第123話丹比真人笠麻呂の筑紫国に下りし時に作りし歌

丹比真人笠麻呂たじひのまひとかさまろの筑紫国に下りし時に作りし歌一首 短歌をあわせたり


臣の女の くしげに乗れる 鏡なす 御津の浜辺に

さにつらふ 紐解き離けず 吾妹子わぎもこに 恋ひつつ居れば

明け闇の 朝霧隠り 鳴く鶴の ねのみし泣かゆ

わが恋ふる 千重の一重も 慰もる 情もありやと

家のあたり わが立ち見れば 青旗の 葛城山に

たなびける 白雲隠る 天ざかる ひなの国辺に

ただ向ふ 淡路を過ぎ 粟島を そがひに見つつ

朝なぎに 水手の声呼び 夕なぎに 梶の音しつつ

波の上を い行きさぐくみ 岩の間を い行きもとほり

稲日都麻いなびつま 浦廻うらみを過ぎて 鳥じもの なづさひ行けば

家の島 荒磯のうへに 打ちなびき 繁に生ひたる

なのりそが などかも妹に 告らず来にけむ


白たへの 袖解き交へて 帰り来む 月日を数みて 行きて来ましを



宮仕えをする美しい女性の櫛笥の箱の上にある鏡、その鏡を「見つ」と言う名前の美しい御津の浜辺の仮寝で、愛する妻が結んでくれた赤の下紐を解くこともせず、

妻を恋偲んでいると、夜明けの薄暗い朝霧に鳴く鶴のように、声をあげて泣いてしまう。

この恋偲ぶ心の、千分の一でも慰めになるかと思って、私の愛する妻のある大和に向かって立ち上がり眺めるけれど、葛城山には白い雲がたなびき、全く見ることができない。

辺境の地、筑紫の国に直行となり、淡路島を過ぎ、粟島を後ろに見ながら、

朝なぎに水夫は掛け声を合わせて進み、夕なぎには楫の音をきしませて、波の上を進むにも難儀する。

岩の間を苦労しながら進み、稲日つまの浦のあたりを過ぎて、また難儀しながら進んで行くと、家島が見えて来た。

家島の荒磯の上には、なのりそが、生い茂っているけれど、「な告りそ」と禁じているわけでもないのに、何故に私は妻に、こんな大事なことを告げずに別れて来てしまったのだろうか。


反歌

袖を解き交わすことのできる日、筑紫から戻って来ることのできる日までの数がわかって、妻の家に行って教えて、また航路に戻ってこれたらいいのにと思う。


丹比真人笠麻呂たじひのまひとかさまろ:推定で藤原京時代の人。

※鏡なす:「かがみ」の「み」から「御津」を引き出す枕詞。


季節は鶴の鳴く冬。

おそらく愛する妻に、いつ帰るとも言えずに、別れの言葉もしっかりと言えずに、出て来てしまったのだろう。

見津の浜辺で妻を思い出しては涙が出てしまうし、航路が難儀すれば、そのたびに、妻を思う苦しい自分の心に、その難儀が重なる。

家島の荒磯に生い茂る「なのりそ」を見て、また心が混乱。

「長期間の、いつ戻って来るとは言えない」と、言ってはならないと禁じられているわけではない。

しかし、そんなことは言えなかった。

何故言えなかったのかと、またそこで混乱して悩むけれど、言えない理由など自分gは一番知っている。

愛する妻に、そんな辛いことを言いたくなかった、それだけなのだから。


だから、正式に戻って来る日がわかるのなら、妻の家に一旦戻って教えて、また航路に戻って来るのにと、反歌で詠む。

本心は、筑紫には行きたくないのだから、一旦でも、妻の家に戻ってしまえば、航路には戻らないで済ますことができるかもしれない。

しかし、そんなことなど、できないのは自分自身がよくわかっている。



天命には逆らえず、かと言って、妻にはしっかりと帰る日も告げられず。

重い心で、難儀しながら航路を進む。

特に反歌には、もうひと目逢いたい、そんな気持ちに満ちている。

単身赴任の男の弱さを、実に率直に表現した歌だと思う。








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