3 竜殺し

  塔に集められた病人は死を待つばかりだった。

  長患いの末に、腐り落ちた肉は土に変わった。

  私たちは苗に水を吸わせるやり方で、患部に濡れた包帯をあてがった。

  嫌な匂いのする土を、欠片もこぼさず植木鉢に集めた。

  春には、そこに木を植えるのだという。

  私には悪い冗談にしか思えなかった。

 

 

 食堂の表扉には本日貸し切りの板片が吊る下げてあった。文字が読めないエトでも、幾度かの経験からその意味を学んでいた。リシアに確認を取ると、外からの客人がこの場を貸し切って宴会を催すのだと、そう返ってきた。食堂では、定期的にそのような催しが行われる。採油場を同じくする油人たちが集まって日頃の疲れを憩うのだ。つい先日は北三七層を採油場とする連中が、夜通し騒ぎを続けたあげく、椅子や机の一部を壊すほど酩酊し、床に吐瀉物の川を作りあげた。エトはおちおち寝ていることもできず、食堂の手伝いを買って出て、ろれつの回らない油人たちをうまいことかわしながら手桶を片手に走り回った。

 「外からの客人?」エトは思わず問い返した。いかにリシアの食堂が人気だとはいえ、ここは油人区にある油人のための食堂だ。エトの知る限り、かつて瀕死の状態で運び込まれたエト自身を除いて、油人以外の者が食堂に足を踏み入れたことはなかった。リシアは、厨房の手伝いをする者たちが遠ざかるのを待つと、あなたも参加するのでしょうと小声で言った。エトはどうしてリシアが自分の参加を把握しているのだろうといぶかったが、会合の詳細をほとんど知らされていない手前、漠然と頷いてみせることしかできなかった。砂漠から生還してからというもの、計画の存在を常に気に掛けてきたが、仲間の内に数えられているのかどうか、不安を覚えない日はなかった。エトは、ギリヤが油人として大穴に潜っていることすら知らされていなかった。――とにかく、わかっていることだけに注力しよう。死を賭して砂漠を越えた意味がようやく現れようとしている。計画が、いよいよ動き出すんだ。

 会合が始まるまでの間に、少しでも体を休めておこうと自室に上がると、着替えもせずに寝台に倒れ込んだ。鳴り響く警報が耳にまだ残っている。体はくたくたに疲れていたが、気持ちが休まらず、落ち着かなかった。竜の子と名乗りを上げたヴィノの顔が浮かんでは消えた。ヴィノの心に直接触れさえすれば、彼女の負担を減らす役に立てるのだろうか?エトは説明のつかない苛立ちを抱えたまま寝台に横たわっていたが、窓辺に吹き寄せる砂が刻々と硝子を汚す様子を眺めていると、いつの間にか眠りに落ちていた。

 風が強く吹いたようで、下宿の外壁を伝う配管のひとつが軋んでぎいと音を出した。

 エトは目を覚ました。階下から人の集う賑やかな物音が聞こえる。エトは作業着のまま、急いで部屋を飛び出した。

 「寝癖くらいとってきたらどうだ、小僧」

 階段を駆け下りるエトを見つけるなり男が言った。男は、頭に分厚い布地を巻き込んだ、砂漠越え特有の隊商服を着込んでいた。

 「元気そうで何よりじゃねぇか」カデッサは豊富なひげ面をなでながら野太いがらがら声で言った。

 「隊長!」エトは目を見開いた。

 「すっかりくたばったものとばかり思っていたが、しぶとく生き残ったようだな。セオの濡れ鼠め」

 「何度も指摘しましたが、僕はセオの出身ではありません!」

 「ミシュ川に沿って暮らしてりゃ、セオに暮らすも一緒だ」カデッサはひげ面をにやりとゆがめ、それから大きな手を振り上げた「こっちに来いよギリヤ」

 エトはギリヤを探して食堂全体を眺めやった。ギリヤはすぐに見つかった。頭ひとつ背の高いギリヤを見逃す方が難しかった。食堂には、十人ちょっとの人間が集まっていた。ひとつの机に、二、三の人間が座り、細々と会話を交わしている。態度も声も大きいのはカデッサただ一人だけで、他の者は皆、こそこそと身を潜めるように大人しい。中には、エトの見知った隊商員もいたが、覚えのない顔の方がずっと多かった。

 「あまりじろじろ見るな。お互いを知らない方が良いこともある」

 エトたちの下にギリヤがぶらりとやってきた。

 「ギリヤさん!いつから油衆に?」

 「半年ほど前だ。お前と顔をつきあわせるわけにはいかなかった。わかるだろう?」ギリヤは椅子に腰を落ち着け、長い足を存分に伸ばした。

 「わかります」エトは元気よく答え、輝く瞳でギリヤを見た。砂犬に対峙する身のこなし、どんなに危険な場面でさえ冷静さを失わない胆力、戦士であった過去、ギリヤはエトを惹きつけてやまない。

 「さあ小僧、お前さんがどうやって砂漠を越えて生き抜くことができたのか教えてもらおうじゃねえか」カデッサは一息で杯を干すと、厨房に追加を怒鳴った。ギリヤも強い興味を持ってエトを見ていた。

 エトは一年前に思いをはせた。死の淵から抜けだし、下宿の寝台で目を覚ましたとき、カデッサたち隊商の誰かが、自分を運んでくれたものとばかり思っていた。実際には、カデッサたちはエトよりも数日遅れてイーンの都市に入った。リシアの話では、エトが幾日も生死の境をさまよっている間に、カデッサはふらりと顔を見せ、エトの世話を頼み、すぐに去って行ったのだそうだ。

 「覚えていないのです」とエトは答えた。「隊長に託された書簡を携えて、砂漠の旗を追いました。ギリヤさんの援護がなくなり、一人で砂漠を駆けて数時間が経ちました。ようやく終わりの旗に辿り着いたと思ったら、ロゴ族に囲まれていたのです。旗の意味を読み間違えたのかもしれません。あるいは、ロゴ族が僕らの旗を利用したかです。僕はファを力の限り走らせました。ファは良く応えてくれました。僕を安全なところまで――少なくともロゴ族の手の届かないところまで運んでくれたのです。ファが力尽きると同時に、僕自身も力をなくしました。体中に傷を負っていました。血が多く流れ、一歩も動くことができませんでした。そして、意識を失ったのです」まるで答えになっていないとエトは思った。――どうして僕は生き残ることができたのだろう。その答えを知りたくて、この一年というものそのことをずっと考えてきた。

 「俺たちは経路を変更し、迂回して旗を辿った。その途上で、こいつを拾った」ギリヤは腰元から包みを取り出し、エトの前に置いた。

 エトは包みを開けた。そこにはエトが落とした短剣が入っていた。丁寧に手入れされていたが、握りの細工部分に染みこんだ血は黒い筋となって残っていた。

 「これをどこで?」エトは短剣を手に取った。それは記憶していたよりもずっと軽く感じられた。

 カデッサが鼻を鳴らした。

 「経路の迂回先で俺たちは再度ロゴ族の襲撃にあった。あいつら釜のようにうだる砂に潜り込んでいやがった。常軌を逸しているとしか思えん。俺たちは隠れた砂犬をあぶり出すために、血と肉の滴る袋をファにくくりつけて走らせた。ファは血の匂いを嫌がるが、砂犬のあぶり出しにはもってこいだ。あいつらは獲物を追うためにぎりぎりまで飢えさせられている。御馳走が目の前を駆け抜けて、どうして耐えることができるってんだ」カデッサは気分良く拳を机に叩きつけた。

 「それは、岩に囲まれた広場のような場所でしたか?やはり僕は旗を読み間違えていたのでしょうか」

 「岩の広場?わからないな。俺たちはずっと砂場を走っていった。立ち寄った水辺にも、岩に囲まれたような場所はなかった」ギリヤは手を伸ばし、エトから短剣を受け取った。片手で器用に短剣を扱いながら、その剣先に映り込む像を眺めると「こいつは俺たちを襲ったロゴ族が落としたものだ。お前はロゴ族に殺されたとばかり思っていた」と言った。

