三日目

3-1 出張所の朝と密談

 翌朝、目を覚ましたナユカが隣のベッドに目をやると、その上には布団しかなかった。まだ脳が働かず、そのまま空のベッドをぼーっと見つめたまま横たわっていたところ、入り口のドアが静かに開き、マグカップを持ったリンディが戻ってきた。

「お目覚め? お姫様」

 ナユカは上体を起こす。

「あ……おはようございます」挨拶をしてから、妙な言葉が気になった。「……お姫様?」

「ああ、夜は自分で着替えたんだよね?」

「え? ええ……」

 昨日の夕方の着替えのことは、半分眠っていて、記憶にも残っていないらしい……。これではからかわれても通じない。

「……ま、いいや」カップを見せるように、軽く上げる。「ユーカのお茶も持ってくればよかった?」

「……そうですねぇ」

 実際、飲みたいと思ったので、冗談めかして言ってみたところ、リンディが乗ってくる。

「おぉ、それでこそ姫。それでは、お持ちしましょうか」

 にやっと笑って、踵を返そうとする。それにしても、また「姫」というワードだ。

「あ、後でいいです……」

 ここでのジョークの感覚や許容範囲がまだわからないので、そこでいったん切り、「姫」は身支度のためベッドから降りる。まずは、洗面台へ向かったところ、すれ違った食道楽より、その専門方面の情報が。

「朝食は、アネットが出してくれるって。……楽しみ」

「あ、はい」

 ナユカは、肩越しに振り向いて会釈。……なにかと世話になりっぱなしだ。世話といえば、先ほどのリンディの言葉が気にかかる。夜は自分で着替えた? 顔を洗いながら考える。「夜は」ってなに? その言い方だと、それ以外は違うみたいだけど……。顔を拭く。なにか誤解してるのかな? 「お姫様」とか言ってたし……どういうことだろう?


 疑問を抱きつつ、軽く口をゆすいで水を飲んでから、クローゼットのほうへ。そこへきれいにかけてある自分の服を取り出し、着替え始める。一度洗濯して清潔になっているのはいいが、また昨日と同じ服。せめて下着ぐらいはスペアがあったらなぁ……。と、ここで少し引っかかることがある。夕方、ベッドで眠ったとき、下着を着けていなかった……目覚めてそれに気づいたとき、びっくりした。なんで忘れたんだろう。やたらに眠かったからかな? 寝ているとき身に着けていたのは、あの浴衣のようなもの……寝巻きだけ。あれ? 寝巻き? 確か、お風呂から上がって……そのままじかにバスローブをまとって……それから、いつ着替えて……。

 ここでおぼろげながら記憶がよみがえってきた。思い出すにつれ、次第に顔が火照ってくる……。一気に今の着替えを終え、テーブルセットへ駆け寄った。

「なに? どうしたの?」

 驚いてティーカップを置いたリンディの眼差しから顔を隠すように、ナユカが頭を下げる。

「た、大変失礼しました」

 事件ではなさそう。セデイターの浮きかけた腰は、上がらずに済んだ。

「……なんのこと?」

「あの……夕方の着替え……」

「ああ、あれ。すっぽんぽん」

 ナユカは頭を少し上げるが、無自覚のうちに無防備なままの裸身をさらした相手の顔が視界に入り、すぐに視線を斜め下に伏せて絶句する。

「う……」

「いいじゃないの、別に。女同士だし、スタイルいいし」

「いえ、そんな……。でも、ああいうのは……」

 視線を下げたまま、熱い自分の頬に手を当てる。風呂場や更衣室で自分が意識しているときならともかく、自分がまるで自覚していないときは……ちょっと……。

「気にしないの、ユーカ姫」

 ここにおいて、やっと冗談が機能したリンディは、満足げ。

「あ……う……」

 上気した頬に手を当てたまま、むしろそちらを「姫」と呼んだほうがいいようなブロンド美女へと目線を戻したナユカは、恥ずかしさ交じりで、うまく反応できない。「姫」という冗談は、わかるような……わからないような……。着替えも自分ではやらないということなのだろうか……。

