Fall

音菊

第1話

 ジリリリリ。耳元で鳴った目覚ましに手を伸ばす。普段は憂鬱な音も、今朝ばかりは心なしか浮かれて聞こえる。カーテンを開けると、眩しすぎず、適度に湿った光が部屋を満たしていった。

 台所に向かい、冷蔵庫を開ける。昨晩から仕込んでおいた鶏肉のハーブ漬けが丁度いい具合に仕上がっている。小鍋に水を張り、卵をその中に一つずつ置き、火にかける。卵は固茹で、セットされたタイマーが鳴るまでが制限時間だ。食パンを薄くスライスして2枚、トースターに放り込む。冷蔵庫からトマト、きゅうり、レタスを出し、流水でさっと洗って水気を切る。トマトは輪切り、きゅうりは薄切り、レタスは手で千切る。しゃくしゃくと包丁が小気味良いリズムを奏でる。トースターが焼き上がりを告げるや否や、食パンを取り出して第二弾を投入する。取り出したパンに薄くマスタードを塗る。

 昔は少しどころか、全くマスタードが食べられなかったのにね。

 その上に千切ったレタスとトマトを重ね、鶏肉を乗せ、もう片方のパンで挟む。サンドイッチ一つ目、完成。悦に入る間もなくタイマーが鳴った。小鍋の火を止め、冷水で卵を冷やす。再び鳴ったトースターから流れ作業でパンを取り出し、第三弾を突っ込む。まだ熱い卵を流水に晒し、指先を宥めすかしながら殻を剥く。つるりと剥かれた卵はボウルに入れられ、フォークによって徹底的に蹂躙される。卵があらかた潰れたところでマヨネーズを勢いよく掛け、よく混ぜてから塩胡椒で味を整える。薄切りにしたきゅうりと潰した卵をパンで挟めば、卵サンドイッチの出来上がりだ。そして、トースターが第三弾を焼き上げる。冷蔵庫からブルーベリージャムの瓶を取り出し、パンを隅々まで塗り潰す。もう片方のパンを重ね、はみ出たジャムを指で拭う。

 出来上がった3つのサンドイッチに、慎重に包丁を入れていく。潰さないよう細心の注意を払って。

 そして、花柄のお洒落な紙箱に、切ったサンドイッチを詰める。元は貰い物の洋菓子の入れ物だ。綺麗に並んだ断面に、そっと箱の蓋を被せる。

 あの人の好きな具だけを詰めたサンドイッチ。

 薬缶でお湯を沸かし、水筒に熱湯を注ぐ。そこにティーバッグを滑り込ませ、しっかり蓋を閉める。

 水筒と、コップと、サンドイッチと、ランチョンマット。それら全てをバスケットに詰める。コップは勿論二つだ。


 持ち物の準備が出来たところで、身支度に移る。普段よりも少しだけ濃い口紅を塗った。久しく袖を通していなかったワンピースに身を包み、久しく履いていなかった靴を履く。バスケットを腕にかけ、ワンピースの皺を手で伸ばす。そして、傘を忘れてはいけない。天気予報は降水確率二十パーセントと言っているけれど、油断はできない。

 あの日も確か、突然雨に振られたんだっけ。


 優柔不断な空は、間延びした雲で太陽を覆っている。それとは裏腹に、自分の歩く靴音は、弾む気持ちに拍車を掛ける。目的地の公園まであと少し。道行く人々の視線に気付き、緩んだ頬を慌てて引き締める。

 誰かと歩くにはあまりに短かったけれど、誰かを想いながら歩くには丁度いい距離だ。遠過ぎず、近過ぎない。

 公園の前に着くと、ようやく意を決したのか、空から、ぽつ、ぽつと雨が降り始めた。

 私は立ち止まって、傘を差す。俯くその顔には、抑えきれない笑みが零れ出していた。

 公園の中を進むにつれ、雨は次第に強くなっていく。パラパラと躊躇いがちだった雫は、しとしとと地面を濡らすようになり、ざあざあと存在感を増していく。人気の少ない小道に、雫を受けた木々の緑が鮮やかに映える。靴の中に水が染み込んできたが、それすらお構いなしに私は進む。

 公園の奥の東屋が見える頃には、雨は本降りになっていた。私は小走りで屋根の下に駆け込む。閉じた傘を振ると、わっと水の粒が落ちた。

 東屋に一人、私はバスケットの中身を広げた。箱の蓋を開けてサンドイッチを取り出し、水筒から熱々の紅茶をコップに注ぐ。コップから湯気が立ち上り、上品な香りが広がった。

 雨男でごめんね、とデートの度に謝っていたあの人の姿が目に浮かぶようだ。

 今日の天気は雨だ。


 もうマスタードも食べられるようになったのよ。


 ざあざあ降る雨に向かって呟く。

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