オマケ エクストラ人物伝
魏諷
○魏諷とは?
だいたいの人が漫画「蒼天航路」で初めて知る人物。というか俺がそうだった。ストーリー最終盤に登場。曹操が劉備との決戦のため漢中に進軍したとき、曹操不在の都で反乱を画策した。凄まじいインパクトがあったことを覚えているのだが、最後まで残るのは、「で、誰?」である。
その疑問を解消すべく、我々取材班は三國志に潜り込むのです。
○
魏諷は字を
彼については、何人かが
その将来を予見している。
例えば人物鑑定に長けた人物、
かれは魏諷の才智あふれる風聞を聞き、
これは反乱を起こすだろう、
と思っていた。
また曹操の謀臣の一人、
魏諷が多くの人と交わり、
またその人心を得ていることから、
やはり反乱を起こすだろう、
と予見した。
魏諷と仲良くしていたため、忠告。
「士人との交流は、むしろそなたを
高めてくれよう。
だが魏諷、あれはダメだ。
およそ浮ついた派手派手しさで、
実と言うものが感じられない。
ああいう奴が治まった世を乱すのだ」
だが劉偉は従わなかった。
同郷のひとである
魏諷と親しくしているのを見、
魏諷に姦雄の相があると気づいたので
任覽を災いから遠ざけるためにも、
魏諷との交流を断つよう勧めていた。
そんな彼らの予見は、現実のものとなる。
○魏諷の乱周辺のタイムライン
武帝紀によると、
魏諷の乱が起こった 219 年前後の
以下のような動きを起こしている。
218年
7月:
9月:
10月:長安の南の
鎮圧に向かう。
219年
1月:宛城鎮圧。関羽との連携に
失敗したものであった。
1月:夏侯淵戦死。
3月:曹操自ら
5月:戦果が上がらず、漢中より撤退。
7月:
8月:
9月:
10月:軍が
曹操が劉備を倒しに西に動いたところで、
その留守に乱が起きている。
あっちに動けばこっちに火の手が上がる。
まー曹操さん、ずいぶん大変そうである。
というか魏諷の乱、
武帝紀だと「いきなり終了している」。
かわいそう……
○魏諷の乱の展開について
武帝紀の注が引く「世語」は言う。
魏諷は、劉備討伐の大軍が
鄴に戻ってこない隙をついて、
仲間と共に決起しようとした。
しかし、その中の一人である
決起に怖気づき、太子の
計画を密告した、と。
結果、魏諷および数十人が処刑された。
(※「資治通鑑」では数千人説が出ている)
関与に名前が挙がっているのは以下。
配下将・
建安七子・
上でも挙げた、劉偉。
(ただし兄については
曹操のとりなしにより許されている)
蜀から移住した文人、
以上が、連座で殺された人物。
のちに
かれは手酷く鞭打たれて、
まさに死ぬかどうか、
というタイミングでの特赦を受け、
九死に一生を得ている。
自分にもあるという事で、辞職を願い出た。
が、この訴えを聞いた曹丕は
「なんでお前が辞める必要があるんだ!」
と引き留め、左遷扱いにしたという。
そして、鍾繇。
魏諷を引き立てた責任、という事で、
免職させられている。
なお、免職前の官位は
もっともすぐ復職するが。
これ、ほぼ
つまり、相当曹操に近い人だった。
○魏諷の乱 その後
後漢の文人としては
特に名を知られる人、
かれが所蔵していた書物は、
王粲が引き継いでいた。
という事は王粲の死後、
息子たちに蔵書は引き継がれた。
の、だが。
その二人が魏諷の乱で刑死。
その蔵書はことごとく、
親族の
○後世に伝わる魏諷評
二つの魏諷に関する評がある。
一つ目。
曹操以来、ずっと魏の重臣として
働いてきた人、
風紀紊乱に対する戒めの上表で言っている。
「皇帝は風紀を乱す者を罰すべきである。
彼らが政治を混乱させたり
風俗を損壊したりするためである。
その一例が魏諷である。
だが彼らの威勢が高まることで、
役人たちもおいそれと彼らを
罰することができなくなった。
学問を疎かとし、
人脈づくりと言う名の
我田引水、阿諛追従。
結局のところこう言った腐敗こそが
魏諷の乱を招いた、と言えよう」
二つ目。
子孫に言い聞かせる訓戒の中で
このように語っている。
「虚偽に満ち満ちたものたちは、
しばしば言行が不一致である。
およそ人を惑わそうとするのは、
この手の浅はかな者たちである。
例えば、近年では魏諷などが
まさにそれに相当しようか。
奴はその邪悪な言動で世を惑わせ、
後進を誤った道に引きずり込んだ。
既に奴らは処罰されてはいるが、