「御用があればなんなりと」騎士よろしく立ち上がった魔法使いが、うやうやしくお辞儀をした。「……まぁ、着替えさせたのはアネットなんだけど」

「そうでしたか……」

 だからといって、事態が変わったわけではない。状況を想像してしまうと、眠り姫はまっすぐ顔を合わせられない。そんな彼女の肩に、そもそも先に眠り姫だったセデイターの手が、ポンと置かれた。

「それじゃ、下、行こうか。アネットに会いに」

「え? ええ……」

 まだ気が引けている「姫」。

「ほら、行こうよ……ご飯なんだから。それに……」にこっと笑う。「服も着てるしね」

 回り込んだ先代眠り姫に軽く背中を押され、観念した二代目は一緒に一階へと降りてゆく。


 昨晩も利用した一階のダイニングルームで、朝食を配膳しているアネットに、リンディが声をかける。

「ユーカ、起きたよ」

「おはようございます。よく眠れましたか?」

 振り向いて挨拶をしてきた料理人と目が合い、あたふたするナユカ。

「あ……はい。お……おはよう、ござい……ます……」

「……どうしました? もしかして、頭が再爆……」いったん手を止めた施設管理責任者の視線は上方へ。「……は、してないですね。では、部屋に問題が?」

「いえ、ありません……」気を遣わせてしまった……。とにかく、昨日の夕方のことは、さっさとけりをつけておこう。いつまでも引っ張ると、気まずいし……。姫は自分から切り出すことにした。「あ、あの……」