 「蛮族に武器を奪われて生きていたやつを俺は知らないからな」カデッサは野太い笑い声を上げた。

 「すみません」エトはしゅんとなって答えた。恥ずかしさがこみ上げ、耳元を赤く染めていく。

 「よく生きていたってことよ」とカデッサが言い、ギリヤも頷いた。

 「俺たちがわからなかったのは、その短剣を回収した場所が無の砂漠の南に近い側だったことだ。俺たちも知らされていなかったが、仲間たちはイーンからいささか離れた場所を野営地にしていた。たぶん、お前の辿った道は間違っていないよ。だからこそわからないんだが、お前はどうやってイーンに辿り着くことができた。俺たちでさえ、あの場からイーンに辿り着くまでに二日かかった。瀕死の状態なら、どうだ?とても辿り着けないと考えるのが自然じゃないか」ギリヤの声音は普段と変わらぬ落ち着いたものであったが、その視線は鋭く、まるで獲物を追い詰めるような目をしていた。

 「わからないんです。先に言ったように、僕は怪我を負い、砂漠に倒れました。それからこの下宿で目を覚ますまでの記憶が一切ないんです。リシアさんの話では、僕は油人区にある森の外れで見つかったそうです。森から一人歩み出て、ふらふらと、まるで記憶を奪われた人のようにうつろい、そして倒れたと。身につけた衣服はぼろぼろに裂け、全身が血で汚れていたにもかかわらず、その傷はとうにふさがっていたそうです」エトはそこで話しを止めると、上着をまくり上げて腹から腰回りまでを露出させた。そこには皮膚の引きつった傷跡が今なおはっきりと残っていた。カデッサとギリヤは見飽きたものでも見るようにちらと傷跡に目を向けると、ため息をついた。

 「普通は死んでる」ギリヤが言った。

 「ありえんことだ」カデッサがうなった。

 エトは傷跡に手を触れた。砂漠の砂を思わせる熱が皮膚の下でくすぶって感じられた。「誰かが僕を運び込んでくれたにしても、イーンまでの距離を考えると説明になりません。僕はあの場所でほとんど死んでいました。死の向こう側の景色さえ見たように思います。隊長たちが駆けつけてくれたとしても、砂漠を越えられはしなかったでしょう」

 「でも、お前は生きている」ギリヤはお手上げの合図に、両手を広げてみせた。その表情は、この謎をおもしろがっているようにさえ思えた。

 「僕は生きています。僕は生きることを選び、そう答えました」

 「誰に?」カデッサが訝しげに問うた。

 「竜に」エトは笑われることを覚悟でそう答えた。でも二人は笑わなかった。

 「薄れゆく意識の狭間で、夢を見ました。故郷の川の夢です。現実に故郷にいるのかと思えるほど、その夢は鮮明でした。水の音を聞き、その場の匂いを嗅ぎ、人々の感情に触れることができました。そこで僕は叔父と話をしました。もうすでに他界した叔父とです。叔父は、この川は死の川だと警告を残して去って行きました。僕はその時ようやく、自分の足下を流れる川が、故郷に流れる川とよく似た、それでいてまるで別物であることに気がついたのです。それは、死でした。僕は実際に死んでいたのです。僕を生の世界に繋ぎ止めていたものは、空に浮かぶ月でした。それは死の世界の月であると同時に、砂漠の太陽の影でした。僕は死を受け入れながら、その月を眺めていました。すると、月は二つに分かれ竜の目に変わりました。竜が僕に尋ねたのです。まだ生きていたいか、と」

 「そして生きると答えた?」ギリヤは思いがけず真剣な表情になり、エトに尋ねた。

 「はい」

 「そんなことがありえるのか?」カデッサは眉間に深く皺を寄せ手近な椅子を蹴飛ばした。信じられんとうなりながらもエトの話をただの夢と片付けるつもりはなさそうだった。

 「現にエトはこうして生きている」

 「だがなぜ竜が小僧を生かす?」カデッサの関心は、エトの見た夢というよりも、竜の問いに向いていた。

 「竜のすることだ、人の理解が及ぶはずもない。エト、お前はひょっとすると竜と契約を交わしたのかもしれない」

 「竜と?」エトは驚いた。死に損ないが見た夢の話に大の大人が真剣に耳を傾けている。そもそもエトは、一笑に付されるだろうと思いながらこの話を始めたのだ。

 「体に何か異変はないのか?」ギリヤは自身の手首を示しながら尋ねた。かつて焔の戦士として、焔の竜フォンリュウとの契約を示す刻印が刻まれた場所だ。

 「ありません。あれ以来、竜の夢も見ません」

 「契約とはな小僧、何かを差し出す代わりに、何かを得る行為を指すんだ。一方的に取り分を得る事なんざできやしない。小僧は生を得た。命を得たんだ!その代わりに差し出せるものがいったいどれほど考えられる?」カデッサは大仰に手をかざした。

 ギリヤが、カデッサの言葉を引き取った。

 「俺は焔の戦士となるためにフォンリュウにいくつかの記憶を差し出さなければならなかった。俺はそのせいで、一部の過去を今でも思い出せないでいる。そしてそれは、捧げた物のほんの一部にすぎない。アズライの都市では魔術師たちが、竜のアズライに生得の光を差し出すと噂されている。アズライの優れた魔術師たちがみな盲目であるとされるのはそのためだ。やつらは嵐を操るために片目をつぶし、星を動かす代わりに両の視力をも投げ出す。才能を秘めた赤子は、生まれた瞬間から目をつぶされる。奴らは狂っている。しかし竜との契約で得られる力はそれだけ強大だ。アズライの秘蔵する古書の記録では、古代都市群は大魔術師シャガと竜の契約から始まる。シャガは都市を地下より引き上げるために、四匹の竜と契約を結んだ。そしてその代償として、シャガの魂は千年の獄に繋がれたという」

 ギリヤは、エトの瞳をのぞき込んだ。

 「命を得る代わりに、お前は何を捧げた?」ギリヤは、エトが実際に竜と契約を交わしたと確信していた。そうでなければ、今回の出来事は説明ができないことが多すぎる。

 ギリヤは、自身が竜との契約に縛られた生涯を送ってきただけあって、慎重になっていた。彼が恐れたのは、エトが万が一にも結んだ契約の代償をいったい誰が払うのかという点にあった。得た者に対して、捧げる者が一人だとはかぎらない。

 「ちょっと待ってください」ギリヤの決めつけに、エトはたじろいだ。「僕は竜と契約を交わしたつもりはありません。考えてもみてください。隣村のことすらわからない田舎者からいったい何を得ることができると言うんです?」

 「さあな。さっきも言ったろう、竜の望みは人の理解をこえる」ギリヤは冷たく言い放った。

 「それに……」エトはめげなかった。

 「イーンの竜はもう死んでいるんでしょう!」

 その声は思いがけず、食堂中に響き渡った。

 皆がエトに注目した。

 カデッサが大口を開いて下劣に笑った。

 「俺たちはそれを確かめるために、砂を喰らいながらここまで来たんだ」カデッサは、小さな椅子から体を引きはがすように立ち上がり、食堂を見回した。

 「そろそろ始めるとするか」

 食堂には会合の参加者がひっそりと集まり続けていた。集まった人の格好はまちまちで、食堂の様子だけでは、この場が油人区にあるとはとても思えなかった。油人区で見慣れた油染みだらけの作業着を身につけた者もいれば、政治区の役人と思しき身奇麗な格好をした者もいた。市場通りを闊歩する生活区民はあたりまえで、露天商、水売り、ファの世話人がそこに加えられた。格好だけみれば、イーンの各区域から集まって来たと考えるのが妥当なところだが、実際のところ、都市すらも越えて様々な人種が集っていた。エトの知るかぎり、ギリヤはフォンリュウの出身であり、カデッサは富の都市セオの生まれだと豪語している。エト自身はセオの辺境に位置する村の出で、ここイーンを加えるとそれだけでも四つの地域の人間がこの食堂に集っていることになる。地理的に孤立し、周囲との交易がまるでないイーンにとって、この場の光景は特別でありすぎた。

