T

狐狸夢中

第1話

Tとは中学の二年生からの付き合いだった気がする。

あやふやだ。きっかけは覚えてるが時期は覚えていない。でも中学二年の春休みを終えるころにはTのことが大好きになっていたのは確かなことだ。


Tが出してくる物語はどれも魅惑なものであり、登場人物に惚れ込んだ。

Tの出す登場人物の中で特に好きだったのは悲しすぎる運命を背負った彼女だ。彼女が背負う運命は凡人な私では想像もできぬほど壮大なものだった。それでも彼女はかっこよかった。何者にも屈しない強さがあった。でも、その強さが悲しき運命をより一層際立たせていてそこが私が大好きな所であった。


Tは時代を作った。

僕が生まれたばかりぐらいの頃にTは物語を作り出しており、第一作が最も有名な作品となった。十年以上前の作品だというのに未だに手に取る人はいる。

音楽も文学も人物もTが作り出すものなら全て受け入れられてきた。日本人の殆どはTのことを知っているし、通過点でもある。Tを通ることが普通なのである。


Tは神格化された。


しかしその分、敵もいるのだ。

Tの人気を妬んだのか、それとも好みがTと合わないのか、Tのことを誹謗中傷する者たちが現れた。私がTを好きになった時より前の話だが。

Tは巨大になりすぎた。好きが増すほど嫌いも増すのだと、光が強くなるほど影も深くなるのだと、私は知った。


Tを嫌いな者の言い分としては登場人物が気持ち悪いだとかそういうTの作品を直接否定するものではなく、Tを神格化するファンを嫌うものが殆どだ。いわゆるアンチは信者を気味悪がった。


私は当時、つまりは中学時代だ。否定する人が否定している理由が分からなかった。

Tの作品は文句のつけようがないほど素晴らしきものだ。それを否定するなんて信じられない。私は不愉快になった。

私はその時、T自身を否定しているのではなくファンを否定してるのだと気がついてはいなかった。愚かなことである。周りが見えていない。


だがそれは私がTを好きになるより昔の話、はっきり言って関係ない。怒りをぶつける必要もない。

だが私は愚かだ。誹謗中傷する人たちを誹謗中傷した。Tが好きだと書いてある仮面を被って。


そのことは同じような仮面を被っている人たちからは同感を得られた。私は嬉しかった。私が好きなものを同じように好きな人がこれほどいるのだと。


私は気持ちがよくなり、言いたいことを言いに行った。気持ちがよかった。どれだけ好きなことを言っても周りの同士は頷いてくれる。


私は調子に乗り、Tに対する独自解釈をし始めた。Tの作品の元ネタとなる作品にも目を通し始めた。

そしてそこから思いついたことをまた同士たちの前で喋った。絶賛してくれる人がたくさんいた。褒めてくれた。認められたのだ。


だがたった一人だけそんな私の意見を否定するものがいた。名前は覚えていない。なぜならその人には二度と近づかないようにしたからだ。私はその否定的な意見はあまり気にしなかった。私は臭いものには蓋をするということを覚えた。


勘違いされても困るが、私はこれから大事件を起こしたりなどしない。平凡にTについての思いを語るだけだ。特に物語に起伏はない。


Tが年々人気がなくなっているのは事実だ。

Tは数年に一度しか作品を出さない。一つ一つが珠玉の作品なのは間違いないが、人気が落ちている事実は変えようがなかった。私はそれに抗った。Tのことを皆に広げようと宣伝した。面白いように伝えた。


だが、明らかにTを愛していた人々は減っていた。私は過去の作品を反芻することしかしなくなった。

授業中は常にTのことばかり考え、休みの日はずっとTと睨めっこだ。今、あの時の時間は無駄でしたか?と聞かれたら笑って誤魔化すしかない。

客観的に見れば時間の無駄なのだが、あの時の時間が今の私を作っているのも紛れもない事実だ。


Tが好きからTを愛してるに変わった。

調べてみれば、好きは欲求で愛が奉仕らしい。私はTをこよなく愛した。Tのために一生ついていくと誓ったのがおそらく中学三年の夏休み。薄暗い部屋で視力と引換にTへの愛を手に入れた。


