メトロ/発光

韮崎旭

第1話

 金曜日の革命広場駅は相変わらずいつにもまして、人でごった返していた。教会建築のような豪奢な駅舎のエントランスには、立ち上がる労働者たちの、革命で犠牲になった市民の流した血の、勝ち取られた光明と共和制の、記念碑としての壁画が、当時有名だった労働者をモチーフにした連作をものした画家によって描かれた。買い物袋はいつだってニシンでいっぱいだ。塩漬けのニシンを買い求める人々と、いくらでも湧いて出るようにすら見える驚異的なニシンの供給がこの近所の市場で見ることができる。エントランスの趣味の悪い擬コリント式の円柱などを眺めながら、特に何も予定がなかった。

 もう12月も終わろうとしている。しかしそれは問題ではない。私はいつだって時間に厳格だ。12月であろうが3月であろうが、その姿勢に変化はない。生物学的環境や概日リズムなどに安易に流されることは、現代人の犯しがちな間違いである。「あちらではニシンを売る声が聞こえ、こちらではパプリカの粉が山積みにされている。暖めたココアやワイン(どちらも、香辛料がたっぷり入った、薬膳。)が人々の間でやり取りされる。資本主義経済の実験的導入から四半世紀を経てこの市場は、すっかりその経済に慣れ親しんだように見える。しかしそれは表面上のこと、本当にそうだろうか? 私はニシンを売る声を見ながら、『本当』のいかがわしさについて考える。統治機構の考えだした、面白みがねじ曲がった冗談ではあるまいか? あるいは、実際にそんなものが……。」だがそのような考えはまもなく、通りかかる屋台の、西アジア・または中央アジア風の肉入りの蒸しパンを売る人間の掛け声にかき消されてしまう。たとえ惹句が聞き取れなくとも。


 阿片窟のような泥から空を見上げるが、込み合っていた。曇りの空に浮かぶ宣伝文は、どれもありきたりで、視界の邪魔をしない。それは巧妙に練り上げられた擬態でもある。本当は気になって仕方がないのだが、無視しているような気分になれる。そうすることでいいことは何もない。佐々木がラジオをかけっぱなしにして出かけたせいで、うるさくてならない。こんなタイミングで他国の全国人民代表大会の話を聞きたくない。皆が皆、冬至の祭りの用意をして柊とウイキョウを買いに走り、新幹線の自由席は乗車率が、規制する人々で127%もあるというのに、どうして儀礼的にせよ、全国人民代表大会の報せに割く気分の割り当てがあると考えているのか。今日だって、シナモンと八角が売り切れだったから、冬至の太陽の復活を祈る行事に使う焼き菓子が、作れないかもしれないと危ぶんでいるのに。焼き菓子を作るのは私ではなく、佐々木だが。


 レンガの壁には様々な通知が貼られているのだが、他人の納税の内訳などが放置されていて雑だなあと感じた。


 レシート、身体活動をプラス10分で健康的に、野菜のような人間の風味、野菜のように黒コショウなどを加味することでより実態に近い値が導き出せることが近年の一連の実験から明らかになった:臨床人工構造改革学雑誌。だが主に図書、オリーブオイル、昨年度の医療費に関する還付金のうけとり手続き、自壊する光景の隧道、鉄道路線の挽歌の先にあるもの、かわいい信号灯、憐れみさえ感じさせないようなアルミニウム工業の冷徹と失態、痴情のもつれから刺殺したとか本当にどうでもいいので滅べ。そんな理由のために人命を使うなそんなもっともらしい、そんな、情状酌量をメロドラマ大好きな陪審員が思わずしてしまいかねないような非常にどうでもいい上に劇的で心情としては深刻な理由で刺殺とかを行うな、もっと無作為に、無差別に。右利き、日本語母語話者に限って。統制群を用意して。死体置き場通りには死体置き場が8軒もある。今回の変圧器の故障によって、1300戸余りが停電したままである。


