第二十話 瓢箪からアナ

 ある春の日にボルデュックの屋敷の前にルクレール侯爵家の馬車は着いた。ジェレミーが先に降り、彼の差し出した手を取ってアナがゆっくりと馬車から降りてくる。彼女を見た途端、マリアとルーシーは歓喜の叫び声を上げた。


「まあ、アナお嬢さま!」


「お姉さま! お子さまを授かったなんて一言も!」


 マリアは侯爵夫人と呼ぶのも忘れているほどだった。


「ボルデュックの皆を驚かせたくて、ステファンさんやテオにも内緒にしていてくれるようにお願いしていたのですよ」


「もうお姉さまったら! マリア、お父さまを早く呼んできてくれる? アトリエにこもっている場合じゃないわよ!」


 姉妹は抱き合って再会を喜び、一通り大騒ぎをした後、ルーシーはジェレミーの前だったということを思い出して少々赤くなって畏まってしまう。


「えっと、ルクレールさま、少々はしゃぎすぎてしまいました。申し訳ございません」


「いや、構わん。貴女達を驚かせたいと内緒にしていたアナが悪い」


 そこへ父親のジョエルが息せき切って駆け付ける。


「おぉ、アナお帰り。お前、良かったなあ……経過は順調か? 馬車旅なんかして大丈夫か? マリアが呼びに来てな、お祖父様なんて呼ぶもんだから……」


 ジョエルはニコニコしているアナの両手を取って既に涙ぐんでいる。


「お父さまを始め皆元気そうで良かったですわ」


「ルクレール様、騒がしくて申し訳ありません。この度はアナを連れて来て下さってありがとうございます。ご存知のとおり何もないところですが、ごゆっくりお寛ぎください。アナも疲れたろう?」


 ジョエルに案内され、アナ夫婦は屋敷へ入った。




 そして以前のアナの部屋に通された夫婦の所へルーシーはシーツと手拭いの替えを持って行こうとしていた。部屋の扉は少し開いていて、二人の話し声が聞こえてきた。


「旦那さま、無理なさらないで下さい。このままでもよろしいではないですか」


「ヤダね」


「でも重たいでしょう。お気を付けて下さい。お一人でなさってギックリ腰にでもなられたら」


「お前な、セブと一緒に俺のこと、剣を振り回すだけが能の筋肉バカだって陰で笑ってんの、知ってんだぞ!」


 セブとはセバスチャン、ルクレール家の執事のことである。ルーシーも一度会ったことがあった。


「そ、そんなこと……ございません」


「でもやっぱ重てぇ……あのラプンツェルとかいう若い彼に手伝いを頼むかな……」


「ステファンさんのことですか? ラプラントさんです、旦那さま!」


「お前がどうしても寝台くっつけてくれないと眠れないとでも言ってこれを移動するの、手伝ってもらおう」


「えっ、どうして私にふるのですか!」


「それが嫌ならゴチャゴチャ言うんじゃねぇよ! それにしても床が絨毯だから寝台の移動も一苦労だぜ」


「旦那さま……」


 アナの昔の部屋には一人用の寝台だけだったので、夫婦の到着前にピエールとステファンでテオドールの部屋から彼の寝台を運び込んでいたのだった。確かに二つの寝台は離して置いていたが……


 ルーシーは耳を疑い、思わず吹き出した。あのクールで硬派な義理の兄ジェレミーが妻と一緒に寝たいがために一人で重いそれを移動しているとは……


(夕食時にまともにお二人の顔が見られないわ……シーツは後で持って行くことにしましょうか……)


「じゃあアナ=ニコルさんは一週間、俺と離れて寝る方がいいっていうのか?」


「いいえ、そうは申しておりません。私がここでハイと返事したら旦那さまはいじけておしまいでしょう? その、ちゃんとした二人用の寝台を準備出来なくて申し訳ございません」


「だからさ、俺が責めているのはそこじゃねぇんだよ! 誰だよ、この二つの寝台を離して置いたのはよ!」


「旦那さま、もう少し落ち着いて下さいませ。たった一週間の滞在ではございませんか」


「そうか、やっぱりアナ=ニコルさんは愛する旦那様と別々の寝台で寝ることを選ぶのか」


「……いいえ、本当はアナも旦那さまにギューっとぴったりくっついて眠りたいのです」


「最初から素直にそう言えば良いんだよ、全くもうお前はよぉ……」


「あっ、いやですわ、旦那さま。扉が開いているのに……アナは恥ずかしいです……」


 それからルーシーの耳には二人が口付けているような音が入ってきたのでそっと扉の前から離れた。


(これ以上は馬鹿馬鹿しすぎて聞いていられないわ……お姉さまはいつからご自分のことをアナだなんて呼ぶように……ラブラブバカップルのイチャイチャなんて私には辛いわ……)




 ルーシーは夕食前に帰って来たステファンに詰め寄った。


「ステファンさん、姉に赤ちゃんが出来たってご存知だったのですね!」


「うん。でもアナさんに黙っていてとお願いされて。ごめんね」


「私、姉夫婦のこと、すごく心配していたのです。でも何だか取り越し苦労だったようですね。今ではなんだかラブラブバカップルですわ」


「ははは、そうとも言えるね……」




 その日の夕食ではルーシーは笑いを堪えるのに随分と苦労した。


(お義兄さまは……ぶっきらぼうでクールな方を装っているけれど……じつは私全て聞いてしまったのですから! 愛妻と一緒の寝台でくっついて眠れないとイヤだって駄々をこねているところを!)


 アナとジェレミーは特に人前でイチャイチャするわけでもないのだが、やはり二人の雰囲気は以前と全然違っていた。


 姉がとても幸せそうで輝いているのが嬉しくもあり、羨ましくもあったルーシーだった。


(本当に良かったわ……お姉さま)


「予定は夏なのだね。その頃に私も王都に生まれるお子に会いに行ってもいいかな?」


「まあ、お父さま。ご自分から王都に出てこられるだなんて……もちろん大歓迎ですわ! よろしいですよね、旦那さま?」


 引きこもりのジョエルが孫の顔を見たいがために王都に出掛けると言っているのにはルーシーも耳を疑った。


「ああ、いつでも気軽にいらして下さい。離れに滞在してもらうのがいいでしょうね」


「乳飲み子をここまで連れて来てもらうよりは身軽な私の方がそちらに向かう方が良いに決まっているさ。今から楽しみだよ」


「お子さまのお名前はもうお決めになったのですか?」


「いえ、まだ。いくつか候補はあるのですけれど。男の子でも女の子でも顔を見てから決めようと思っていて」




 夕食後にシーツなどを改めて彼らの部屋に持って行ったルーシーは二つの寝台がしっかりとくっつけられているのを目撃したのだった。


 テオドールの文に書かれていた通りであった。


(私たちの取り越し苦労だったみたいね……でも本当に良かったわ)




***ひとこと***

実は新婚旅行なるものに行ってみたかったアナでした。気候も良くなり、安定期に入ってからボルデュック領に帰省小旅行しました。本当は夫婦両方の領地を訪れる予定だったのが、アナの妊娠が判明したのでボルデュック領だけにしたようです。


ルーシーはテオドールから姉夫婦の仲直りとジェレミーの禁煙の経緯をしっかり聞かされることでしょう!

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