「そうそう、ユーカが全裸事件について照れまくってるから、からかってあげて」

 リンディに妙な言い回しで先回りされ、本人は焦る。

「な、な……」

「全裸事件?」着せ替えたほうは、さほど気にもしていない。「……ああ、夕方の着替えのことですか?」

 作業を再開したアネットに、リンディが尋ねる。

「どうだった? 惜しげもなくさらされた肢体は?」

「!」

 な、なにを言って……。その肢体の持ち主は絶句。言い回しはよくわからないが、それについて質問しているのはわかる。

「どうって、スレンダーでうらやましいな……と」

 最近、体重が少し気になっている料理人は、盛り付けをしながら、ついつい答えてしまった。聞いた側はその先を促すべく、相槌を打つ。

「ほう」

「肌もすべすべで、きめ細かくて……」

 最近、お肌が……以下略。

「ふんふん」

「やっぱり女性も適度な筋肉があるほうが……って、なにを言わせるんですか」

「あれ? もう終わり?」

「終わりです」

「……終わりだって」下を向いて黙ったまま赤面中の描写対象に、視線を向ける。「残念だねぇ、ユーカ。もっと褒めてほしいでしょ」

 その姿をにやにやしながら見つめているリンディを、自覚している部分では良識的なアネットがたしなめる。

「ほら、恥ずかしがってるじゃないですか」

 いやいや、それは誰のせいで……まぁ、筋肉の部分はちょっとうれしかったけど……。スレンダーボディのスポーツウーマンは、視線を上げ……。

「ぅ……」

 また下ろした。突っ込みできず。

「気にしないでくださいね。あれも職務の範囲内ですから」

 その「あれ」というのは……どれのこと? まさか、そんなことまで……いや、そんなはずは……。混乱しながら目線を下へ向けているナユカは、もう、こうささやくしかない。

「失礼しました……」

 返ってきた反応は……。

「いえいえ、参考になりました」

「……え?」

 異邦人が聞き返したのは、単に「参考」という単語の意味を知らないから。しかし、リンディのほうは、その内容が気になる。

「参考って?」

「あ、いえ……」作業の手を止めた。「なんでもないです。言い間違えました」

 ダウト。まじめな事務員のごまかし方は、あまり上手ではない。

「ふーん……」疑わしいと思いつつも、そんな言い訳への追求より、食道楽にとって喫緊の問題がある。「ま、いいや。ごめん、準備の邪魔しちゃって」

「いえいえ」

 手を止めていた料理人は、朝食の準備を再開した。


 中断があったので、ようやく……というのは、食いしん坊の主観でしかなく、実際には、さほどの遅延もなしに朝食は出そろい、三人一緒に席についた。そのテーブル上にあるのは、取り立てて珍しくはない簡素なものたち。よくある定番メニューだ。あくまでもここの「定番」であって、遠方よりの迷子にとっての定番ではないとはいえ、いわゆる洋風な朝食の定番に近い見てくれであり、彼女の目にも取り立てて目新しさを感じるものではない。もとより、素材になにを使っているかはわからなくても、ナユカは調理してあればなんでも抵抗感なく食べる人である……なんちゃらの頭の丸焼きなどでなければ。

 そして、食べてみると、味はまとまっていて結構おいしい。これをほめた「食通」のリンディに返すアネット本人の言は、料理が得意なわけではないが、このメニューは作り慣れているという謙虚なもの。それに対し、こういう定番料理がおいしく作れるのは料理がうまい証拠と、食道楽は訳知り顔で語る……本当に知っているかどうかは、現状では同席の二人にはわからないが……。

 そんなリンディを見ながら、自分自身は料理をするのか興味を抱いたナユカは、「姫、姫」とからかわれたことへのささやかながらの意趣返しという気分に動かされ、その旨を本人に尋ねてみる。

「まぁ、少しは……ね」

 それが食通のお答え。それ以上の言葉が続かないところを見ると、どうやらあまりしないのではないだろうか。たぶん、食べるほう専門なのだろう……。少しだけ報復が成ったと感じられたナユカは、それ以上の追求はやめにしておく。

 食事の終わりには、昨晩、「お詫び」として受け取ったスイーツをアネットが出してきて、差し上げたご本人は思惑通りでご満悦。納得の朝食となった。


 さて、ここでも、食事の前後すぐには面倒な話はしないという食道楽の方針は貫かれ、他愛もない雑談を気楽にした後、片付けのある施設管理者を除いたふたりは、いったん部屋へと戻った。そこで、今後の方針を打ち合わせるためだ。自分たちふたり以外にはまだ聞かれないほうがいいと思っていることがリンディにはあり、その点を話すには自室でないと都合が悪い。アネットを交えるのはその後にする。

 キッチンから持ってきた茶葉でいつものお茶を入れ、テーブルを挟んでナユカの対面に腰掛けたリンディは、一口それを飲んで落ち着いてから、話を切り出す。

「それで……これからのことだけど……」

 こんな風に、改めて話を始められると、切り出されるほうは緊張せざるを得ない。たいていの「話がある」という前ふり同様、不吉な接頭辞と思えてしまう。こんな始まりかたをするときは、概ねいい話ではない。とりわけ、今のような状況のときには……。不安が胸の中に渦巻いてくる。こんな右も左もわからない「異世界」で、突然、放り出されたらどうしよう……。昨日は「悪いようにはしない」って言われたけど……やっぱり、邪魔なんだろうな……。身をすくめた迷子へ、セデイターからの通告。

「やっぱり、早めに魔法省に行った方がいいと思うんだ。ここから転送できるから」

 内容はほぼ予想どおり。不安が的中し、見放されると思ったナユカは、うつむいて無言のまま。

「……」

「転送がいやだってのはわかるよ。もしかしたら、そのせいでこんなことになってるのかもしれないし……。ただ、いつかは使わなきゃならないんだよね……。ユーカが自分の家に帰るときも、たぶん転送が必要だよ。……早く戻りたいならね」

 ずいぶん、転送について諭してくる……。転送さえしてしまえばいいと思っているのだろうか……? 迷子の不安が増す。確かに、転送は気乗りがしないけど……問題は、送られてからのことだ。