私はTをもっと盛り上げるための計画を思いついた。私がTの作品を総まとめしたような二次創作を作るのだ。私はセンスがよく、計画は面白いようにさくさく進んだ。ただ、技術がないため、技術を身につけるための時間が必要だった。ちなみに今日こんにちでも私には技術は身についていない。


中学三年生の文化祭があった。

私は教室の装飾でTらしさを出した装飾をしないかと提案した。Tのような世界観を教室の中で作り出せたのならそれほど美しいことはない。

しかし、それは否定された。私のクラスにTを好きな人はいなかった。それよりも流行りのものを装飾にしようという意見が通った。


私は人知れず涙を流した。悔しさと嫌悪感の涙だ。

なぜ、あのバカどもはTを好きにならないのだろう。Tを一度は好きになって当然ではないのかと思った。

でも、通った意見には従わないとならない。

私は仕方がなく好きでもないそれを装飾にするためのアイデアを出した。私はセンスはいいので、私の出したアイデアの殆どが採用された。そして結果的に私たちの装飾は大好評を得た。


人間の多様さの片鱗を知った。己の好きはどれだけ熱量があっても押し通せないことがあるのだと知った。文化祭はとても疲れた。今までにない疲れを感じた。肉体的疲れではない。人間関係の疲れだ。

だが、私は、それを機に大人になった。


するとどうだろう。大人になった私が再び仮面をつけて辺りを見渡してみると、全く知らない仮面を付けている人が本当にたくさんいてひどく驚いた。

大人になって、今までより高い視点から見てみると私がいた世界はちっぽけだった。


私の周りの同士たちは、私も含めて世界の一部でモブの一部であった。基本的に同じ仮面を付けている者どうしでしか惹かれ合わない。それが起こした井の中の蛙。私は自分の存在が怖くなった。


私は今までの発言を客観的に見てみるということをした。するとどうだろう、酷いったらありゃしない。

私は恥ずかしくなった。例のTの二次創作計画の進行も滞った。


だが私はTを好きだったから救われた。

たとえT好きの仮面を付けていなくても、昔はTが好きだったと言う人が多かったのだ。私が気に入った人の殆どが過去にTを通過した経験のある人たちだった。


私はTのことをより一層誇りに思った。

やはり、Tは素晴らしいのだ。

だがTの人気も落ちている。


Tがつまらなくなった。そういう意見もちらほら見た。だが大人になった私はその程度の意見で不愉快にはならない。それも大事な意見な一つなのだと受け入れた。そういった意見を頭に入れて最近のTを見ると確かに質が落ちたと言わざるを得ないのだ。


Tを愛しているのに変わりはないが、愛してるだからこそTに対する気持ちに嘘はつきたくなかった。

確かにTの出す登場人物の魅力は減っていた。そりゃ初期の方の登場人物には愛着があるから現在と比べて見劣りするという感情論もあるが、私の中のメーターも確実に魅力は減っていると言っていた。


だがだからこそファンの私たちがTを盛り上げるべきではなかろうかと奮起した。

例の計画にも熱を入れて筆を入れた。


そして新たな同士を見つけようとまだ見ぬ同じ仮面の人々を探し始めた。

その時、やっとこさ気がついたのだが、Tの仮面を被っている者たちは、その、下の人間なのだ。

醜悪なのだ、馬鹿なのだ、愚人なのだ、自己中なのだ、餓鬼なのだ、雑魚なのだ。


私はTに限界を感じた。

同士が低レベルだと分かると一気に熱が冷めた。

それからはTのことを陰ながら応援するようになった。客観的に見るということを覚えてから全てがくだらなく感じた。


私は、今でもTが好きだ。

昔の同士が未だにTのことしか好きでないと軽蔑するようになった。時代遅れだと思うようになった。

だがT自体が好きなのは本当だ。嘘ではない。


Tに完全に飽きたのが高校二年だ。その時に別のものに乗り換えた。でもTは好きのままだ。


Tはこれからも長く続くと思う。

中学の頃の私のように新たにTを好きになる人たちとずっとTから離れようとしない人たちがTを守っていくのだろうと確信している。それと同じようにもう二度とTが時代を作ることはないとも確信している。

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