3-7
人いきれが、雑踏と混ざり合って胸につっかえた。詰まる呼吸を何とか押し出して、笑う膝を叱咤する。
辺りは人だらけだ。自分の吐息すら、人の熱気に蒸されて何倍にもなってくるのに閉口した。
今日はとうとう豊穣祭の日である。あたりは人でごった返して、その熱気が私を苦しめていた。そもそも、人混みが苦手だったからあまり町に寄らないというのもあったのだと私は今更ながらに思い出していた。
若いころ、付き合いで出させられていた舞踏会も苦手だったなと、街角で始まった陽気な音楽のせいで懐旧などもして、エマは深くため息をついた。
だが、ニコは祭りなど見るのは初めてだろう。人が自由に生き勝手、楽しそうにしているのを見るのも、きっと彼の目には新鮮に映るに違いないと思って連れだした。こんな楽しそうな音を聞いて、宿屋の窓から眺めていろと言うのも酷な話だ。だが、私がこのざまでは楽しむこともできないだろう。
ちょうど人垣の間に見えた花壇の淵に座ると、また短くため息をついた。大きく吸いすぎるとまた熱気を吸ってしまうと気が付いて、意識して短く息を吸う。
財布だけニコに渡して、私は宿に帰ろうかとポケットを押さった瞬間、なぜだかニコも私の隣にゆっくりと座った。
大きな体温の高い手が背中にそっと回る。気遣うように背をさするその手の体温は嫌ではなかった。同じベッドで散々慣らされた体温だからだろうか。
「エマ、大丈夫か?」
彼の当惑が手に取るようにわかる。落ち着きなさげに私の顔を伺いながら心配してくれてるようだった。
「平気」
短くそう返すのが限界で、私はまた俯く。きっと酷い顔色だろう。
「何か、できることあるか?」
声が遠く聞こえるのは具合が悪い正か、それとも喧騒のせいか。肩を抱かれるほど近くにいるのに、なんだかニコとの距離は途方もの内容に感じた。
今は私がニコの妨げになってる。彼は陽の光の下で見るとますます健康的な日に焼けた顔を、辺りに落ち着きなく向けている。祭りに興味があるのに、私が足手まといでどこにも行けないのだ。優しい彼のことだ、きっと私が一人で遊びに行けと言っても「一緒にいる」と言ってきかないだろう。ますます情けない。
具合が悪くなるとどうしてこうも消極的な考えばかりが思い浮かぶのだろうか。どこからか聞こえてくる愉快な調子の伴奏との落差にさらに心が深く落ち込んだ。
不健康に背中を丸める私とは対照的なニコがあたりを見回しながらぽつりと呟く。
「なんだか、こんなに人が歩いてると落ちつかないな」
きょろきょろと黒い目が往来の人々を追っていた。ソワソワしているのは本当に落ち着かないからなのか、見慣れないから物珍しいのか。
ぐったりして、返事もできないでいる私の前にニコが水筒を渡してきた。開けてみれば水が並々入っている。水筒はここの所ずっとニコに預けていたから、この水は彼が魔法で出したものか。気が付かないうちに、水の魔法の扱いも覚えていて、ますます私は落ち込んだ。
好意はありがたく受け取って、一口飲んで息をつく。良く冷えた冷たいものがするりと喉の奥に落ちていく。なぜだか、ニコの強い視線を冠横から感じた。私の変化を逃すまいとでもいうのだろうか。
ぱっと顔を上げると、目の前は人人人、人の壁が右に左に流れて行っていた。人の間を見ていると、引っ張られて行ってしまいそうな妙な気持ちになる。親に連れられて子供が目の前を無邪気な笑顔で歩いて行った。
そんな子供の姿をすっと目で追っていたニコが、またソワソワとしだす。短く成った前髪を少しだけいじってから言葉を選ぶように話始めた。
「小さいころに、祭りに来たことがある……気がする」
「ご両親と?」
「うん。あと……弟と」
「思い出なのね」
「思い出したのは今なんだけどね」
戸惑うように笑う彼が、肩をすくめた。
彼から自分の過去のことを聞くのは初めてかもしれない。特に、奴隷になる前のはんっしというのは新鮮だ。自分の名も覚えていないような彼が恥ずかしそうに昔のことを語る。思い出したきっかけはこの楽しそうな雰囲気なのだろう。ならば、私のことなど気にせずにもっと見て回ってくればいいのに。もしかしたら、自分の名前も思い出す切っ掛けがどこかに落ちているかもしれない。
「弟さんは、どんな子供だったの? ケンカとかもしたの?」
「うーん、弟とは年が離れていたと思うから……ほんとに普通の子供だったよ。よく転んで泣いてた」
一本の記憶がするすると紐解かれて行く。そのすべてがニコの優しい記憶であれと願うのはいけないことだろうか。
「体が弱くって、よく熱を出してたなぁ」
そんな弟を心配して寄り添っているニコの姿が容易に想像がつく。きっとその頃から優しい人だったんだろう。
心を落ち着けるようにゆっくりと瞬きをしてニコの方を見れば、彼はまだ人ごみの方へ視線を投げたままだった。
他愛もない会話でだいぶ気も紛れてきた。それとも、私がこの環境に慣れただけか。
背中に回った手が、また慮るように私の背を撫でた。
「ここに来なきゃ絶対に思い出さなかったかもしれない」
視線を感じてみやれば、自分の膝に頬杖を突いたニコが、私のことを見上げていた。黒い瞳が心底楽しそうに細められている。
「ありがとう、エマ」
「どういたしまして」
ニコの力の抜けたその笑みに、エマもようやく詰まっていた息を吐きだした。
頬杖をつくと顔の皿に近くに赤いマフラーがやってくる。日に焼けた肌に、白い髪、黒い瞳の子トラストが彼によく似合ってた。
しかし、マフラーの下には苦しい記憶を呼び起こす首輪が未だにはまったままだ。
私は首輪を外すすべを知ってるのに、彼に言えないでいる。
重い気持ちに囚われて、また背を丸くしたその時だった。
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