「……リンディさんは、どうするんですか?」

「あたしは、用事が終わってから、すぐに魔法省に戻るつもり。うまくいけば、ここから転送になるかな」

 十分な魔力を調達できないここへ、どこかから転送するのは無理でも、ここから魔法省への転送なら可能。必要な魔力を生成できる場所への戻り転送なので、問題はない。

「それなら……」

 その「用事」は、すぐ終わる? そうすれば、一緒に……。

「うん。ユーカには先に魔法省へ行ってもらって、あたしは数日後に……」

「いやです」

 即座にきっぱりと拒否した転送嫌いに、転送の常連が改めて尋ねる。

「……そんなに転送はいや?」

「いえ……転送のことじゃなくて……その……ひとりになるのは……」

「あ。……そうだね」そういうことかと納得。「その点は、あたしが話を通しておくから。魔法省で一番信用できる人に」

 例の、筋肉姉さん……サンドラのこと。なんだかんでで、リンディにとっては、そういう存在だ。ただ、本人の前では、口が裂けてもそんなことは言わない。

「でも……駄目ですか? 一緒にいては……」

 ここは粘るしかない……。

「……駄目ってことはないけど……今、いったいどういう状況なのか、はっきりさせたいでしょ? それなら魔法省に行くのが一番いい。それに……早く家に帰りたいんじゃない? あたしは用を終えないと戻れないし、いつ終わるか、はっきりとは言えないから……」

「かまいません」迷子は即答。とにかく、今、この人から離れるのはよくないと直感的に思う。「ご迷惑でしょうか」

「あたしはいいんだけど……いいの?」

「はい。ご迷惑でしょうが、よろしくお願いします」

 相変わらず礼儀正しいナユカに、リンディは戸惑う。

「その……『迷惑』とかやめて……あたしは……」なにか言いたげに口ごもる。黙って待っている相手の視線の先、セデイターが間を置いてから口を開く。「つまりね……昨日、あなたはあたしのキャリアを救ったの。だから、あたしに遠慮することはないの」

 結構な早口で言い切った。昨日、正気を失ったまま出張所を破壊したり、アネットに怪我を負わせたりしていたら、セデイターとしてのキャリアに大きく傷がつく。まず間違いなく資格停止、最悪なら剥奪だろう。それを止めたナユカに、リンディは大きな借りができていた。しかし、そんな事情を知らない貸し手には、その意味はわからない……表現の一部も。

「?」

 目の前の顔に「はてなマーク」が浮かんでいるのを見て、セデイターは要点だけを伝える。

「と、とにかく……して欲しいことがあったら……」ここでトーンが上がる。「何でも言ってよね!」

 どういうわけだか、語尾が怒り気味になっている。驚いたナユカは、体を少し後ろに引く。

「あの……」

 気づかずに自分がなにか悪いことでも言ったかと思って、反射的に「すみません」の「す」が出かかったところへ、リンディがうつむき加減に小声で一言。

「何でもするからね……」

「え……」

 ナユカには、やはりなんだかよくわからない。でも、こういう症状は……もしかしたら、一種のあれだ。例の……よくありそうだけど、周囲では見かけない……あれ。

 そのツンデレもどきは、いきなり立ち上がって声を上げる。

「あー暑い暑い。なんか暑くなってきた」立ったままお茶をぐっと飲み干し、出口のドアへ向かうと、Uターンしてまた戻ってくる。「もうお茶入れてあったんだっけ、あはは」

 ごまかし笑いをしてから、お茶をついで再度着席。軽く咳払いしてから、カップを手にし、しばしの沈黙。


 ツンデレ……といっても、あまりツンの部分がなかったような気もする……ということは、ただのデレ? というか、照れ? ただ単に、照れているだけ? 推測が近似値に近づいた頃、なにはともあれ、その不審な挙動が終了したようなので、ナユカが慎重に話の続きを俎上に載せる。実は、ここからが彼女の側の本題だ。