 「さあ諸君、よく集まってくれたな」

 皆の視線がカデッサに集まった。食堂からざわめきが消え、動くものは料理から立ち上る湯気だけとなった。リシアが厨房から現れて、カデッサの下へと歩み寄った。

 「手伝いの者は皆帰らせました」リシアはそうカデッサに告げると、食堂の隅に移動し腰を落ち着けた。

 カデッサは慇懃にうなずくと、儀礼的に咳払いをした。

 「初めましての連中もいるだろうが、挨拶は省くことにしよう。俺たちは砂漠の隊商として集まり、旧交を温め、騒ぎ、飲み食いし、明日からは再び赤の他人となるべく別れよう。こんなことはこれで最後になるだろう。なんたって俺たちは、この都市でちょっとばかし目立ちすぎる」

 幾人がくつくつと笑ったが、大半の者は真剣な面持ちでカデッサの話に耳を傾けていた。格別愉快に振る舞うのはエトもよく知る砂漠の隊商員たちで、ギリヤももちろんその一人だった。

 「それでもだ」カデッサは話を続けた。「俺たちは一度だけ集まらなくてはならなかった。この数年というもの、俺たちは互いに知り合うことなく個々に動いてきた。万全な準備のためだ。そして、その仕込みは今日をもって終わりだ。明日からは積極的に動き出す」

 「砂ネズミのようにか?」隊商の一人が陽気に言った。

 「あらゆる獰猛な獣のようにだ」とカデッサは返した。「計画の一部を話そう。俺たちが互いに仲間だと思える程度に。そして、あらゆる拷問に対して内容のない答えを返せる程度に。俺たちはこの都市に竜の死の秘密を探りにきた。イーンの竜が死んだにもかかわらず、この都市の土が肥沃なままであるのはどうしたことか。竜の死を伝え聞いたとき、誰もがこう思ったはずだ。イーンはもう終わりだと。竜の力なくして、この世界で生きられるだろうか。辺境に散らばる蛮族のように?あいつらはすえた匂いの水をすすり、痩せた木の根をかじるだけだ。そして、この都市に暮らす者たちもそうなるはずだった」カデッサは、一人一人の視線を受け止めるようにして食堂を見回した。

 「しかし、そうはならなかった。なぜだ?この土地が元々、大地の力の強い場所であったと主張する連中も一部にはいる。肥沃な土の匂いを嗅ぎ、むしろ竜の方がやってきたのだと。しかし、この都市一帯を囲む砂漠を眺めてもそう言えるだろうか。都市の石畳を一歩踏み出すだけで、すべてが砂に変じるこの世界を見ても?東の古代都市群に暮らす者は知っているはずだ。フォンリュウの憤怒により干からびた土地のひとつを。セオの気まぐれにより枯れた湖を。ペネリネが実らせた人を狂わす果実を」カデッサの演説には過剰な熱がこもっていた。聴衆から、にやにや笑いが消えた。エトは場の雰囲気に酔い、昂揚した。

 「俺たちは竜に生かされてきた。都市で暮らす者に例外はない。誰もが一度は思ったことだろう。竜のいない土地で、生活をやり直してみたいと。少なくともこの場にいる連中は、そう望んだことがあるはずだ。竜を忌む者たちよ、今こそ竜の死の秘密を探り出し、故郷に持ち帰ろう。イーンの秘密を暴き、兄弟たちと分かち合おう」カデッサは杯を片手で掲げた。

 「大地に住まう竜に感謝を」カデッサは片手のまま杯を飲み干した。

 「永遠の豊穣を」皆が唱和を返した。誰もが杯を片手でつかんでいる。竜の祈りの挨拶は杯を両手でつかむものだとエトは学んでいた。竜に対して、両の手で支え、捧げるのだ。片手では不敬にあたる。エトは、リシアまでもが食堂の片隅で片手で杯を飲み干したことに驚きを覚えた。

 「さて、簡単な報告をしよう。残念なことに皆から伝えられた情報を集めたところで、結局何もわかりはしなかった」とカデッサはいつもの荒っぽい声で言った。「竜の死はその事実だけをもって、厳重に秘匿されている。生活圏にいる人間は言わずもがな、イーンの政治区に潜り込んだ連中からもたいした報告は上がっていない」

 「守られていると言うよりも、誰も事実を知らないと言った方が正しいかもわかりません」頭からぼろ布をかぶった男が立ち上がった。エトは布地の隙間から、政治人であることを示す胸飾りを見た気がした。

 「せいぜい耳にするのは、賢主グムトの片腕である教主のホロが力を貸したのだという噂くらいです。ご存じのとおり、教主は祭司連中の長で、魔術師でもあります。ホロは魔法の力を用いて、グムトと共に竜の死に立ち会い、大地の力を引き継いだと言うのです。しかしその程度の噂は、生活区の間にさえ流布しています。竜が死んだ日に関する証言は、むしろ生活区の方が多いです。政治人たちは快適な塔の内壁にへばりつきですから」

 「生活区で語られる話はもっと役に立たないさ」腰回りに飾り紐を巻き付けた若者が応えた。市場通りでよく見かける姿だ。

 「話のすべてに尾ひれがひっついてる。最近では話の内容は決まりきって、愚者のように同じことしかしゃべらない。竜の死を知らせる星。逆転する太陽。都市の外れから光の柱が立ち上り、まだ昼だというのに夜が訪れた――詩人たちがそう歌い始めるのを聞いたことがあるでしょう?」

 若者がしゃべり終えると皆が口々に自分の知る情報を語り始めたが、その内容はどれも似たり寄ったりで、カデッサが始めに宣言したように、どれだけ報告を聞いたところで、はっきりと道筋が立つ情報はなかった。それでも会場は沸騰した。皆、言いたいことを言いたいようにしゃべり出した。カデッサは止めなかった。かといって各々の言葉に耳を傾ける様子もなく、目の前に並ぶ冷めかけの料理をうまそうにつついていた。

 「隊長殿が求められている報告は私らのものでしょうな」会場が落ち着きをみせた頃合いを見計らい、一人の老人が立ち上がった。その老人は、この場にいる誰よりも不潔な身なりをしていて、そのせいか周りには人が寄りついていなかった。

 「あなたの話を待ちわびていましたよ、魔術師ウェナリア」カデッサはその老人に恭しく頭を下げた。

 「あんたをがっかりさせたくはないが、結論から言うと私らは何もつかめなかった」老人はぼりぼりと頭をかいた。「始め、私らは教導舎に潜り込むことはそう難しくなかろうとたかをくくっておった。それは、まあ、間違いではない。手始めに様子見に出した私の弟子はすんなりと教導舎に入舎することを許された。我が弟子ながら優秀な者だったのでね、それも当然のことでしょう」魔術師は話を中断し、煩わしそうに首下をかいた。「いろんな虫がすくっているのでな」

 魔術師を囲む幾人かは、その仕草に露骨に顔をしかめた。目の前の小汚い老人が本物の魔術師だと信じられないのだ。イーンでは、魔術師は魔術師である前に教導舎に務める祭司であることを求められる。祭司であるからには当然服装も立派な物を身につけていた。だがエトにとって魔術師は、水族の村を訪れる風袋の怪しい連中を指していた。イーンで見かける魔術師たちこそが身綺麗でありすぎるように感じられていたので、目の前にいる老人の方が、よほど魔術師らしく見えた。

 「十日経っても弟子からの報告は届きませんでした。まだ探りを入れる前のこと、取り急ぎ簡単な報告をもらうはずだったのです。十一日目、私のもとを訪れたのは弟子の影でした。いや、イーンの教導舎が使役する影どもに飲み込まれた哀れな弟子の欠片に過ぎませぬ。影は息するように言葉を吐き出し続けます。私の下を訪れた弟子の影は、ホロからの言づてを口から漏らし続けておりました。影に言葉を覚えさせることはできませなんだ。都合の良いことを語らせるには、生前強烈な刷り込みを行わなくてはなりません。簡単なやり方はその心を壊し、空っぽの器に新たな言葉を注ぐことです。酷なことをしおる。