その振る舞いは反面教師として
皆が知らねばならぬところである」
○異説
「三國志集解」の中では、
以下のように書かれているそうだ。
上記魏諷の悪評は、全て
「失敗した乱の首謀者だから」
悪し様に書かれているに過ぎない、
記述を拾い集めてみれば、
魏諷の忠誠心、才覚は明確だ、と。
なお、こちらは原典にあたれていないので、
あくまで伝聞の話となります。
1957年の本じゃ、ネットに
本文流れてくるはずもないしねぇ……。
○典拠文
三國志 巻1 曹操
九月,相國鍾繇坐西曹掾魏諷反免。〈「世語」曰:諷字子京,沛人,有惑衆才,傾動鄴都,鍾繇由是辟焉。大軍未反,諷潛結徒黨,又與長樂衞尉陳禕謀襲鄴。未及期,禕懼,告之太子,誅諷,坐死者數十人。〉
三國志 巻6 劉琮附伝 傅巽
「傅子」曰:巽字公悌,瓌偉博達,有知人鑒。目龐統爲半英雄,證裴潛終以清行顯;統遂附劉備,見待次於諸葛亮,潛位至尚書令,並有名德。及在魏朝,魏諷以才智聞,巽謂之必反,卒如其言。
三國志 巻8 張繡
張繡,武威祖厲人,驃騎將軍濟族子也。子泉嗣,坐與魏諷謀反誅,國除。
三國志 巻13 鍾繇
魏國初建,爲大理,遷相國。數年,坐西曹掾魏諷謀反,策罷就第。
三國志 巻14 董昭
太和四年,行司徒事,六年,拜真。昭上疏陳末流之弊曰:
凡有天下者,莫不貴尚敦朴忠信之士,深疾虛偽不真之人者,以其毀教亂治,敗俗傷化也。近魏諷則伏誅建安之末,曹偉則斬戮黃初之始。伏惟前後聖詔,深疾浮偽,欲以破散邪黨,常用切齒;而執法之吏皆畏其權勢,莫能糾擿,毀壞風俗,侵欲滋甚。竊見當今年少,不復以學問為本,專更以交遊為業;國士不以孝悌清脩為首,乃以趨勢遊利為先。合黨連羣,互相褒嘆,以毀訾為罰戮,用黨譽為爵賞,附己者則嘆之盈言,不附者則為作瑕釁。至乃相謂『今世何憂不度邪,但求人道不勤,羅之不博耳;又何患其不知己矣,但當吞之以藥而柔調耳。』又聞或有使奴客名作在職家人,冒之出入,往來禁奧,交通書疏,有所探問。凡此諸事,皆法之所不取,刑之所不赦,雖諷、偉之罪,無以加也。
三國志 巻14 劉曄
「傅子」曰:初,太祖時,魏諷有重名,自卿相以下皆傾心交之。其後孟達去劉備歸文帝,論者多稱有樂毅之量。曄一見諷、達而皆云必反,卒如其言。
三國志 巻21 王粲
粲二子,為魏諷所引,誅。後絕。
三國志 巻21 劉廙
魏諷反,廙弟偉為諷所引,當相坐誅。太祖令曰:「叔向不坐弟虎,古之制也。」特原不問,〈廙別傳曰:初,廙弟偉與諷善,廙戒之曰;「夫交友之美,在於得賢,不可不詳。而世之交者,不審擇人,務合黨衆,違先聖人交友之義,此非厚己輔仁之謂也。吾觀魏諷,不脩德行,而專以鳩合為務,華而不實,此直攪世治名者也。卿其慎之,勿復與通。」偉不從,故及於難。
三國志 巻23 楊俊
太祖征漢中,魏諷反於鄴。俊自劾詣行在所。俊以身方罪免,箋辭太子。太子不悅,曰:「楊中尉便去,何太高遠邪!」遂被書左遷平原太守。
三國志 巻27 王昶
夫虛僞之人,言不根道,行不顧言,其爲浮淺較可識別;而世人惑焉,猶不檢之以言行也。近濟陰魏諷、山陽曹偉皆以傾邪敗沒,熒惑當世,挾持姦慝,驅動後生。雖刑於鈇鉞,大爲烱戒,然所汙染,固以衆矣。可不慎與!
三國志 巻28 文欽
「魏書」曰:欽字仲若,譙郡人。父稷,建安中為騎將,有勇力。欽少以名將子,材武見稱。魏諷反,欽坐與諷辭語相連,及下獄,掠笞數百,當死,太祖以稷故赦之。
三國志 巻28 王弼
「博物記」曰:初,王粲與族兄凱俱避地荊州,劉表欲以女妻粲,而嫌其形陋而用率,以凱有風貌,乃以妻凱。凱生業,業即劉表外孫也。蔡邕有書近萬卷,末年載數車與粲,粲亡後,相國掾魏諷謀反,粲子與焉,既被誅,邕所與書悉入業。
三國志 巻42 尹黙(蜀志)
尹默字思潛,梓潼涪人也。益部多貴今文而不祟章句,默知其不博。乃遠遊荊州,從司馬德操、宋仲子等受古學。〈宋仲子後在魏。「魏略」曰:其子與魏諷謀反,伏誅。〉
晋書 巻44 鄭袤
時濟陰魏諷為相國掾,名重當世,袤同郡任覽與結交。袤以諷奸雄,終必為禍,勸覽遠之。及諷敗,論者稱焉。
資治通鑑 巻68
沛國魏諷有惑衆才,傾動鄴都,魏相國鍾繇辟以爲西曹掾。滎陽任覽,與諷友善;同郡鄭袤,泰之子也,每謂覽曰:「諷姦雄,終必爲亂。」九月,諷潛結徒黨,與長樂衞尉陳禕謀襲鄴;未及期,禕懼而告之。太子丕誅諷,連坐死者數千人,鍾繇坐免官。
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