第17話~話をさせて~

 勢い良く閉められたドアは部屋に圧力をかけ、壁にかかっていた絵が浮き上がってカタンと音を立てた。息を整える間もなく急いでドアの鍵を掛けると、部屋の中央にある一人用のソファに飛び乗った。膝を抱え込みながら今しがた起こった事を改めて考えると、徐々に顔が青ざめていく。


 今日一日、叶子には驚きの連続だった。

 彼と突然会う事になったと思ったら彼の家に招待され、おいしい料理をご馳走になり、ワインを傾けながら彼の身の上話を聞いて少しショックを受けたりもした。

 それでも彼に『恋人になって欲しい』と言われて少し有頂天になっていたのだが、それも束の間、どう考えても彼と釣り合わない事に尻込みした叶子は電話をしようとバッグの中を探すが、どうやら携帯電話は彼と過ごしたリビングに置いて来てしまった事に気付く。そして、取りに戻った彼女を待ち受けていたのは、シャワーから出てきたばかりの彼だった。


「……あーっダメだ! もう寝ようっ!」


 そう叫ぶと急いでバスルームに飛び込み、彼の事は考えないように無我夢中でシャワーを浴びた。

 用意されていたガウンに袖を通し飛び出す様にバスルームから出ると、備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し再びソファーに座り込んで冷たい水を口に含んだ。


「はぁー、おいしっ」


 気が緩んでしまったのか、考えないようにしていたのにふと、先程の場面シーンが脳裏に浮かんで来る。真っ暗闇の部屋の中、バスルームのオレンジ色の淡い明かりをバックに彼の影が映り……。


「っ、ああああぁぁ……」


 見てはいけないものを見てしまったと激しく後悔し、これからどうやって彼と顔を合わせたらよいものかと頭を抱え込んだ。

 少なからず、叶子が彼に対して抱いていた“王子様”的な勝手なイメージ。それは今でも勿論変わっていないのだけれども、物語に出てくるような王子様は決して“裸”の姿なんて描かれていないのだ。いや、勿論人間で有る以上誰しも裸の上に服を着たりするのだけれど、初っ端から気品溢れる王子様に対して一糸纏わぬ姿を想像する事など、まともな女性ならしないだろう。叶子もそのまともな女性の一人だと思っていたからこそ、突然惜しげもなく晒された彼のあられもない姿に叶子の心の準備が足りなくて、もう完全にパニック状態に陥ってしまっていた。


(お、おおお落ち着かないと!)


 心の中で何度も呟きながら、テーブルの上に置いたミネラルウォーターをゴクゴクと音を立てるほどの勢いで喉に流し込んだ。


 すると扉の方からドアをノックする音が聞こえた。誰にも見られていないというのに、反射的に胸元のガウンの乱れを整えた。


(だ、誰!)


 恐る恐るドアの側へ行き、少し怯えたような声で返事をした。


「は、はい」

「……僕だけど」


 今、一番この世で顔を合わせ辛い相手が扉の向こうに居ることがわかった。


「っは、はい?」

「リビングに君の携帯電話があって。さっきコレ取りに来たんだよね?」

「あ、はい……」


 さっきは突然の事で当初の目的を果たせず、逃げ帰って来てしまったのを思い出す。何故、あの時ちゃんと携帯電話を見つけて帰ってこなかったんだろうと後悔で一杯になった。


「あの……、開けてもらっていいかな?」


 先程までとは違い、気弱な彼の声が叶子の胸をグッと締め付けた。


「あ、ち、ちょっと待って下さい」


 急いでガウンを脱いで服を着た。そして扉に向かい鍵を開けて少しだけ扉を開くと、そこには俯きながら上目遣いで叶子を見つめる彼が居た。シャワーを浴びたせいかほんの少し頬を赤らめた彼の髪はまだ濡れていて、シャンプーのいい香りがした。


「あの……、中に入れてくれない?」

「だ、だ、ダメです!!」


 一方的に叶子が断った事で、彼は少しむっとした表情になった。


「な、なんで?」

「も、もう、えーっと、あの……。っ! 寝る所なんですっ」

「……」


 その場を取り繕うとしているのがばれているのか、その返答に納得してないと言わんばかりの彼の表情。それに気付かない振りをしながら、少し開けた扉の隙間から叶子は手を差し出した。