 弟子を送り込んだことは間違いでした。私はホロの力を見誤っていたのです。影を退ける事もできましたが、その後やって来るであろうホロの実体と対峙することは賢明ではありますまい。ホロに囚われれば最後、私らの計画は水泡に帰していたことでしょう。私は逃げ出し、身を隠すことを選びました」

 「どうしてホロはあなたの弟子を見抜くことができたのでしょう?」

 「ホロはどうやら教導舎にやってくる者すべてに心読みの術を掛けていたようです。私は弟子に心読みの術に抗う術を授けていましたが、ホロの力はそれを遥かに上回っていたようです。幸い、弟子は計画の全容を知りませんでした。私が教えなかったのです。弟子が読まれた心は恐らく、竜の死を探る魔術師が他にもいるということくらいでしょう」

 「その程度ならば問題ありますまい。竜の死の秘密は今やイーンの地に眠る宝。我々の他にも興味を抱く連中はさぞや多いことでしょう」

 「いやしかし、私が隠れたことで計画は漏れませんでしたが教導舎の警戒を強めてしまったのです。時を見て探りを入れてみましたが、教導舎から盗める物は何もありませんでした。教導舎の祭司連中は、魔術都市アズライの学童程度の力しか持ちませんが、ホロは別です。あれほどの者が、いったいどうして名を潜めていられたのか不思議でなりません」

 ウェナリアは遠く虚空をにらんだ。

 「アズライには六人のファラがおります。それぞれが偉大な魔術師であり、当世最高の魔術師であることを表す、ラ・ファラ・フゥウラの称号を持っています。エトナ期の古語で竜を殺す者という意味です。実際に竜を殺した者がいるわけではありません。竜を殺せるほどの力を持つと目されている者たちです。魔術師の都アズライにたった六人です。世界の広さに対して多すぎるようにも少なすぎるようにも感じられます。ホロがファラに匹敵する力の持ち主であったとしてもおかしくはないでしょう。私らはあまりに長くアズライの学舎に閉じ籠もって参りました。アズライの書庫は広大で、うず高く積み上がる知の塔をわずかに崩すだけで、人の短い生涯が終わりを迎えます。目の前の深淵を熱心に覗き込むばかり、辺境に目を向ける者はおりませなんだ」ウェナリアはにんまりと笑みを作った。気がつくと先ほどまで彼を蔑視していた者たちが熱心に耳を傾けている。

 「やはり竜が人の手によって殺されたという噂は本当なのでしょうか?」カデッサの慇懃な態度が、場の空気に一層の重みを加えた。

 「ファラの力をもってしても竜を殺すことは難しかろうと私らは考えます。それだけ竜の力は強大なのです。万にひとつの可能性があるとすれば、そこにおられる者のように、竜の力を身に宿した者だけでしょう」

 ウェナリアの向く先に皆の視線が集まった。

 「何のことだい、爺さん」ギリヤはウェナリアを胡散臭げに見やった。

 「焔竜に最も愛された戦士がフォンリュウの都市を離れたと風の噂に聞きました。都市はひた隠しにしておりますが、焔竜の護り人のうち半数が、その者の手により殺されたと耳にしております。焔竜の護り人と言えば、東の古代都市群で最強の戦士であることはまず間違いないでしょう」

 「そうすると、護り人を殺したそいつは古代都市群で一番強い男になる」ギリヤは鼻で笑った。「そんな男が、各地でせこせこ物を集めては、少しでも高く売りつけることができますようにと祈るような生活を送ったりするか?」

 「違いねぇ。こいつが一番なのは、物を売るのがへたくそなことだけさ」隊商員の一人がはやし立てると、ギリヤと旧知の者は皆げらげらと声を上げて笑った。

 ウェナリアはギリヤをじっと見つめた。

 「器と、そこに注がれし力がどのような作用を及ぼすものか誰にもわかりません。偉大なファラの一人でさえ時には物売りとして世を渡り歩いたことがございます。私の知るところによりますと、炎竜より分け与えられし血が、その者に強大な力を授けました。その者がどのように身を潜めようとも、力を隠し続けることは難しいでしょう」

 「俺は知らんと言っているんだ」ギリヤはおもむろに立ち上がると、腰に帯びた剣に手を掛けた。

 潮が引くように食堂から笑いが消えた。

 誰かが手を滑らせた食器が盛大な音を立てて床に落ちた。

 ギリヤが構えると、洋燈の炎が激しく揺れた。

 エトには、そのように見えた。

 カデッサが無言で机を叩いた。

 ギリヤは剣の束から手を離すと、冗談であることを示すように大げさに両の手を広げてみせたが、ウェナリアから目をそらそうとしなかった。

 「背筋の凍る思いをいたしました」ウェナリアは飄々と言った。

 カデッサはわざとらしく咳払いをした。

 「話をホロに戻してくだされ、魔術師ウェナリア。ホロに竜を殺せた可能性もまだ残っているのでしょう?」

 「可能性はごさいます。ただ、問題はホロに竜を殺すことができたとて、イーンを恵みのまま維持することは決してできないということです。竜が死ねば大地が死ぬ。それは避けようもない摂理なのです。大地を富ますことは、人の力を優に越えている。アズライの歴代のファラたちでさえ、そのような力を手にすることはついぞ叶いませなんだ」

 「魔術師のホロから秘密を盗むのはさぞや大変だろう」カデッサは腕組みをし、頭を大きく仰向けた。

 「しかし、やりおるのでしょう?」ウェナリアはおもむろに立ち上がった。

 「もう後には引けん」カデッサは皆に向けて言った。食堂がしんと静まりかえった。空気がぴりつくのをエトは肌で感じることができた。

 「魔術師ウェナリア、改めてあなたの御力をお貸し願いたい」カデッサは再び、老魔術師に頭を下げた。

 「ふぉっふぉふぉ……」

 ウェナリアが突然、この場に似つかわしくない笑い声を上げたので、皆ぎょっとした。

 「私の下にお客が来るようだ、カデッサ隊長」

 「客人……ですか?」カデッサはちらと表扉に視線をくれたが、何者かが訪れた気配はまるでなかった。

 ギリアと数人の男が立ち上がり、辺りはにわかに殺気だった。

 「落ち着きなさいませ」ウェナリアは微動だにしなかった。

 「客人は私の体の方を訪れて参ります。この影ではなくね」 

 ウェナリアの体が、すっくと大きくなった。

 いや、大きくなったのは影の方だ。

 顔が黒ずみ、みるみる影と一体化していく。

 瞳だけが爛々と輝いて、眩い光を発したと思うと、次の瞬間には瞳さえも影に飲まれた。

 「ホロの放った影が、私の体を見つけたようです。影の頭がこちらを向き、魔法の匂いを嗅ぎ回っております。やつらにとって魔法は糧。間もなく影どもは、飢えた獣の群れのごとく私の体に押し寄せることでしょう。その中に私の弟子が混じりおるのが、哀れでなりませぬ」

 「この場は無事でしょうか」カデッサは努めて冷静な声で尋ねた。

 ウェナリアはぼんやりとした影の顔で口が裂けて見えるほど笑った。

 「元々は弟子の不手際、無事であるよう尽力いたしましょう。私とてアズライの魔術師、影の扱いくらい心得ておりますじゃ。影たちを連れてイーンから遠ざかりましょう。私は戻らんでしょうが、影もまたしばらく戻らんでしょうて、それを我々の契約の答えとしてもらいたい」

 「かしこまった」カデッサはうめくように答えた。

 「息災でな、皆の者。竜の加護のあらんことを」

 ウェナリアの体が破裂し、濃密な影が食堂を覆い尽くした。

 食堂からあらゆる光が消えた。

 ごうごうとおぞましい音が食堂中にこだまする。

 吹き荒れる嵐よりも、濁流の渦巻く流れよりも、恐ろしい音がした。

 ふいに、静寂が訪れる。

 破裂音。

 次の瞬間には魔術師の体が元あった場所めがけて、すべての影が吸いこまれていった。

 そして、魔術師の姿が消えた。

 会場のどよめきは消えなかった。皆、どのように対処すれば良いのかわからなかったのだ。ギリヤを筆頭に戦士たちだけが、ほっとしたように自分の席に戻っていく。

 会合をすぐに再開できる雰囲気ではなかった。カデッサは苦虫をかみつぶしたような顔で考えにふけっている。リシアだけが、ひっくり返った机や散らばった料理なんかを片付けていた。エトは遅れて彼女の手伝いに動いた。

