痛快娯楽青春時代小説! 鹿南道場の春

牧 亜沙美

第1話 再会

 日本橋に急ぐ新之助の鼻先すれすれに上から何かが掠っていった。足袋先を見ると三寸程の小枝がころがっている。見上げても周りに木があるわけもない。蠣殻町の大道だ。巣作りの小鳥がうっかり落としたものらしい。新之助はきまりの悪そうな顔の燕が頭上を小さく旋回してゆくのを見た気がする。

 佐橋家三千石の一人娘、菊乃との祝言話が持ち上がったのはそんな季節だった。

 

文政十二年という歳も新まって既に三月。 

同じ旗本の六男坊同士、悪友の左源太が言うに、神田藪そばの向こうを張った室町のそば屋「枡もと」に大層な美人がいるそうだ、是非見に行こうぜと誘う。

「美人は見慣れてるさ。俺には姉上が三人もおられるのでな」

「馬鹿を言え。美人は外にいるからいいのだ。第一、姉上と夫婦になるわけにもいかぬだろう」

まァ、それはものの例えだが‥‥と彼なりに少し照れたような顔をしている。

「左源太のところはまるきり女兄弟というものがないからな」

「ふん、あれはあったらあったでまた煩わしいものなんだ」

言いながらスタスタと先を歩いていく。

犬丸左源太は今年二十二、松波新之助も一月遅れだが同い年だ。屋敷が近所なので幼いころから仲がいい。女人に対する好みは違っていたが、つい半年前まで左源太は新之助の一番下の姉に密かに思いを寄せていたのを新之助は知っている。その姉も三月前に他家に嫁いだ。

「春江殿もあの歳まで残っておられたのだから、もうてっきり嫁にはいかぬものと思っていた。いよいよとなったら俺がもらってやっても一向に構わなかったのだが……」

 と遠回しに悔しがっている左源太を新之助は可愛く思う。光沢のある紺地の上衣と羽織に仙台平の袴、触れれば切れるような折り目が付いている。これは左源太の性格からではなく、単に彼の育ちの良さを表していた。

「あれだ、あの茄子紺の暖簾」

 ちょうど昼時を過ぎた時分で、評判の店とはいえ存外すいている。

二人は落ちつきなく店内を見渡し、目立たない隅に席を陣取った。すぐに注文を取りに来た女がいる。これがひどく不器量だった。女が店の奥に消えたとたん、新之助は言う。 

「おい左源太、噂の美人てあれのことだろうか?」

「まさか」

「人の噂なんかやはりあてにならぬものだな。いったい誰が言いだしたのだ」

「まァまァ、そう早合点するな。もう一人いるじゃないか」

 左源太があごで示す方にふりむくと、なるほど涼しげな島田に結い上げた後ろ姿がある。


「佐橋家と言えば江戸旗本八万騎と言われるなかでも名門だ。新之助には願ったり叶ったりではないか」

 実は祝言話がある、と打ち明けた彼の父、宗助の機嫌はことのほか良かった。確かにこの時代、長男が家督を継げば次男以下は他家に養子縁組するか部屋住みのまま一生を終えるかしか無かった。松波家のような小旗本では苦しい台所事情もあり、次兄以下兄弟姉妹は幸いそれぞれに行き先も決まったが、年も離れて最後に残った末子の新之助には婿養子の口が見つかるだけでも有り難い。まして相手が御名家なら、親としては手ばなしで賛成するのが当然の話なのである。

「しかし父上、何故急にそんな話が? 佐橋様のところなら喜んで婿になろうという御人はたくさんいるはずじゃないですか。それを何で好き好んでうちのような旗本とは名ばかりの弱小武家の、しかも六男の私に……」

 あまりにも当を得た新之助の発言に、さすがの父の宗助も少しムッとした。

「なにも……そこまで我が家を卑下することはなかろう……。しかしこの父も不思議に思わなかったといえば嘘になる。これには訳があるのだ」

 佐橋家は五年ほど前に総領息子を病で亡くし、妹の菊乃に婿を取らざるを得なくなった。

が、その菊乃という娘、気が強くてわがまま、婿ならば誰でも良いというわけにはいかない。日頃から婿殿となる人は私が自分で決めると言い張っているという専らの噂であったが、先日たまたま観劇に出かけた帰りに立ち寄った寛永寺の境内で見たものがある。

「交流試合のことですか、もしかして、それ」

新之助の通っている神田お玉ヵ池の千葉道場、何年かに一度だが、他流の者も集めての交流試合に参加することがある。これに初めて登場した新之助、腕にはある程度自信がないこともなかったのだが、

「父上もご覧になっていたでしょう。私が勝ったのは初戦と二回戦だけ。あとはひどいものでした。それを菊乃殿が見ておられたとしたらどうして‥‥‥」

「いや、娘御が見たのはまさにその二回戦だったらしい。熊のような大男が相手だったろう。大した手ではなかったが、まァなかなか良い勝ちっぷりだった。今勝ったあの殿方はどこのどなたと伴の者に聞いたそうだ」