 醤油さしのデザインはね、あれはもとは実験器具だったんだ。でも魚はかわいい。鯨も。雨が降ってくる。醤油さしのデザインはもとはといえば、軍用の二輪車なんだ。本当さ。魚がそれをまねたので、各国の軍は混乱した。魚と敵兵の区別がつかないから。


 運動をしないので、本当に不健康さが亢進している。このようなことでは将来どころか明日にでもろくでもない死に方をすることが知れていた。PL顆粒は市販されているが、風邪にかかっていなかったし、様々な招待に対し、丁重な断りの文句を考えだすことにもいい加減つかれてきていた。仕方がなく、最寄りの第Ⅲ工廠駅から地下鉄に乗車し、道中など、「入門 スタンダード材料力学」をぱらぱらめくって眺めた。電車の中はまるで家畜の輸送車か貨物(列車)のように人間があふれかえっている。とてもじゃないが、「入門 スタンダード材料力学」などを読もうとは思えない。第一これ、ダムサイトを舞台にした長いうえに読みにくい文体の叙景詩なのだし、現代詩でもあるからなおのこと、読みにくい。なお、言語は広東語だが、リトアニア語からの重訳である。運動をしないから、刑務所に怒られてしまうに違いないと思った。そうしたら少しだけ前向きな気分になれた。とにかくこの豚箱のように環境の悪い電車の車両から、早く抜け出したい。誰もがそう考えているかはわからない。永久に、わからない。わかろうとする前に、私は「入門 スタンダード材料力学」の流麗な筆致に没頭してしまったのだ。それは地球儀、ガラス鐘、存在しない生物の標本に関する詳細かつ可能な限り正確な、調査研究報告書だった。


 革命広場駅で下車するとプラットフォームはまたかと思おうものだが、案の定人でごった返していた。これでは映画でも見て時間をつぶすことなど到底できそうにない。映画館まで歩いている間に、ぼろぞうきんのように疲弊してしまうのが目に見えていた。官吏の仕事は相変わらずひどく気が滅入るもので、窓口に来るキチガイと自分の部署にいるキチガイの区別が全くつかなかった。必要な書類を何度も、破砕もせずにごみ箱に捨ててしまったが、これは故意というよりはいたって自然な動作であり、天候や不随意運動のような、人間が意図的に左右できない事象に思われた。必要な書類によく紅茶をこぼしたので、ファンキー・ペインティングとあだ名された。英検準5級を持つものとしては全く納得のいかないあだ名であり、そもそもわかりもしない単語を人に向けるものではない。窓枠の下のデッドスペースにミサゴが巣をかけていて、ひなのいる時期になると、ひなが、表記できないような発音で喚いて非常にうるさい。鳥類音韻学研究・翻訳者資格3級を持つ私としては、音声記号の地域差が解消され、世界的な規格がまかり通るようになることを祈らずにはいられない。規格の統合における過酷で凄惨な競合に目が向かないわけではないが、一方の音声記号を他方を使うものがそもそも読めないので音声記号専門の翻訳家がいるなど、何かと厄介ごとが多い折、皆様はいかがお過ごしでしょうか? さて、今期におきましては全国小麦粉料理愛好会第3回小麦粉講習会の開催が1月4日に神部市辰橋・辰橋市民文化センターにて開催されることを皆様にお伝えいたします。

日時:3421年4月5日 午前10:23~11:55 午後14:24~17:00(17:30閉館)

場所:島川県神部市辰橋大西井3丁目14番6号辰橋市民文化センター第四会議室(2階、表示板に4の文字あり)