「ところで……あの……わたしの家のことですが……」

「あ、それならデータベースで調べればわかると思うよ。ここにもあるから」

 リンディはどうにかいろいろと立て直したらしく、声はいつものトーンに戻っている。

「それは……ないと思います」

 何で調べる、という部分の単語がわからなかったが……とにかく、ない。

「ない? まぁ、外国みたいだから……かな。もしかして、すごい辺境……あ、ごめん」表現が失礼かな……。「遠いとか? それでも、魔法省のなら……」

「いえ、その……ある意味、そうなんですが……」

 口ごもるナユカ。でも、ここはやはり、はっきり言ってしまったほうがいいのかもしれない。いや、言わなければならないだろう、この人には。ここまで付き合ってくれているのだから。たとえ、にわかには信じてもらえないにしても……。


 空いた間を黙って待ちつつも、あの住所はもしかして嘘だったのだろうか……まぁ、自己防衛上仕方ない気もするけど……などとセデイターが勘ぐり始めたとき、話途中の迷子が突拍子もないことを口にする。

「わたしは、別の世界から来ました」

 ナユカは断言した。ここが異世界であることを疑う余地は、もはやほとんどない。彼女の中では決定事項といえる。それにしても……まさか、こんな言葉を口にするとは……それも異世界の言語で。なんだか、少し滑稽な気もしてしまう。母語だったら、失笑してしまったかもしれない。

 しかし、リンディにとっては、思いがけないセリフ。……なにを言っているの、このは。……耳を疑ったものの、そこで少し考えてみて、すぐに合点がいった。表現が違うんだ。「別の世界」じゃなくて、「世界の別のところ」とか、そういうことかな? それともちょっとしたジョークとか……? そうだったら、合わせたほうがいいかも。さっき、こっちが変な……ていうか……ほら、ちょっと……あれ《・・》な態度をとったから、それで冗談をかましてるのかも。なんかわかりにくいけど、外国の人だからなぁ……。どうリアクションしたらいいんだろう。

「えーと……おもしろい冗談だよね」

 特にひねりのない返し。残念ながら、気の利いた言い回しが思いつかなかった。

「……あの……冗談ではないんですが」

 けっこう思い切った告白だったのに……。拍子抜けする異世界人。でも、こういう返答は想定の範囲内ではある。

「あれ? ……そうなの?」

「ええ」

 真摯な表情でうなずいたナユカを見て、リンディは考え直す。それなら、ジョーク扱いしたのは、ちょっと失礼だったかも。まぁ、確かにあのタイミングでそういう冗談を言うようなキャラには見えないな……。て、ことは……表現のほうだね。セレンディー語は、まだそんなに得意じゃないみたいだし。たどたどしいところもあったり、難しい単語はわからなかったり……。察するに、これは「違う文化圏から来た」みたいな意味じゃないかな……たぶん。そこで、意味を噛み砕いて確認する。

「……つまり、それは……かなり遠いってことだよね」

「は? はあ……別の世界ですから……」なんか、予想していた反応と違う。言い方が間違っているのかな? 異世界人は言葉を付け加えてみる。「つまり……この世界とは違う、別の世界です」

 言い直した……どうしよう……。こうなると、ああいう意味にしか取れない。これはもう、はっきり確認するしか……。軽めの感じで聞いてみるリンディ。

「それって……どういう意味かなー」

 やはり、根拠を示さないと、にわかには事実を受け入れてもらえないようだ……。ここはその根拠について根気よく説明するしかない。どこから話せばいいのだろうか……。ナユカは、考えを巡らせる。それでも、結局、決定的なのは一つ……。もう、面倒だから、いきなり核心から入ってしまおう。少々やけっぱちになって、そこから始める。脳筋ではないにせよ、気質的にはそっちかもしれない。

