望郷症の治し方

井中 鯨

『望郷症の治し方』

月読町でただ一つのバーであるハクトは夜十一時で閉まる。どこを探してもこんな健全なバーはないだろう。早い閉店時間は、規則正しい生活を重んじる住民たちの要請でもあった。日付が変わる前に店を閉じない限り、住民たちが酒に溺れてしまうからかもしれない。


 私が、夜十時半に店に入ると、ちょうど男性二人組が会計を済ませ、出ようとしているところだった。私はカウンターに座り、マスターの手が空くのを少し待った。


「今日は遅かったね」

ここのマスターである白木さんは、少し乱れ始めたオールバックを直しながら私に声をかけた。

「えぇ、イレギュラーなカウンセリングが何件も舞い込んじゃってね。割と長い時間捕まっちゃたのよ」

「それはご苦労様。いつものでいい?」

「えぇ」


 焼酎のお湯割をちびちびと飲みながら、改めて店内を見渡した。

無味乾燥な月読町の中で、このバー・ハクトのみが温かみを感じる空間だった。

木目調のインテリア、薄暗い照明、少し剥げつつある椅子やソファ。

ところどころに飾られた歴代のマスターと客との写真が、静かにこの店の伝統を感じさせた。

七代目の店主である白木さんは五十歳くらいの細身の男性で、オールバックと銀縁の眼鏡がトレードマークだった。


「で、今日はどんなカウンセリングだったの?」

「疲れている私にそれ聞いちゃいますか?」

「いいじゃない、店はあなただけだし、皿洗いのお供に聞かせておくれよ」

「仕方ない。では守秘義務を破って一つ。じゃあ、その前にもう一杯同じのをくださいな」


 二杯目を少し飲み、私は口を開いた。

「三十八歳のドイツ人技師。名前はまぁ、ヨハンとしましょう。彼がここに来たのは半年前。貨物船の会社で、船のメンテナンスの仕事をしていたの。妻子を故郷に置いて、ここでバリバリ働く予定だった。でも・・」

「望郷症になった?」

「まぁそうね。窓の外を見ても黒く塗りつぶされた空と窪んだ大地。募る寂しさ、きつい仕事。次第に倦怠感が高まっていった」

「よくある話だね」

「母親から送られたスクリーンアダプターを自分の部屋に設置したのがよくなかったみたいなの。窓からのつまらない景色が一変して彼の故郷の大農園になったんだもの」

「大農園?実家は農家かな」

「えぇ、小麦畑に野菜畑、先祖代々の農家の血筋だったみたい。でも、そのヨハンさんは農業が嫌いで、子供の頃からオートトラクターとかファームドローンとかを分解したりして遊んでたんだって」

「お、貨物船のメンテナンスと繋がったな」

皿洗いを終えた白木さんは少しニヤリと笑い、自分用にウイスキーをグラスに注いだ。


「母親から送られたスクリーンアダプターに映し出される故郷の大地。揺れる麦畑、針葉樹林、豊かな大地、そんなの見せられたらそりゃ帰りたくなるわよね」

「それはお母様が悪いな」

「知り合いの貨物会社の産業医さんから連絡があって、一度診てくれと。それで今日会ってみたら、まぁよく喋る人で。それでね、彼曰く大地の匂いを嗅ぎたいと」

「それならワインかウイスキーでいいだろ?あれだって大地の匂いだぞ。それか疑似嗅覚デバイスでも買えばいいじゃないか」

「いいえ、あれはニセモノなんだって」

「結局、彼はどうしたかったんだ」

「カウンセリングの原則は、相手の話を聞くこと。これだけで問題の八割は解決するのよ」


 空になったグラスを傾けて氷で遊んでいると、白木さんは、椅子に深く座り込み唸りだした。

「いやぁ、なんかヨハンさんを救える手立てはないかなって考えていたんだけどね。いやぁ僕としてはあまりそうしたくはないんだけど、それで有望な技師が一人救えるんだったら・・うーん」

「なによ、早く言ってくださいよ」

「いや、私は九州出身でね、生まれた町は畳の生産で有名だったんだ。でも私はあまり畳が好きではなかった。町にはむせ返るほどあの匂いが漂っていたし、大していいもんだとは思ってなかった。でも月に暮らし始めて四年経って、不意に故郷の匂いを嗅ぎたくなって、畳を何枚か注文したんだ。ここの仮眠スペースに敷こうかと思って。それが来週の定期船でやってくる。もしよければ悩めるヨハンくんに一畳だけプレゼントしようかなと」