駐車場が狭いうえ、当日は付近の混雑が予想されることから、お越しの際は、できるだけ公共交通機関などを利用し、時刻に余裕をもってお越しください。なお、隣接の図書館では同日23時から「エル・トポ」の上映会が予定されています。こちらは近隣の小学校と図書館の共同の催しとなっておりますので、お子様連れの方はこちらにも注意を向けていただけるとよいかと思われます。なお、今回の小麦粉講習会の講師としては、湯西川平家氏(穀物商社に30年勤務・人事が主な業務)及び、川俣長岡氏をお呼びすることが確定いたしました。特に湯西川氏に関しては、人事担当の豊富な経験という見地からの、イースト菌の代謝に関しての講演が予定されていますので、ぜひ皆様がお越しになることを期待します。長岡氏はなお、県西部での六条大麦の作付面積の5年単位の推移に関する穀物先物取引価格と農業政策の関係という観点からの講演を行うことが予定されています。こちらも大変充実した内容となる予定ですので、皆様におかれましては、ますますの近頃のご健勝お喜び申し上げたうえで、こぞってのご参加を期待したい次第でございます。それでは、皆様のますますのご健康とご栄達をお祈りしつつ、今後の小麦粉料理および、小麦粉界のますますの発展を願い、結びに代えさせていただきます。

2018年12月22日 小麦粉料理愛好会一般書記 晴見四面


 という手紙を受け取ったが郵便箱に乱雑に詰め込まれていたので即座に一切の関心がないそぶりをして私はごみ箱に放り込んだ。そういった数々のどうでもいい、思い出。その時には心の底から興味がないから、まず思い出にもならない。一切気にかけられない、記憶の墓場の住人。そういうものが、満員電車のような陰湿な空間において、ふと、そのそっけなさ故に輝きだすそんな瞬間はないだろうか。私たちはよく忘却する。事件事故・交通系インフラの全国的な劣化と全国の衰退などの、華々しいニュースに目を奪われて、昨日買った卵に混入していたどう見ても血液に類する物体のことなんか、すぐ忘れる。拾わなかったごみ、眼鏡の左だけ、度が最近合わなくなってきたのか、常に視界が良くないこと、卵焼きを焦がして捨てたこと、配偶者との、些細な、しかし決定的で見過ごせない齟齬などについて、すぐに忘れる。ペットボトルのキャップを宝物のようにため込んで、部屋がキャップでいっぱいになり、うんざりして引っ越したことなんて、すぐ忘れて、灰のように海か畑にばらまかれる。しかし、そのような一見すると何の役にも立たないどころかむしろ記憶領域を無駄に占有するので即座に忘れることがより良いとされるような記憶が、時にどこだかわからない正教会の祈りの歌のように、時に物悲しい浮浪者のまなざしのように、私たちにとっての代えがたい救いになることを、私たちは忘れている可能性が高い。そうでなければどうして、毎日のように躁鬱を経験するのか。説明がつかない。


 強迫的にならざるを得ないのは、時間の悲しみだ。強迫的な生活は塗りつぶすだろう、異国情緒や神経性無食欲症、物質使用障害、などで彩られた窓際のあざやかでどぎついステンドグラスを。血で塗りたくられたドアノブと文字盤を、歩道の表面の石英の細かなすべての輝きを。強迫が覆ってしまうことだろう、その灰色の、獏のような翼で、不気味に包み込み、なかったことにするに違いない。ワタリガニなどの考えていることは絶対にわからないし、彼らには独裁者がないが、それでも蟹は砕いて肥料にされるものだ。文字盤の裏では今日も君が笑っているような気がしたけれど、気のせいだったね、駅で、待ってたんだよ、今日も。


 今日も。明日も。明後日も。帰らない君を、日に日に寒さの増す駅で、待つことだろう。送り先を見失ったプレゼント、枯れて朽ちた青写真を抱えて。君は交通障害にあの日なった。雪の降らぬ日、私に雪を贈るといって、赤い雪になって消えた。空想の君、収容に手間がかかった君。私は君に関して、鉄道関係者はあの場に関して掃除が大変だっただろうなと葬儀でうかつにも君の親族に対し口にしてしまい、殴られることこそなかったが必死で沸き上がる感情をこらえているような、自身ですらどんな感情を持てばいいのかわからずにただ衝動のような塊を必死でかみ殺しているような表情をさせてしまった。骨はだからごみだったがそれは言わなくて済んだ。親族の表情に私が面食らったのでもうああいった表情が見たくなかったというのもある。何をそんなに考えることがあるのか? 電車が人を破砕したら、掃除が大変なのは自明だし、それは世間話にもならない些事で、かつ同語反復の確認。そう気を付けないと私は君の遺族に言うところだった。「資源ごみだとは思うんですが、念のためにあなたの見解を確認すると、遺骨は資源ごみですか、資源ですか、それ以外のごみですか?」私はこの世に宗教性のごみがあるということをこのころ理解していなかったからこれはどうしようもない正当なレールだった。私は軌道上の人工衛星のようにそうするところだった。