「わたしのいた世界には、魔法がありません」

「……え?」しばしの沈黙……。少し凍結してしまった。気を取り直して、魔法世界の住人は聞き返す。「えーと、もう一度……」

「魔法がないんです。わたしの世界には」

 聞き直しても同じ。どう解釈したらいいんだろう……その言い回し……。考えた末に、セデイターが出した結論はこれ。

「……魔導士がいないんだね?」

 余程の辺境にある小さな村とかなら、ありうる。外部との交流もないとかで、魔法に接触する機会もなく……。

「それは……もちろん、いません。……魔法がないですから」

 その世界の者には当然である。ただ、この世界の常識から考えると、このロジックはおかしい。したがって、目の前の人は言葉通りには受け取らない。

「そっか……」リンディにはそんな生活は想像もできない……なんとなく不憫な気もする。でも、なければないで、それなりに生活できるものかも……。あ、変な同情はよくないな。……表現を考え直して、話を続ける。「てことは、かなり奥地なんだ。ユーカの家は」

「えーと……」やはり、まだ話が通じていないのかも……。どう表現したら納得してもらえるのか……。「そういうことではなく……わたしの世界には、魔法というもの……そう、魔法の力そのものがないんです」

 これでどうだ。押す異世界人。

「魔法の力そのもの?」

「はい。だから、魔導士が呪文を唱えても、なにも起きません」

 押し込んできたナユカに、リンディは意外にもあっさり切り返す。

「その魔導士に能力がなかったんじゃない? ていうか、いないんでしょ? 魔導士」

 最初の結論に戻った。

「ええ、いません。魔導士は一人も。だって、魔法が効きませんから……」これが駄目押し。「たとえ、リンディさんでも」

「そんなのありえない!」

 自分を引き合いに出され、強く否定。いくら自分が魔導士としては……つまり……その……。少々いやなことを思い出し、セデイターは動揺を隠せない。

「でも、無理です。魔法がないんだから」

 ここは退かない、いや、退けないナユカ。

「だって、そんなのおかしい。そんなのどっか別の世界とかじゃなきゃ……」

「そうです」やっとその言葉が出た。「ですから、わたしのいた世界は、その『別の世界』なんです」

「なっ」語るに落ちたリンディ……絶句した後、最後の悪あがき。「その『世界』っていうのは、実在するの? 頭の中の世界とか……じゃないよね……?」

「!」

 電波扱いかぁ……。非魔法世界の住人は、微かにため息をつく。……こっちの世界では逆だなぁ。あっちで魔法があるなんていったら、こういう扱いだよね……。そんなナユカの様子を見れば、リンディが返答を待つまでもない。

「ご……ごめん……すぐには信じられなくて……」

「そうでしょうね……。わたしも最初は信じられませんでした……魔法があるなんて。そして、別の世界だなんて……」

「逆なんだ……はは……」

 困惑してぎこちない笑みを浮かべつつも、魔法世界の住人は頭の中を整理中。

「変ですよねぇ……あはは」

 やっと通じたみたいで、ほっとした異世界人からは笑みがこぼれる。すぐ信じてもらえるとは思えないが、ひとまず解決のスタートラインには就くことができた。


 片や、リンディは、改めて考察してみれば、その信憑性はさておき、この迷子のこれまでの言動に合点がいった。そうか……だから、街道で魔法についていろいろ聞いてきたのか……。なんか、妙な「哲学的」勘繰りをしてしまったけど、ずばりそのままの質問だったわけね……。とりあえず、魔法がないとか、効かないとかいうのを事実だと仮定して、それが異世界に直結するかというと……。たとえば、魔法を無効化するような特殊な結界が広大に張り巡らされているところに隔離されていたとか、そういうケースも考えられなくもない……ありそうにはないけど……異世界よりはまだ……。もう少し、突っ込んで聞いてみたほうがいいかな。魔法の専門家として、冷静な思考を若干取り戻したリンディが、「異世界人」に質問。