「ドイツ人にい草の匂いはどう映るのかしら」

「大地の匂い、ってことには変わりないだろ?」

「じゃあ日本の伝統の力を少し分けていただけますか?畳の上に横になって、い草の匂いをかいで寝れば少し気も安らぐかもしれない」

そう言うと、彼は決心したようで、無言で頷いた。


「望郷症の治療法って案外簡単なのよ。地球に帰してあげる。それで終わり。でも仕事上、地球に帰っていいよ、なんて言えないのが辛いところ」

私の愚痴が聞こえていたかはわからなかったが、白木さんはゆっくりと立ち上がり、箒で床を掃き始めた。


 少しの間ぼんやりと考え事をしていると、一通り掃き掃除を終えた白木さんが真面目くさって語りかけてきた。

「私はね、ここでマスターをしていて思うんだが、人類の月面進出ってのは感情面での大きな実験になっているんじゃないかなぁ」

「どういう意味?」

「いや、月ってつまらないだろ。いる人も真面目な奴が多い。それもそうだわな。複数の感情テストをパスして冷静さと論理的な思考を持った人しか月には行けない。健康第一が何よりで店は真夜中を超えて営業することはないし、休日はジムが満員御礼。昔よく、作家や詩人は月で何を思うのだろう、月で執筆したら傑作ができるかもしれないってよく言われていたけど、私に言わせりゃそれは見当違いだ。もしかしたら今が進化の分かれ道かもしれない。いかなる孤独にも耐えられる人類が誕生するかもしれない。だけど過渡期だから、今は皆あなたに泣きつく。地球に帰らせてと。そりゃそうだろう、手の届きそうな空にあんなに綺麗なビー玉が浮かんでいるんだから」


 彼は一気に言い切ると、大きく息を吸った。

「私も自分の真面目さに辟易することがあるわ。怠惰だったら地球暮らしがいいのかも」

「あれ、地球に彼氏を残しているんじゃなかったけ。怠惰な彼氏」

「えぇ、とびきり怠惰で、話がつまらない彦星がいるわ」


 店の後片付けが終わり、白木さんは最後の一杯を注いで、一気に飲み干した。

「常連のあなただから言うんだけど、あと一年で契約満了で月暮らしは終わるんだ。生憎、望郷症にはならなかったけど、私もそろそろお迎えが来ちまう」

「地球に戻ったらどうするの?」

少しの沈黙の後、うつむいてこう言った。

「そうだな、店を開こうかと思っているんだ」


白木さんは月に来る前、豪華客船内のバーでマスターをやっていたそうだ。海上から月面へ。根っからの流浪の民だった。

「種子島あたりで店を開けないかなと思っていてね。知り合いが多いし、空き家もあるって話でね。宇宙港の離発着を見るのは飽きないし、あそこなら月読町でマスターを五年経験ってのは箔がつくだろう」


店内の照明を消し、二人で店を後にする。薄暗く静まり返った通路を歩きながら、白木さんは小さい声で話を続けた。

「気恥ずかしいから笑わないで欲しいんだけど、豪華客船でのバーの名前はアルバトロス、ここは白うさぎでハクトだろ、だから自分の店の店名も何か生き物がいいなと思ってこの間思いついたんだ」

「大丈夫よ。からかったりしたりしないから」

「ジェリーフィッシュ。つまりくらげ。漢字で書くと・・」

「海に月。笑わないわ。こんな素敵な名前他にないわ。海の上と月の上で漂い続けた白木さんしかつけることができない店名ね」

「そう言ってくれて助かった。ぜひ契約満了で帰還したら立ち寄ってくれ」

「えぇ、怠惰な彼氏を紹介するわ。私のことを覚えておいてよね。守秘義務を守らないカウンセラーってことで」


 二股路で白木さんと別れた。

通路の天窓には漆黒の闇と安っぽい合成映像の地球が浮かんでいた。

不意に青い惑星が消えた。それが十二時の消灯のサインだった。何も浮かんでいない天窓を見上げながら、私は家路へと急いだ。

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望郷症の治し方 井中 鯨 @zikobou12

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