「それで、私を?」

 新之助は納得がいかない。あれは相手が弱すぎたのだ。あの交流試合の優勝者はくだんの左源太だった。ああ見えても彼は北辰一刀流の免許皆伝である。彼に惚れたというなら話はわかるのだが。

「いずれにしても悪くない、いやとんでもない天恵のお話だ。新之助、お前もよく考えろ。ちなみに父は大賛成だ。こんな良い話をお断りしたら後々何かの仇になるやも知れぬ」

 宗助はそう言い放って、足取りも軽く部屋を出ていった。

 後に残された新之助は誰に言うともなく一人呟いた。

「気が強くてわがまま……。そんなのは姉上達だけでたくさんなんだがなァ」


 島田の娘がふりむいた。目があった二人の若者に気づいて小走りに駆けてきた。

「お客さん、ご注文はお済み?」

 ひどく明るい声だ。あわてて居住まいを正しながら、左源太は「もう済んだ」とも言えずにぽかんとしている。驚いた。噂どおりの別嬪なのだ。地味な身なりはしているが、歳のころは十七・八、大きな目が笑うと線になってしまう。はっきりした太い眉がこの娘の利発さを表しているようだ。しかし、もっと驚いたのは新之助の方だった。

「深雪ちゃん……、深雪ちゃんじゃないか?」

 言われた娘はしばらく新之助の顔を見つめていたが、ようやく思い出した風で

「まあ、新之助さん、平河町の新之助さんね!」

「そうだよそうだよ、あぁ懐かしいなァ、ずいぶん綺麗になっちゃって……、元気だったかい? お父上の鏡先生も達者だろうか……」

 口を開けて何か言いかけた深雪の背後からさっきの不器量な女が、おいお雪何やってんだいこれ持ってっておくれとどなったので深雪はあわてて奥に戻っていってしまった。

「なんだ、知り合いだったのか。……深雪っていうんだな」

 左源太が少し不機嫌そうな口調で言う。彼にしてみると噂の美人が新之助と既に顔見知りだったのは多少おもしろくない。

「千葉道場に通う前に、まァほんの子供の頃だが、叔父上の紹介で鏡明館という小さな道場に通っていたことがあるんだ」

 深雪はそこの道場主、鏡三十助の娘であった。

 稽古の合間によく遊んだ。専らままごとのお相手であったが、日頃から姉たちとの遊びで慣れている新之助にとっては苦でもない。かえって妹のような深雪の存在が楽しくて仕方がなかった。末っ子だった新之助は妹が欲しいと母にせがんだこともある。

「千葉道場に行くようになってから、すっかり鏡明館からも足が遠のいてしまったが」

「しかし、なんだってまたその武芸家の娘がそば屋で働いているんだ? お雪っ、とかあの醜女に馴れ馴れしく呼ばれてさあ」

 左源太の言うとおりだ。鏡明館も小規模ながら良い門下生はたくさんいた。鏡三十助も朴訥ではあるが筋の通った立派な武芸者であった。

「何か、事情がありそうだな……」

 

 数日後、千葉道場の稽古の帰りにふらりと鏡明館に立ち寄った新之助は目の前の光景に愕然とした。

 自分の記憶違いでなければ此処は確かに鏡明館のはずだった。が、かつて道場だった建物はお化け屋敷もこれ程ではあるまいという酷い廃屋と化し、看板も無ければ戸板も外れて腐りかかっている。庭内も腰まである草がぼうぼう生えていて荒れ放題、もちろんひとが住んでいる気配もない。

「いったいどうしたんだ、これは……」

 茫然としながら彼は敷地内を虚ろに歩き回った。以前は稽古場だった場所も突然の侵入者に驚いた鼠どもが四方八方に走り出す。床の間の掛け軸、壁に掛けた薫陶、幼い自分がつけた柱の傷、神棚までもがそのままに、ほこりと蜘蛛の巣の中に埋もれている。茶褐色に黴びた畳は歩くたびに波のようにうねり、特有の臭気が漂った。

 ここだけに何百年もの歳月が流れてしまったように思える。あまりの惨状に新之助は不覚にも泣けてくるところだった。

――その時、

 中庭の方から女の低い泣き声が聞こえた気がして、彼は足を止めた。


 泣き声の主は島田の後ろ姿、あの深雪であった。中庭に向かった廊下の縁側に腰掛けてしくしく泣いている。新之助は偶然にもなにか悪いところを見てしまったようで、またかけるべきうまい言葉がみつからなくて、しばらく突っ立っていた。