「携帯、ありがとうございます」


 彼女が手を伸ばすと同時に、彼は携帯を後ろへ引き離した。


「入れてくれないなら、渡さない」

「は、はいっ!?」


(何なの!? その交換条件は! こ、こんな夜遅くに女性の部屋に入れろだなんてっ! ……って彼の家だけど。しかも、携帯を届けに来ただけのはずなのに、渡さないなんて! ……わざわざ持ってきてくれたんだけど)


 思いも寄らぬ返答に頭の中が混乱し、どうにもこうにも纏まりがつかなくなっていた。


「お願いだから、少し話しをさせてよ」

「ひ、卑怯です!」


 ――思わず口走ってしまった。


「卑怯って! そんな言い方……」


 少し傷付いた様な顔をして彼は俯いてしまった。流石に言い過ぎてしまったと思いなおした叶子は、少し扉を開け一歩彼に近づいた。


「あっ、ごめんなさ――」


 そう言い始めたとき、心なしか彼の口角が片方上がった様に見えた。


「――? あっ、ちょっ!」


 そして、そう気付いた時には時既に遅く、彼女の気が緩んだ隙に少し開いていた扉に手を掛け強引に部屋の中に入ってきた。

 部屋の中に入るや否やズンズンと一目散にソファーへと向かう。ソファーにボスッと腰を沈めると足と腕を組み、彼の目の前のソファーに座るように叶子に指し示した。

 もう逃げられないのだなと半ば諦めた叶子は、指示通りに一人用のソファーに姿勢を正して座った。


 お互い目も合わさないどころか、何も言わずにただ座っている。カチコチと時計の針が進む音がやけに大きく聞こえて、二人とも居心地が悪そうに見えた。


「……」


 彼がふーっと深呼吸をして、思わず叶子は身構えた。


「あのさ」

「み、み、み、見てませんからっ!!」

「……」


 彼の言葉を遮り、目を瞑りながらそう言い放った。


「やっぱり見たんだ」


 叶子が言ったのとは逆の事を言われてしまい、訂正しようと顔を上げるとそこには思っても見ない光景が待っていた。


「み、見てないって言って、……る、って。――え?」


 先程までふんぞり返っていた筈の彼が、ソファーで小さくなって顔を両手で塞ぎ耳の先まで真っ赤になっている。まるで叶子が彼をいじめている様なこの構図に、思わず彼を慰めたくなった。

 塞いでいた両手を取ると、叶子と視線を合わせないように斜め下に目を向けた。そして良く見てみると目は潤み鼻の頭が赤くなっている。そんな彼の姿を目の当たりにすると、恥ずかしいのはきっと彼の方なんだと思い直した。


「あの、本当に見てないですから」

「いや、見たね」


 どこからその自信が沸いて来るのか、叶子が何度『見ていない』と言っても全否定する。かわいそうだなんて思っていたのは最初だけで、意地でも納得しようとしない彼に叶子も折れる気は無かった。


「見てないです」

「見た」

「っ! 見てないってば!」

「いーや! 絶対見たね!!」


 しばらく、そんな堂々巡りが繰り返された。


「だ、だ、だ、だって! 部屋の中は真っ暗で……。その、だから全然見てませんってば!」

「じゃあ何で何も見てないのに、大声で叫んで逃げてったのさ」

「ぐっ」


 言葉に詰まった彼女を見て、とうとう彼は頭を抱え込んでしまった。


「ああ、もう僕死にたいよ……。気持ちを伝えたその日に、裸を見られるなんて」


 彼としては、それはそれは腑に落ちない出来事だったのであろう。家に誘って食事を共にし、色々な話をして思いを打ち明ける所までは完璧だったのだ。そう、己の裸を見られるまでは。初めて見せた自分の裸体が、彼女の合意を得てから見せる雄雄おおしい裸体ではなく、完全に無防備な状態で見られたのだから、相当ショックだったに違いない。


 そんな男の繊細な一面をこれっぽっちも理解していない叶子は、彼のその言葉を聞いてふと我に返った。


(そうだ返事しなきゃって思ってたんだった)


「あの、そのお返事なんですが」


 思い立ったら吉日とばかりに、叶子は急に真面目な表情に変わった。








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