「なんか他に……『異世界』から来たっていう根拠はある?」

 ここで、リンディはようやく「異世界」という単語を使った。これがナユカのいう「別の世界」に該当する。彼女がセレンディー語のこの単語を最初から知っていれば、もう少し話が早かったのかもしれない。

「『イセカイ』の……そうですね……まず、この国を……『セレンディア』でしたよね……まったく知りません」

「知らない……ねぇ」セレンディアは大国のひとつであり、周辺国出身ならずとも、知らない人は少ないだろう……よほどの無知でなければ。あるいは、ものすごい遠くの辺境とか、または、さっき思いついた仮説のような、隔離されたところに住んでいたなら、知らないということはありうる……。ただ、それよりも気にかかることがセレンディア人にはある。「……なら、どうしてセレンディー語が話せるの?」

 これは、どう考えても不思議だ……というより、おかしい。セレンディアを知らないのに、たどたどしいながらも、言葉を話せる……。言葉を話せるのに、それを母語とする国を知らないと言う……。とはいえ、嘘ならもう少しまともな嘘をつくはずだ。その点が引っかかる。

「そう、それがおかしいんです」

 質問を受けた当人の口から「おかしい」という言葉が出た。尋ねた側にとっては、実も蓋もない返答だ。突っ込みを入れたそうな表情が目に入り、ナユカが事情を手短に説明する。端的にいえば、夢の中で話されていた言葉だということを……。


「ふーん……」一通り、その事情を聞き終えたリンディは、肯定とも否定とも取れない声を発した後、重要な質問をする。「なにか証拠になるものってある? つまり、ここがユーカにとっての異世界だっていう証拠」

「証拠……ですか……。持ち物はなくしちゃったし……」

 バッグを紛失したことが、とことん悔やまれる。ふだんはバックパックだから落としようもないのに、あのときは……。その当日に起きたいやなことを思い出しかけた「自称」異世界人に対し、事情を聞かされている間に思いついた新たな仮説を、リンディが披露する。

「別に、ユーカが嘘をついてるってわけじゃないんだ。ただね……もしかしたら、記憶操作されてる可能性もあるから……」

「キオク……ソウサ?」

 この単語は知らないが、なんとなく想像はつく。

「事実とは違う記憶を植えつける魔法があってね……。その解除は難しくて、あたしにはできない。魔法省に戻ればできるけど……それは、まだいやなんでしょ?」

「ええ……」

 そんなことをされた覚えはないけど、もしそうだったとしたら……。そう考えると気持ちが悪い。自分の状況認識がすべて間違っていることにもなる。とはいえ、魔法省にすぐ向かうというのは、今、この人から離れるということだ。それは、ナユカには受け入れ難い。

