして一気呵成に攻め立てるんですか?」
「当然……と、言いたいところだが、せめて兵を率いる者の書状であるからな、最低限の礼儀として会うだけは会ってやろう……上手くすればその場で仇を討つことも可能だろうだからな」
そういってグラムは傍にいた兵に火を持ってこさせ、筒から出ていた導火線に火をつける。
導火線に火が着くとそれを空に向かって掲げた。
すると筒からは黒色の煙が立ち昇り、天空に帯状の黒線が立ち上る。
書状にはもし会談に応じる気があるなら書状をくくりつけていた狼煙で知らせて欲しいと書いてあった。
「さてと、どんな奴が来るか楽しみだな。せいぜい恐怖と後悔に怯えさせてくれるわ!」
傍に居た兵士達も憎々しげに空を走る黒煙を見上げていた……。
会談の代表者として現れた者の姿を見たグラムの驚きはここ数日で一番のものだった。
本隊に見捨てられていること。
簡単に恐慌して崩れる兵達の質から言ってそう重責を担うようなものが来るとは思っていなかった。
だがまさか兵の統率者がこんな若造だったとは想像すらしていなかったのだ。
「会談に応じていただきありがたく存じます。王国軍直属部隊オルド将軍の副官ムラン=グランと申します」
周囲を取り囲む兵の怨嗟の視線を涼しい顔で受け流しながらやって来た若造は、例の化け物のような動きを見せた少女剣士と不敵な笑みをした少年を供に従えてうやうやしく会談に応じてくれたことへの礼を言った。
「ふむ、随分とお若いようだが卿の年齢はいくつであろうか?」
「はい……今年で十六となりました」
十六だと……? グラムが心の中で呟いた。
「その若さで兵を率いておられるとは何ともすばらしい才能ですな。申し訳ないが辺境暮らしが長いせいか中央のお方とはとんと縁が遠く、グラン家のことは存じ上げておりません、どこの地方を束ねているお方なのですかな?」
「はい、私の父は地方を束ねる程の才は無く、ヨシュウという小さな街の領主をしております。私もゆくゆくは非才の身を磨いてその街を治めていきたいと思っています」
ヨシュウ? どこだその街は? 国境を行き来する商人からもそんな名前の街など…。
「ああ……サンシュウの街の隣にある都市でしたかな?成る程、旅の商人が言うには中々領主が有能だとは聞いておりましたが、卿のお父上でしたか」
サンシュウの街は国境に隣接する都市の中で最大の大きさで、他国の国境へと向かう街道沿いにある王国屈指の商業都市である。
たしかその隣に小さいながらも中々盛況している都市があるということを小耳に挟んだ……その名前がたしかヨシュウだったような……。
「はい、街道の近くにある地の利と王の威光で何とか栄えている街でございます」
王の威光だと? 反乱軍として追われている俺達へのあてつけか? どうにも気に食わん男だな。
何となく若造のニコニコ顔が気に入らず少し眉が動いてしまう。
「さてと卿は我々に降伏をしたいという旨の書状をいただきましたが本気なのですかな?」
ジロリと睨むグラムにさらにニコリと返して力強くはっきりと答える
。
「はい、私どもは本隊から切り離されてしまい、もはや兵とは呼べない代物で、なおかつグラム将軍の兵の方々のご威勢に怯えきってしまい、一部の者達は恐怖のあまり泣き叫ぶ者がおりましてそれが赤子のように泣くものですから毎日あやすのが大変でして、いやはや世の母親の苦労がわかりました」
飄々とおどけた仕草の若造の態度に周囲の兵達の殺気がさらに強まる。
「ならばこのまま卿らを蹂躪するのも悪くはないかと思うのだが?何しろ我らは王のご威光を恐れぬ者達でしてな……なるほど大分泣き声に悩んでいるようだが、首を切り離せばうるさくもないし、うるさいと感じることもなくなると思うが?」
「なるほど、確かに首が無くなってしまえば何も感じなくなってしまうでしょうな」
感心したように若造が返す。