 「さあ、再開しようか」とカデッサが口を開いたのはしばらく時間が経った後だった。

 食堂の机は中央に集められ、会場は小さくまとまっていた。片付けはすんでいた。リシアがいくつかの料理を暖め直してくれたが、料理の減りは遅かった。

 「どうやら魔術師の力を借りることはできなくなったようだ。いや、俺たちのあずかり知らぬところで、事は起こっているのだろう」

 「魔術師なしで、どうしようっていうんです?」席の後ろの方から怯えた声が聞こえる。そうだそうだと幾人かが同調した。

 「俺たちの目的は何もホロを殺すことじゃない。ウェナリア老がホロの目を惹きつけていてくれるのなら結構じゃねぇか。その間に俺たちはうまく事を運べばいい」

 カデッサは気楽に言ってのけたが、会場のどよめきは消えなかった。

 「いいだろう、計画の詳細を共有しよう」

 「隊長」ギリヤはとがめるような視線をカデッサに向けた。

 カデッサは片手でギリヤを制した。

 「どのみちホロのような魔術師が付いているのならば、隠し事などするだけ無駄だ。俺たちは素早く事を運び、この都市から逃げ出さなくてはならない。そのことを前提に皆に話そう。今回の件は、この場に集まった者たちだけで行うのではない。市井に潜伏を続けている仲間のことだけを言っているのではないぞ。東の古代都市の連合軍が、砂漠の隠れ家で時節を待っている。フォンリュウとセオは生え抜きの将を百人規模の戦士たちと共に送り出してくれた。ペネリネからも珍しく森の戦士たちが参戦している。アズライの魔術師たちは影付きの獣どもを使役して様子をうかがっている。いざとなれば力を貸してくれるだろう」カデッサは口ひげをつかみ、にたりと笑った。「どの都市も竜の死に興味を抑えることなどできないのだ。俺たちはただ、竜の死の秘密を探り出せばいい。すると砂漠を越えて大勢の仲間たちが秘密の指し示す物を奪いに参じるという手はずだ」

 皆が感嘆の声を上げた。食堂に張り詰めていた緊張が和らいだ。カデッサのもたらした情報は、皆の不安を払拭するに足るものであった。ホロの率いる教導舎の魔術師はたしかに恐ろしい連中だが、こちらにも魔術師の一群が付いているのならば話は別だ。辺境の魔術師風情など、アズライの正統な魔術師たちが返り討ちにしてくれることだろう。すると、イーンに残る脅威はいかほどの物になろう。周囲を砂に囲われたこの都市は、天然の防備に甘んじて、ろくな軍備を持たない。いかに地の利があろうとも、東の各都市が有する精鋭たちを相手にしてはひとたまりもない。西の外れの辺境都市など、どうして恐れる必要がある。

 先ほどまでの不安を忘れたいむきもあり、会場は途端に騒がしくなった。皆が明るい表情を取り戻していくなか、エトの表情だけが硬かった。

 イーンに攻め込む?

 エトはカデッサの話が信じられなかった。それはエトがこの計画を持ちかけられた説明とはまるで違う。――僕たちはイーンの秘密を見聞きし、その知識を持ち帰るだけだったはずだ。その途上で血が流されることもあるかもしれない。でも、多勢で攻め込むのとは訳が違う。それでは侵略じゃないか。

 弱気な考えを一人で持つにはいたたまれず、エトはぽつりと部屋の隅に座るリシアに目を向けた。リシアは騒ぎ立てる人々の方を向き、静かにその様子を見つめていたが、口元を真一文字に引き結んだ表情からはどのような感情も読み取ることができなかった。

 「ギリヤ、お前の報告をひとつ皆と共有してくれ」カデッサはギリヤを指名した。ウェナリアの消失などなかったかのように、皆の視線は力強くギリヤに集まった。

 ギリヤはふらりと立ち上がった。天井の灯りがギリヤの影を黒い炎のように揺らした。

 「俺の出はフォンリュウだが、故あって故郷を離れ、ちょっとばかしセオの大穴で働いた時期がある。セオでは、油の代わりに古代の遺物が発掘される。遺物のほとんどが役にも立たない代物だが、希にとんでもないお宝が出土する。セオは交易都市と言われているが、交易などやらなくても、再生された遺物の取引だけで十二分に都市を維持できる。発掘人は土竜と呼ばれている。土竜たちは自分たちの大穴をいっぱしに竜の巣と呼ぶんだ。竜が土に潜るところを見たことがあるか?」

 ギリヤの問いに皆が笑いをもらした。エトは竜の知識が薄かったが、空を飛ぶと聞くだけあって、土に潜ったりはしないのだろうと思った。

 「朝までに本題に入ってくれるんだろうな?」ギリヤと仲の良い隊商の男がはやし立てた。

 「慌てるな、最後にはまとまるよ」ギリヤは指先で手のひらをぱちりと打った。

 「だといいが」男がそう言うと、皆どっと笑った。エトには皆が無理をして笑っているように感じられた。

 ギリヤの話が続いた。

 「セオの大穴では遺物の他に、不思議な空間が見つかることがある。そのほとんどが深度二千を超える超深度層からだ。セオの大穴はイーンの穴よりも遥かに深い。その深さのために発掘の速度は年々落ちているが、地に眠る遺物は未だに掘り尽くされることはない。

 俺は半日以上かけて超深度層まで下りていった。想像できるか?穴の底では闇がねばっこい重さを持つんだ。妙に息苦しく、喉が渇く。灯りは常に灯っているが、光では拭えぬ闇が巣くう。超深度は人を選ぶ。発掘作業に慣れている人間でもいつ発狂するかわからない。そんな地の底を掘り進めていると、ときおりぽっかりと何もない空間に出くわす。ただの空洞ならむしろめっけもんだ。古代の構造体が穿った空間であり、その場所には数多くの遺物が眠っているからだ。

 でもな、俺がこれから話す場所は、それとは違う場所のことだ。陽がまったくあたらないというのに、その場所では見たこともない種類の植物が繁茂し、飲料可能な水が湧き出て、新鮮な空気まである。信じられないって顔をしてるな。しかしそれは現実に存在する場所だ。ただ、金にならないってだけでそう騒がれもしないだけだ」ギリヤは、話に口を挟もうとする男を指さしで制した。

 「地下の森を土竜たちは大切にする。それはそうだろう。水も空気もあって、地の底で一息つけるのだから。しかし土竜たちは、それだけ便利な場所であるにも関わらず地下の森を発掘の拠点にはしない。ただ立ち寄り、ほんの少しの恵みを受けるだけだ。当然俺は尋ねたさ、なぜこの場所をもっと活用しないのかと。土竜たちの答えはこうだ。竜の祟りに触れたくはない」

 「竜の祟り?」誰かがつぶやいた。

 「そうだ。聞けば、地下の森には太古の竜の遺骸が眠っているという。大昔、土竜たちは地下の森を掘り返し、その場で竜の骨を見つけた。土竜たちの意見はふたつに割れた。竜の死の眠る場所に人が立ち寄るべきではないと言って、その場から大人しく立ち去ることを主張した者たちと、竜は大地に還ったのだと見なし、その恩恵を賜ろうとした者たちだ。ふたつの意見の相違は、竜の死にあった。竜の死を不吉なものとして捉えるか、大地の摂理に適う正常な営みと捉えるかだ。

 土竜たちが意見を戦わせて、地下では二日が経った。すると、一人、また一人とおかしな振る舞いをする人間が出てきた。人であることを忘れ、まるで赤子や獣を思わせる退行を示すのだという。最初、土竜たちは、超深度に長く居すぎたせいなのだと、自分たちを納得させようとした。でも、自分たちが年中土の中に潜る土竜であることを自覚しない人間はいなかった。発掘人の三人に一人がおかしくなった時、土竜たちは急いで地上に上がった。地上に上がるまでに、幾人かが新たに、人であることをやめた。そして運良く地上に上がってこられた者たちは、離心病に掛かり死んでしまった。それで、竜の祟りというわけさ」ギリヤはそこで話をやめると、ぐいと杯をあおった。ギリヤは一向に話を続ける素振りを見せなかった。