「だから……とりあえず、なんか証拠があるといいんだよね……なんでもいいから」

 そう言われ、自分の服のあちこちをまさぐって、なにかを探してみても、残念ながらそこには服しかない。服が証拠になればいいが……まあ、無理だろう。

「服しか……ないです」

「服ね……まぁ、ちょっと変わったデザインだけど……。ちょっといい?」

 リンディはナユカの服を触ってみる。生地はいたって普通の生地。取り立てて珍しいものには感じられない。

「あ、そうだ」そのとき、異世界人はあることに気がつく……タグである。洋服のタグには文字が書いてある。「これを見てください」

 服の片方のすそをたくし上げ、小さなタグの根元を両手でつまんでセレンディア人に見せる。

「……おへそなら、あたしもあるけど」

 見るところが違う。

「そ、そこではなく……」全裸事件のことが頭をよぎり、咄嗟に右腕でへそを隠したナユカは、左手で服の裏にあるタグをリンディに向ける。「これです」

「あ、それ?」小さな布きれをじっと覗き込む。「それはなに? それは……なんか文字……みたいだけど……」

「ええ。あちらの字とマークです」

 内容は、例によって服のサイズとか、洗濯時の注意とか。それらは、この際、どうでもいい。

「なるほどね……こういう文字は見たことないなぁ」

「どうでしょうか? これは証拠には……?」

「あたしは言語の専門家じゃないから、はっきりとはいえないけど……証拠になるかもね。ただ、現状では、なんともいえないかな」

「そうですか……」

 やはり、これだけでは無理か。

「悪いね……。でもさ、『異世界』なんて、簡単には信じられないことなんだよね……。わかるでしょ? だから、今はこのくらいで勘弁して」

「はい、そうですね。いきなりですもんね」

 初めて聞かされて半信半疑なら、かなりいいほうかな……。ポジティブなナユカ。

「うん。……なんか、喉からから」

 リンディは、お茶に手を伸ばす。しばらく口をつけていなかったお茶は、もうぬるくなっている。


 さて、ナユカが異世界から来たという、とんでもない可能性が浮上した以上、今後、リンディが彼女にとらせる行動には制約が出てくる。なぜなら、たとえ信憑性に疑問符が付いていたとしても、この案件は簡単に露見してはならないからだ。もしも、いきなり公にでもなってしまったら、上を下への大騒ぎになる。そうなったとき、「異世界人」がどんな扱いを受けるか……。よい扱い? それとも悪い扱い? おそらくその両方だろうが、最終的にどちらに転ぶか……確かなことはわからない。

 そのような不確定な事態に陥るのを避けるために、まず、リンディは本人にその点を指摘し、この件に関して堅く口止めをした。そして、アネットに対しても、それを話すことは厳禁とする。必ずしもそのオフィス管理者を信用できないというわけではなく、教えてしまうと、この重大な事案を無闇に背負わせてしまうことになり、それは本人にとって好ましくないかもしれない、という配慮もあってのことだ。順序として、魔法省に帰ってから、先に確実に信頼できる人物に話すのがベストであり、現状では、それを知りうる者を最小限、すなわち、ナユカ自身とリンディのみに留めておくほうが賢明だろう。

 また、当初、セデイターは、迷子が襲われた事件に関して、警察に届けておこうと思っていたのだが、新たな案件の浮上によって、それはやめたほうがいいと思い直した。官憲に訴えれば、ナユカの素性についてなにかと詮索を受けることになる。幸い、本人によれば、例のチンピラたちから受けた実害はないとのことで、当局へ被害を届けるのは、この際、やめにする。

 なお、落としたという荷物は、当人の弁では、例の森ではなく「あちらの世界」の道中で落としたため、ここでは絶対に見つからないとのこと。それが事実ならば、こちらの警察に届けても無駄だ。ただ、「向こうの世界に落としてきた」というナユカの主張に反して、万が一にも荷物が見つかれば、その中に何らかの、確かな異世界の証拠、あるいはそれが勘違いである証拠となるものが入っているだろう。とはいえ、どこで落としたかあやふやなものがそう簡単に見つかるものでもないことに加えて、当局への届けには、当然、名前や正式な住所などが必要であり、現状、それを記述するのは避けたほうがよいことを鑑みれば、不要なリスクは負わないほうがよいといえる。


 このように、ナユカが異世界から来たという「仮定」を前提に、リンディはこれからの行動の指針を立ててみた。予想される混乱を回避すれば、当人の身の安全をとりあえずは確保できるだろう。しかしながら、「異世界人説」には、いまだ半信半疑であり、検証の必要性を忘れたわけでは決してない。とはいえ、それをここでやるのは無理なので、すべては後で魔法省に戻ってからとする。

 それに先立って、当初よりの予定として、自分にはすべきことがある。なんといっても、それがここまで来た理由なのだから……。少しの間、ナユカには待ってもらって、それを先に済ませなければ。

 こうして、ようやく基本的な行動方針が決まり、ふたりは、打ち合わせのためにアネットの待つ一階へと再び下りてゆく。



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