 そのうち、

「新之助……さんね」

 伏していた頭を持ち上げて、深雪がポツリと言った。振り向かなかった。

「……ひどい、有り様でしょう。こんなところ、新之助さんに見られたくなかった……」

 言いつつ、またさめざめと泣くのである。


 深雪の父、鏡三十助が辻斬りにあったのは五年前の夏、蒸し暑い夜であった。

 町の道場へ出稽古に行った帰り、歓待を受けてしたたか酔った三十助に、それは突然に襲った災難であった。月のない夜、門下に渡された提灯がそのまま格好の目印になった。

 相手も相当な剣の使い手、袈裟掛けに一刀の下に三十助を死に追いやった。

――下手人はいまだわからず

 ひとに恨みを買うような人物ではなかったが、財布もそのままで、下手人の目的もわからないままだ。単なる刀の試し斬りだったかもしれぬ。

 彼を慕っていた門下の者も、最初のうちは下手人探しに躍起になっていたが、いくら酔っていたとはいえ、一手も返さず、刀も抜けずに木偶のように斬られた武芸家と不名誉な噂もたち、門下も一人去り、二人去りして、わずか半年ばかりのうちに道場には誰もいなくなってしまった。特段後を継ぐべき人物も決められていなかった不運も重なった。

 母は早くから亡かったし、兄弟もない深雪はそのまま親戚に身を寄せたが、家の者と折り合いがつかず、そのうち養父が博打に手を出して危うく賭け草にされそうになったので思い余って飛び出してきてしまった。

 今はあのそば屋に住み込みで働いている。店の主人であるあの不器量な女も口は悪いが根はいい人で、深雪を娘のように可愛がってくれているという。それでもたまに暇をもらってはこうして道場に泣きにくる。恨もうにも恨むべき相手もわからない。

「父上が……どんなに無念だったかと思うと、この五年間一度も心が休まる時がありませんでした。ひとの心のうつろいにも、涙が出るほど慣れてしまったし……。もう、忘れるしかないんでしょうか、昔のことは、なにもかも……」

 細い肩が、こきざみに揺れている。彼女が座っているのは雨風に曝されて今にも腐り落ちそうな板張りの縁側だ。昔は二人してここに腰掛けて、とりとめのないことを長い間談笑していたこともあった。

 新之助は泣いている深雪の肩ごしに、幼い自分の姿を見たような、不思議な感覚に襲われて、過日とはかけ離れた境遇にある懐かしくも切ないこの幼なじみを見つめているうちに、なんだかその後ろ姿を抱きしめてやりたいような衝動にかられ、かろうじてそれは抑えた。かわりに口から思わぬ言葉が出た。あまり多くのことは考えていなかったように思う。

「大丈夫、深雪ちゃん、‥‥俺がなんとかしてやる。きっとなんとかしてやる」


「佐橋家の祝言話、断ったって?」

 道場へ行く道すがら、左源太が追いかけてきた。

 あれから半月経っている。答えを出したのはつい昨日の話だ。

「なんだ、相変わらず耳が早いな」

「うちの下男が噂好きでさ。それにしてももったいねぇ話だなあ。あんないい話、もう二度と無かろうよ」

「そう言うな。親父殿にさんざん言われたあとだ」

 宗助の憤慨のしようといったらなかったが、新之助の態度がいつになく頑ななので、やがて折れた。彼に鏡明館の顛末を聞かされたせいもある。鏡三十助についてはまんざら知らぬ仲でもなかったが、ひとしきり落息した後、宗助はボソリと尋ねた。

「それで新之助、おまえその娘が好きなのか」

「さあ、わかりませぬ。しかし私がなんとかしてやらなければという気がしたのです」

「そういうのを『好き』というのだ」

 言いながら、声をたてて笑った。そしてつけ加えた。

「若いな、新之助。私はおまえが羨ましいよ。私もおまえのように生きてみたかったものだ。ああも生きたい、こうも生きられたはずだと思いながら、結局は常套な道を歩み、徒に歳をとってゆくのが常だろう。お前も兄たちのように無難な道を歩むのが良いと思ったのは親心だったが、土台つりあわぬ縁だったのかも知れぬな。まぁ、松波の家に一人ぐらいのはずれものがいても、また一興というものだろう」


「いい親父様だなァ新之助」

 左源太が言う。

「俺も父上に似たのだと思うよ。このひとの良さは」

「で、どうするのだ。この先」

 左源太に真顔で言われるとあらためて不安になる。

 そうなんだ。どうするんだ?

「今さら先生を斬ったという下手人探しも雲を掴むような話だ。探して見つけたところでどうにもなるまい。故人が還ってくる道理もないしな。とりあえずは道場の再興か」

――道場の再興――

 とても一筋縄ではいかない。今の彼には遠大すぎる計画であった。新之助は頭をかかえてしまっている。

「ああ左源太、俺が左源太だったらなぁ、左源太ほどの腕があったらなぁ……」

「なんだいなんだい、情けねぇ声を出すんじゃないよ。それについてはこの左源太、千葉道場の塾頭もつとめる犬丸左源太様がおよばずながら、力になってやってもいいんだぜ」

 ニヤリ、と笑う。

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