 「終わりかよ?」たまりかねて男が尋ねた。

 「ああ」ギリヤはそう答えると眠たそうに目元をこすった。

 「忘我の森……」エトは思わず口に出していた。

 「そうだ」ギリヤはエトを見て、感心したように頷いた。

 「忘我の森ってなんだ?」男がぼやいた。

 食堂にいる大半の人間がぴんときていなかった。カデッサでさえ首をひねった。

 ギリヤに目で促され、エトは皆に向かって説明をした。

 「油人区には忘我の森と呼ばれる、禁忌の森があります。森の木々や植物は、育ちが良いだけでなく、普段目にすることがない種類のものばかり生えているそうです。噂では、混じりけのない綺麗な水が渾々と湧き出る泉すらあるそうです。ところが森の周囲には草ひとつ生えていません。砂と、岩と、大穴の残土が渇いた土地を作り出しています。

 油衆の人間は誰一人その森に近づこうとしません。その森を利用しさえすれば、地表の世話になることも少なくなるというのにです。森は、油人たちにとって近寄りがたい場所なのです。森に近寄ると気を狂わすと言い伝えられており、油人たちはそのことを信じています」

 「そしてちょうど森の真下と思しき場所の立ち入りが、竜の死から禁じられている」ギリヤが言葉をついだ。

 「それで決まりじゃねぇか」男が言い、皆が口々にそのようなことをつぶやきあった。

 「まだなにも決まっちゃいないさ。油人区の土地に人を狂わすおかしな森があって、その地下が立ち入り禁止になっているというだけだ。その程度の怪異なら、どの都市でも三つか四つ見つかる」

 「だが、その場所が怪しいとにらんでいるんだろう?」

 「調べる価値はある。フォンリュウの寝床がオガフの峻厳な岩山の上にあると知る者は多いだろう。しかし、その山の頂に庭園が存在することを知る者はそう多くないはずだ。本来高地ではまともな草木が育たない。ところがフォンリュウの庭園では、平野で見かけるごく普通の植物ですら立派な花を付ける。フォンリュウは庭園の奥地に人を立ち入らせない。それは、焔竜の護り人という例外を除けば、焔の戦士でも同じことだ。それだけ神聖な領域というわけさ」

 「それならまずは森を調べてみるのが早いんじゃないか?」

 「実は、もう森は調べてある。だが、森では俺の期待している物は見つからなかった」

 「なるほど。お前の頭がおかしいのは、森に潜り込んだせいだな」と誰かがはやし立てた。

 「俺の頭が狂っているのは、フォンリュウが多くを奪っていったせいだ」ギリヤは心底愉快そうに笑い声を上げた。竜の名を語る軽口を、ギリヤと同じくらい楽しめている人物はカデッサくらいしかいなかった。

 「何にせよ森の地下は俺たちが探りを入れはじめて、ようやくつかんだ手がかりらしい手がかりだ。教導舎に潜り込みホロと対峙するよりは、よほど楽だろう」

 会場のそこかしこで、議論が巻き起こった。森の存在は竜の死とは関係がない、もっと慎重になるべきだと主張する者がいる一方、概ねの意見は、森の地下を徹底的に調査する方向でまとまっていた。長い潜伏期間を経てようやく調査の目処が立ったのだ。皆の表情は一様に明るかった。しかしエトの顔色は優れなかった。頭の片隅には、カデッサが協力を請け合った各都市の援軍のことがあった。そのことがエトの気を重くし、計画の進展を素直に喜ぶ気持ちを遠ざけていた。

 「でもよ、ギリヤ。森の地下にはいったい何があるって言うんだ?調べは付いているんだろう。もったいぶらずに教えろよ」

 「葬儀穴と呼ばれる油人たちの聖域がある。油人は油事故による死体をその場所に放り込む。何でも、油で固まった死体でも葬儀穴に投げ込むだけで綺麗に土に還るらしい。油人たちは、葬儀穴を畏れ大事にしているが、そのことを尋ねると口をつぐんでしまう。誰一人として葬儀穴の詳細を知る者はいないんだ。葬儀穴の深奥を覗くと果てると言い伝えられている。忘我の森と似たような禁忌が葬儀穴にも存在すると言うわけさ」

 「葬儀穴だ?」お調子者の男がにたにた笑いを浮かべながら言った。「今日も、ちょうど死人が出たのを知っているか?大穴に潜っていたやつは警報を聞いたはずだ。でもよ葬儀穴が使えねえ今、どうやって死体を処理してんだ。石像として部屋にでも飾るのか?」

 男の言葉に会場がどっと沸いた。心ない一言にエトの心は怒りで燃え上がった。祈りを唱えるヴィノの真剣な表情が頭に浮かんだ。知らず、拳が強く握られていた。ここに集まる連中は、イーンを踏みにじろうとしているのではないか?そんな疑いがエトの心に芽生えた。

 「エト、こっちに来い」カデッサが議論の熱気に紛れてひっそりとやってきた。エトは、不遜な心の内を読まれたのだと身をすくめながら食堂の外れに移動した。

 「隊長、僕は……」

 「ほらこれを持て」カデッサはエトの落ち着かない様子などお構いなしに、封筒の束を押しつけた。

 「会場から去る者にその封筒を渡せ」

 「これを?」エトは封筒のひとつを子細に眺めた。何の変哲もない布織りの封筒で、中には金属の小片のような物が入っている。

 「それ自体にはなんの仕掛けもない。ただの活動資金だ」カデッサは片方の眉をつり上げた。「仕掛けはお前自身だ小僧。封筒を手渡す際に相手の心を読め」

 カデッサはエトの人の心に触れる力を知っていた。まさにその力のために、エトを辺境の村から連れ出したのだ。

 「僕が知ることができるのは、心の――その、漠然とした色のようなものです」エトは言い訳がましく言った。力を使って人の心を探るのは心底嫌だったからだ。

 「それで十分だ。俺が知りたいのは、そいつが何を考えているかってことじゃねぇ。裏切りの気持ちを持っているかどうかだ。心に濁りのあるやつを見つけたらギリヤに目で合図を送れ」カデッサはエトの頭をつかむとがっと揺すぶった。

 「お前がこの場にいる理由を思い出せ」

 答える間もなく、カデッサは去って行った。エトは片方の手袋を外し、小袋に突っ込んだ。手は汗ばんでいた。食堂の出口に向かいながら、エトは順繰りに会場にいる人の顔を見回していった。彼らが何を思っているのか、当然ながらその顔を見やるだけでは少しもわからなかった。

 「今日はこれで終いだ」カデッサが皆に宣言した。最後の演説が述べられる。

 「――小僧から封筒を受け取って帰ってくれ。わずかだが、金が入っている」

 席の近い者から順番に立ち上がり、出口に向かった。あれだけ大いに飲み食いし、大騒ぎをしていたくせに、足取りはしっかりしている。彼らは本物なのだ、とエトは思った。

 エトはやってくる者に封筒を手渡し、共に竜の死の秘密を探りましょうと言いながら手を差し伸べた。彼らはエトの手を握り返し、各々返事をつぶやいて去った。エトの耳に言葉は何ひとつ入ってこなかった。手のひら越しに伝わる感情の波に頭の中が占拠されていた。エトの言葉に反応した相手の心は、花のようにひとつふたつの想いを咲かせ、水に溶け込む絵の具のようにエトの心に広がった。色はひとつの心を別の心と分ける差異に過ぎなかった。感情の様子はむしろ熱のように伝わった。

 代わるがわる押し寄せる感情の波に吐き気を催しながら、エトは忠実に任務をこなしていった。気がつくとギリヤが対面に立ち、様子をうかがっていた。ほとんどの者が、エトの言葉に対して昂揚した想いを返した。彼らは真実、竜の死の秘密を探る気でいた。中には不安を覗かせる者もいたが、それは魔術師や計画そのものに対する不安の表れであり、裏切りを意図したものではなかった。