 例えば魚釣りに出かけるとして、雨合羽の準備は不可欠だ。例えばラジオを観測するとして、放射線技師が一人はほしい。しかし人間がほしくはない。君のその、干上がった淡水湖のような思想は、生まれつきのものなのか。問いかける先に人はなく、時間は西日の来訪を知る。結果から言えば、私はその午後を丸々一つ、魚釣りに必要な想定問答集の作成に費やし、魚釣りに出かける準備をすることはついぞなかった。この辺には適切な湖や川がないし、川へのアクセスに手間取ることが多い。内水面漁業の生産高は年々増加しているにもかかわらず、増え続ける需要に追い付けない現状があり、世界でも有数の内水面漁業国であるのに、それと同時の世界屈指の淡水魚の輸入国でもあるという事態がここ5年続いている。主にコイやフナの仲間が消費され、魚醤や煮つけの材料になる。ここではフナなどを植物のえさにすることはしない。フナで大豆を育て、その大豆で醤油や牛を生産し、醤油漬けにした牛肉を加工品として売るようなことはない。フナは収穫され次第、最寄りの魚市場やその他卸売市場、市場、小売店、などで生のまま売られ、はなはだしくは収穫したその日に調理される。A・田老も近隣住民の一人。そのインタビューで彼は語る。

「花を、ええ、一年草ですね。一年草の花、で、赤いもの、や、ルミナスローズ色のものを摘みます。その年の祭りに備えるのです。竹のような植物の繊維も編みます。それは祭りの飾りにするのです。ここは雨季と乾季の差がはっきりとわかる。コメの生産国です。雨季には必要な恵みを、神々や天上の住人に祈願する。祈祷師がいます。専門性の高い職業で、血統に依存してもいる。祈祷に必要な技術は、遺伝的要因に多く左右させるのです。と、この近辺の内科医は口をそろえて言います。ここでは、自然科学と信仰は、それらが、時代も、思想的背景も、成立も、構造もまるで違うのにもかかわらず、喧嘩しないような風土があるとしばしばいわれます。それはある意味では事実に近いのですが、事実の一側面しかとらえていないとも、またいえる。」

 インタビュアー:「というと?」

(田老、答えて、)「誰もそんなことに関心がないのです。思想がないとは言いません。近代西洋的なそれでないにせよ、私たちの地域には、一定した思想があります。しかしそれはさておき、根深い無関心の風土があるのもまた、確かなことです。祭日には各々の家で、提灯を飾ります。ここには季節は、雨季と乾季があるのです。移り変わらない気温は、年較差より日格差が激しい。私らにとって冬は、雨の降らない季節、砂埃と、排気ガスの季節、たばことビルの隙間の紙ごみの季節です。飾りは、村の女たちや子供たちが作るとされることが多いようですが、近年では工業的に生産されもします。それらは乾季の、祭日の時期にあると、商店に並びます。砂糖とキビの粉で作った、船型の菓子なども並び、あと鈴と、提灯、ろうそく(絵入り)などですね。絵入りのろうそくは観光産業にもなりつつありますが、私は祭日が観光資源になることにはアンビバレントな感受性を持たずにはいられません……」

 私はその日を、架空の湖で釣りをする空想に費やしついぞ部屋から出なかった。そういうことがよくある。


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