「しかしながら窮鼠猫を噛む、もしくは古書の言い伝えで死兵に勝る兵は無しと言う言葉がございます。降伏を入れてくだされぬならば文字通り我らは死兵となって将軍らと最後まで戦うことになることでしょうな、そうすれば果たして何人の兵が死ぬことになるのでしょう?」
ムランの返答にグラムが間髪いれずにすぐに返す。
「死を恐れる兵がどこにあるだろうか?しかも死兵とは申しても卿の兵たちは皆ろくな訓練も受けていない雑兵の集まり、それが死兵となっても果たして我らと勝負になるとお思いか?」
クククと笑う周囲の兵たちをじろりとイヨンとスアピが睨みつける。
イヨンの強さをはっきりと見ていた一部の兵達はそれで黙り込む。
そのささくれだった空気の中でムランが人の良さそうな顔で返答する。
「成る程!さすがは歴戦の勇士の将軍のご慧眼ですな。しかし、しかしですね首尾よく将軍の兵が我が方に攻めて来たなら我らも死に物狂いで戦い、尚且つ亀のようなガチガチの守備陣系をしくつもりであります。そうこうしているうちに我が軍の本隊が到着してきて、それから本隊と我らとで反撃を開始するつもりですが、それでよろしいですかな?ちなみに本隊からはすでに我が兵たちを助けるために出発したという報告を受けております」
一瞬グラムは黙り込んでしまった。
本隊の出発がハッタリだとしても相手が鉄壁の密集陣形をしいて守備に回ればいくら訓練不足の雑兵だとて全滅させるには時間がかかる。
そうなれば後からやってた本隊に蹂躪されるのはこちらの方……。
「雑兵がいくら固まろうが俺達の槍で突き崩してやるよ!」
「待て待て!俺達剣士隊に任せろ!首どころか手足ごとバラバラにしてやる!」
「俺達騎馬隊が陣形ごとバラバラにしてみせましょう!隊長!そいつに譲歩してやる必要などありません!」
四方から罵声が浴びせられる。
兵達は一人の例外も無く、ムラン達の降伏を認めていない。
中にはいますぐこの場で叩き殺せと叫ぶ者すらいる。
「黙れ!先のわからぬ愚か者達め!イヨン、スアピ!」
ムランの言葉を合図にイヨンとスアピが自身の獲物を地面に突き刺して威嚇する。
その予想外な動きに兵たちが静まり返った。
そして思いだす。 あの赤い悪魔の姿を……
「反乱軍と成り果てた貴様達は罪人として万死の罪を持ってその代償を払うことになるだろう!だがしかし、今ならば何処かへと落ち延びて再起を図ることもできるではないか!無駄に死ぬのは勇敢とは言わない。ただの蛮勇!ただの阿呆だ!諸君らは阿呆なのか?辺境の地で戦い続けた……命を懸けて戦い続けた救国の兵と呼ばれた君達はただの阿呆だったのか! 」
周囲の殺気も物ともせずにムランの演説は続く。
誰も彼に反論できない、誰も彼に切りかかることは出来ない。
何故なら彼の周囲には自分達の恐怖の対象になったあの赤い少女が自身の剣を振りかざして彼を守護しているからだ。
供にいる槍の少年も落ち着いた様子で辺りを睨みながら槍の穂先を地面に突き刺して威嚇している。
「勇敢に死ぬことはその辺の獣にだって出来る!だが人間ならば……この先、一度の屈辱を拝しても再度立ち上がり打倒する事だって出来るではないか!これは人間にしか出来ない!人が獣と違うところがそれだ……翻って諸君らはそれが出来ないというのなら所詮は戦でしか使い道の無いただの獣だったと思わざるを得ない!もう一度聞こう!諸君らは獣か?それとも人間か?」
息を切らしながら最後に絶叫するムランに誰も何も言わない。
何か言いたいような、でも言えない様なそんな顔をしていた。
「もういい……ムラン殿、降伏を受け入れよう」
ムランの顔に喜色が沸いてくる。
「ほ、本当ですか?で、では……」
「ただし!条件がある」
意地悪く頬を動かしたグラムに思わずムランの顔も引きつった……。
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