 このまま何事もなく終わればいい。エトは残された余力の内で考えたが、迷う心が肌を伝った。エトはその人物に笑顔を返しつつ、ギリヤに目配せを送った。ギリヤは仲間に声を掛けて、何事かを手配した。疑わしいと判を押した者がどうなるのか、考えたくもなかった。

 エトはすべての参加者を送り出し、その心の内を読んだ。食堂には、カデッサとギリヤ、そして古くからの隊商員二人と、リシアしか残っていなかった。エトはふらつく頭を抱えながら、席に着こうと足を踏み出した。しかしエトの足は宙を蹴り、大穴へと落下する木っ端のように力なく倒れ込んだ。

 

 寝台で目を覚ますと空がもう白んでいた。ギリヤあたりが運び込んでくれたのだろう。上着こそ脱がされていたが、身につけている衣服は昨日のままだった。体からすえた匂いがした。枕下には短剣が置いてあった。竜を模した細工の溝には黒く渇いた血がこびりついていたが、表面は依然としてすべすべと滑らかだった。短剣に伸ばしかけた手をエトはすんでのところで引っ込めた。短剣の象徴する力が急に恐ろしく感じられた。

 エトは肌着だけ着替えると階下に降りていった。喉がからからに渇いていた。

 食堂はすでに片付けられ、表扉が換気代わりに隙間を空けていた。砂混じりの風が吹き込み、朝の光がするどい線を描いていた。エトは光の線をまたいだ先に誰かが座りこんでいるのを見つけた。

 「あら、早いのねエト」リシアは、部屋の薄暗い場所に一人座っていた。断崖に遮られ、まだ陽の光が十分に届いていない。

 「おはようございますリシアさん」エトは一瞬迷ったが、リシアの対面に座り、水差しから水をついだ。

 「僕は昨日倒れたみたいですね」

 「男手が残っていたから上まで運んでもらったの。そんなになるまで飲んでいたの?」

 「いいえ」エトは首を振った。

 「そうよね」リシアはエトの方を見ずに答えた。

 エトは水と一緒に言葉を飲み込み、また水を足した。リシアは口をつぐんでいた。早くこちらの側にも朝の光が届けばいいのにとエトはまだ薄暗い窓辺をちらちらと見やった。

 「あなた、昨日何をしていたの?」リシアはまだ顔を伏せていた。

 「昨日?」

 「何か、やらされていたのでしょう?隊長さんと相談しているのが見えたわ。その後、あなたは倒れた。何かあると思うのが普通じゃない?もっとも、会の途中からあなたの具合はずっと悪そうだったけれど」リシアはようやく顔を上げた。ぱっと朝日が窓から差し込み、逆光に飲まれたリシアの表情をエトは見ることができなかった。

 「あまり無理をしないでね」リシアは母親のような声で言い、エトの手に自身の手を重ねた。エトはとっさに手を引っ込めた。杯がぐらぐらと回転し、持ちこたえた。

 「すみません」

 「いいのよ」リシアはおずおずと手を引いた。

 エトは手袋を外したままの素手をぎこちなく合わせた。

 「リシアさんはどうして昨日の会合に参加していたのですか?」

 「私にも水を一杯もらえるかしら……」

 エトはリシアに水の杯を手渡し、じっと待った。

 「ある日、賢主が都市のみんなを集めて、こう言ったの。竜は死んだって。でも心配する必要はないんだって。私たちは当然、戸惑ったわ。私の家族は竜信仰の信徒ではなかったけれど、竜の大地に生きる者としての自覚をきちんと持っていたもの。だから、いかに賢主の言うことでも私には信じられなかった。竜をなくして、今まで通り生きていけるとはとても思えなかった。そして、それは正しかった。その時にはまだ、息子も、夫も、兄も生きていたわ。私の愛する者たちが去って行ったのは竜が死んだ後なのよ」リシアは無理して笑みを浮かべた。その笑みが心の内を表していないことくらいエトにもわかった。

 「他の都市の竜がどんな具合なのか、私にはわからないわ。イーンはおろか油人区の外にすらあまり出掛けないんだもの。東の人は、竜は恐ろしいものだと思っているようね。外の商人なんかは、竜の名を呼ぶのも憚られるって、みんなそう言うから。でも、私たちの竜が私たちを傷付けたことは一度もなかった。そもそも竜は滅多に姿を現さなかったの。私が最後に竜を見たのは、ちょうどあなたと同じ年の頃。怖くはなかったわ。だって、空のずっと高いところを飛んでいただけなのだもの。エト、あなた竜を見たことがある?」

 「ないです」

 「東の竜もあまり姿を現さないの?」

 「僕の村には竜の名前ですら届きませんでしたから」

 「そう」リシアは曖昧な表情で頷き、手にした杯を指先で弄んだ。

 「私たちは年に一度、イーンに捧げるために竜の子を選ぶわ。でも、それだって古い習わしをなぞっているだけよ」

 「竜の子?」エトは心臓が脈打つ音を聞いた。

 「竜への捧げ物、生け贄よ。塔は毎年数人の子供を竜の子に選ぶの。竜の子は油人区からも生活区からも政治区からも、それに賢主の家族からだって選ばれる。竜の子に選ばれた子供たちは市場通りを練り歩き、塔に連れて行かれ、それから一年、外との接触の一切を断つの。一年後、塔から子供たちが元気一杯に飛び出してくると、大きく成長したように感じられたものだわ。竜の子を出した家には報償が与えられるから、迎える者たちの顔も晴ればれとしていてね。それのどこが生け贄なのかと、言いたそうな顔をしているわね。あなたの考えている通り、本当の意味で生け贄を捧げることなど今のイーンではありえない。それは、ただの祭事に過ぎないの。大昔は、実際にイーンに生け贄を捧げたと聞くわ。でもね、千度生け贄を捧げ、千度断られたとき、イーンに暮らす者たちは竜に人を捧げることをやめたのよ」

 「竜は生け贄を望まなかった?」

 「儀式を必要としていたのは、竜に生け贄を捧げる人間の方だったのでしょうね。遙か昔、まだこの地が無の砂漠の一部でしかなかった頃、竜がこの地を選んでも、土地はすぐに豊かにならなかったと言われているわ。長い年月をかけて、竜は大地を育んだの。

 ねえエト、竜が死んだと聞かされて私たちが喜んだと思う?私たちは竜のいる大地で生きてきたのよ。不足はなかったわ。むしろ多すぎたくらい。でも、竜が死んで、私は多くのものを失った。こんなのっておかしいでしょう。賢主と教主は、人が生きるのに竜は必要ないと言い張る。人の手により都市は生きる筋道を立てられるのだとみんなを鼓舞する。でも油衆の人間は少しずつ病に侵されていく。数年前には、離心病なんて言葉すらほとんど耳にしなかった。でも最近では、生活層の一層に一家族は離心病の患者を抱えている」

 リシアは、イーンの都市はなにもかもがおかしくなっていると言って涙を流した。

 エトは力を込めて握られたリシアの手に自分の手を重ねることができればと思ったが、できなかった。代わりにエトは、故郷の話をした。命の恩人であるリシアにすら、ちゃんと話をするのは初めてだった。

 「僕の生まれ育った村は、セオの外れにある小さな村でした。セオの出身だと僕は最初の日に語ったけれど、本当はセオを知りません。セオと僕の村がどれくらい離れているのか、まったくわかりません。僕には村がすべてでした。今の暮らしと比べると、決して素晴らしいと言える場所ではなかった。けれどもあの村こそが僕の唯一の居場所でした」エトは自分の手のひらを見て、ぐっと閉じた。手のひらは、採油仕事に汚れているとはいえ、水族の者特有の血の気の薄い色を留めていた。

 「水族の村には、村を横断する大きな川が流れていました。乳白色に濁った水は、ほんのりと光を放ち、とても柔らかく暖かに見えました。川底には<濁石アウモ>が沈んでいました。水族の人間は<濁石アウモ>の声を聞き、石の場所を探るのです。<濁石アウモ>は、都市の商人に引き取られ、生活の物資に代わりました。水や食料や衣服や、とにかく生活に必要となる物すべてにです。乳白に濁る水は、石の他に何も生み出さないものですから、<濁石アウモ>だけが村の生活を支えていました。

 川の水は強い毒を持っています。それは人の身体をゆっくりと蝕む毒です。だから村では、より長く水に浸かる者から死んでいきます。<濁石アウモ>を得るために、村人が捧げたものは命でした。彼らが捧げることのできた唯一の物です。その対価として得た物が十分であったとは僕にはとても思えません。少なくとも僕たちは飢えなかった。それでも、得た物に対して、差し出す物があまりに重いと今の僕なら考える事ができます」

 リシアはまっすぐにエトを見つめ、話を聞いていた。朝日が食堂をくまなく照らし、二人の姿を覆う薄闇は消えていた。

 「僕と母は村で孤立していました。母は村でただ一人、力を持たない人でした。村の外からやってきて父に嫁いだのです。僕は父の血を受け継ぎ、村人と同じように力を持って生まれました。でも、僕はどうしても川に入ることができず村人から認められることがありませんでした」

 リシアは口元を微妙にゆがめたが言葉を飲み込んだ。エトには、彼女が尋ねたいことがわかっていた。

 「川の水に触れるだけで、僕は気分を悪くしました。足先を水に浸けるだけで、目眩を覚えたほどです。水にはたくさんの心が溶け込んでいました。その心が肌を伝って僕の心になだれ込むのです。その感覚に僕はどうしても耐えることができなかった。もちろん水に慣れるための努力はしました。水桶に張った水で、母の手を借りて訓練をしたこともあります。川の水をくみ上げて、触れては離してみることを繰り返しました。水桶の水を通して母の心の内を感ずることは、時につらくもありましたが、暖かでした。しかし川の水からは混沌しか感じ取ることができません。それは大勢の人が水に浸かるせいでもありません。たしかに人の感情が重なり合うことはあまり良い影響を及ぼしません。頭の中がぐちゃぐちゃになるような気がします。それでも、皆の心が混ざり合うことで、自身の心も隠されるという慰めを得ることができます。大人たちはその方がいいとさえ思っていました。でも、あの乳白の水に隠された心はそれだけではないのです。

 川は、川独自の死を湛えていました。水に溶け込む死者の心が僕を苛むのです。しかし、そう訴えたところで、ついぞ村人の理解を得ることはできませんでした。誰も、そのような心を感ずることはないと言うのです。女たちは川上で、男たちは川下の水の深いところで石を拾い集めました。女たちを守るためだと村の男たちは言いましたが、村の女たちはずるい言い訳だと裏で男たちを罵ります。川に入ると、水に溶け込んだ人の心が剥き出しの肌を伝って、心に入り込みます。男たちは、女たちに心を読まれたくなかったのです。川下にいれば、心は上から流れてくるだけですむそうですから。そのことをもって、僕は自分の力が不全であることを知りました。川下であろうとなかろうと、水に浸かるすべての人の心が僕には届いたからです」エトは無意識の内に自分の手を見ていた。

 「僕は、一度として川に入ることなく今日まで生きてきました。川に入らない者を水族の者は決して認めません。彼らは死の直前まで川の水に浸かり、死を迎えてようやく川から離れることができます。それ以外に生き方を知らず、皆が同じように毒に蝕まれて死んでいくという暗い約束だけが、村人を結びつける絆でした。

 僕は早い段階で川に入ることをあきらめました。大人たちは水入りを強要しませんでした。水に触れる度に不調を訴える者を苦労して川に入れるほど彼らは親切ではないのです。

 最後まで頑張ったのは僕の叔父でした。叔父は父の亡き後、一族の長となりました。叔父は一族の誇りを守るためというよりは、僕を村の一員として周りに認めさせるために心を砕きました。それでも叔父の努力は無駄に終わりました。水入りを諦めることになった日、その日はいつもより水の濁りが強く、水辺に立つと、全身がくまなく乳白の光に照らし出されていたことを覚えています。足先に水をつけると、僕は即座に気を失いました。そのことは、叔父に僕の水入りを諦めさせるに足る出来事でした。叔父は僕を水から引き上げると、川に潜り一日の仕事を始めました。僕が目を覚ますと、叔父はちょうど川の水の一番深いところに浮かんでいました。目が合うと叔父は『チウダ』と僕に語りかけました。チウダとは、水族の古語で別れや諦めを意味します。僕はその日を境に川には立ち寄らなくなりました。

 それから僕は森に分け入り狩りの真似事をするようになりました。水族の者たちは誰も狩りをしませんから、それは本当にごっこ遊びのようなものでした。たまに獲物がかかったとしても、死の川が流れる森の生き物ですから、弱々しく痩せて肉がほとんどありません。そんな獲物でも、持ち帰ると母は喜んでくれました。肉のためだけではなく、獣の角や内蔵、骨を使って薬を創るためです。母は医術の心得があり、しょっちゅう村のあちこちでお呼びがかかりました。村人は水から遠い場所に暮らす母を自分たちの仲間として認めようとはしませんでしたが、それでも母の力を必要とし、邪険には扱いませんでした。

 いつの頃からか、村を出て行こうと僕はよく母に言うようになりました。この村に僕たちの居場所はないと。しかし母は首を縦に振ってはくれませんでした。私の居場所はここだとそう言い張るのです。だからカデッサ隊長の申し出は、僕にはえらく魅力的に聞こえました。隊長はある日水族の長の下を訪れてきました。その時にはもう叔父は亡くなり、長は別の人間に変わっていました。隊長はイーンの竜が死んだことを告げ、その秘密を探り出すために水族の力を借りたいと申し出ました。僕らは、外の人間が口にする話の主旨をまるで理解できませんでした。竜の存在そのものをあまりに知らなかったからです。長を始めとして、村の大人たちは働き手が減ると協力を渋りました。これ以上、外の者と関わり合いになりたくないと心底思っていたのでしょう。僕はこっそりと隊長の下を訪れました。隊長の言う竜の恵みに心引かれたからです。隊長は言いました。竜の秘密を探り出し、それを皆で分かち合おうと。その力を持って土地を豊かに変えていこうと。僕は水族の村を死の川から救いたかった。そしてそのような正当な理由を得て村から逃げ出したかった。だから隊長について村を出たのです」

 エトは出立の朝を思い返した。母は、他の村人たちのようにチウダという言葉ではエトを送り出さないでくれた。

 足下から、配管を伝って油の流れる音が聞こえた。

 一日が、始まろうとしていた。

 「あの人たちをあまり信じてはだめよエト」リシアは眩しいものでも見るかのように目を細めた。

 「どうしてです?」

 「昨日言っていたでしょう?機会があれば、彼らはイーンに攻め込むわ。その口実さえあれば、人は何だってやってのけるものよ」

 リシアの指摘はエトのもっとも痛い場所をついた。エト自身、竜の秘密を力で奪うことを認めることはできなかった。

 「それを知ってなぜ、リシアさんは計画に参加するんですか?」エトはリシアに尋ねると同時に、自分の心にも問いかけていた。

 「私にはもう、何も残されていないからよエト。いつの頃からか、竜は自然に死を迎えたのではなく、賢主に殺されたのだという噂が聞こえるようになった。私は、簡単に噂を信じたりはしない。でも、疑いを抱くにはそれだけで十分だった。私はただ、子供と夫の死の真相を知りたいの。そのために多くの血が流れようとも気にならないわ」

 「それは嘘です」とエトは言った。リシアから受けたたくさんの親切が思い返された。

 「どうしてそれを嘘と言えるの?」リシアは話を切り上げようと立ち上がった。

 「あなただって、変わらずここに留まるのでしょう?」

 「僕は……」

 エトは何も言い返せなかった。イーンへの進攻など起こるはずがないと思いたい反面、必要ならばカデッサたちは力尽くで秘密を暴くだろうという確信があった。力による奪取などに荷担したくなかった。さりとてエトはこの状況をうまく打開する方法を何も思いつけなかった。ふとヴィノの顔が浮かんだ。この土地から去りたくないと思う気持ちだけが本物だった。

 「もうやりきるしかないのよ」リシアはエトに背を向けて言った。

 エトは頷き返すことすらできないまま、遠ざかる足音を聞いた。

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