3-8
重い気持ちに囚われて、また背を丸くしたその時だった。
「エマも小さいころお祭りとか行ったの?」
ニコの好奇心に僅かに気がまぎれる。顔を上げれば、未だに穏やかな顔のままの彼がいた。
「どうだったかしら? 覚えてないけど……ああ、でも、一度だけ姉さんたちと一緒に行ったことがあったかも」
「違う町のお祭りもこんな感じ?」
「そうね、騒がしくて、人がいっぱいいて、いろんなものがあったかも」
「色んなものって?」
「そうねぇ、例えば……」
わずかな望郷だ。もうしばらく帰っていないのに、父や母、立派な魔女になった姉たちの顔が思い出される。小さな頃は何も知らず、自分も魔女に慣れると思っていたのに。
「飴細工って言って、綺麗な飴を作るお店があってね。私、その飴がどうしても欲しくってお父様に無理言って買ってもらったことがあったわ。でも、私はその頃本当に小さかったから……結局全部は食べきれなくって」
「それからどうしたの?」
「どうしたのかしら。多分、姉さまたちにあげちゃったんじゃないかな。でも、その飴を買ってもらったのが嬉しくって嬉しくって」
中途半端に食べたそれを、姉にあげるのも悔しくて駄々をこねたのを思い出した。今でもきっとあの大きさの飴は食べきれない。
私の故郷の街での祭りにも多くの行商人が来て、色々なものを売っていた。きっと今日の祭りも、たくさんの屋台が並んでいるだろう。
「ニコは? 見て回りたいものないの?」
「人肌があんまり好きじゃなくって」
思いがけない答えに一瞬言葉に詰まってしまう。困惑を何とかしまい込んでニコの方を見た。彼の方は至極真面目な顔である。対して私は複雑そうな顔をしていたに違いない。ニコは私の具合がまた悪くなったのかと思ったらしく、広い手のひらで再び私の背をさすった。
私の戸惑いも至極真っ当なものである。なぜなら、彼はほぼ毎晩私に抱き着いて寝ているからだ。初めの数回は何とか彼の腕から逃れようと空しい努力もしていたが、悲しいかなエマの細腕ではニコの健康的な腕ははがせなかったし、彼は寝つきが良すぎて揺すったくらいでは起きなくかった。結局そのままにして寝てしまっている。三日程でさすがになれた。あんなに密着して熟睡しておいて、人肌が苦手とはどういうことかと問い詰めたくもなったが、ニコの今の気遣いに免じてぐっとそれを飲み込んだ。
すごくたっぷり時間をかけた後「そうなの」と短い返事を返した。
すっかり毒気の抜かれた私は何とか気持ちを立て直して前を向いた。嫌いだ、苦手だ、と言っているだけでは始まらない。ニコだって人肌嫌いを知らないうちに解決しているのだから、私にだってきっとできるに違いない。
流れていく人垣の間に目をやって、それからニコの顔を見た。
「ご飯でも食べがてら、辺りを見て回りましょうか?」
「でも、エマ……具合悪そうだし」
「もう大丈夫な気がするわ」
「本当に?」
「ええ」
私が頷けば、ニコがどうしていいのかわからないと言いたげにまた私の背を撫でた。
「ニコも、人肌嫌いは直した方がいいわ――いいえ、きっともう大丈夫よ」
そう言って自分を奮い立たせて立ち上がる。ニコも慌てながら私の背を追っているようだった。
先日ギルドで聴いた話では町の東側では大きな奴隷市があるとの話だったので、そちら側には近寄らないようにニコを上手く連れまわす。
僅かに空いていた私とニコの距離の間に、大勢の人が流れに逆らって割り込んでくる。驚きながらそれから距離をとれば、頭一つ抜けたニコの目立つ白髪が人ごみの中で揺らいでいるのが分かった。
割り込んだ人たちは興奮気味に何かを言い合いながら流れていく。その人たちに僅かに流されそうになった時だった。
「え、エマ! 待って! 行っちゃだめだ!」
ニコの大きな声が聞こえたと同時に、鼻につんと、生の肉の匂いがした。
水を掛けられたかのように頭の先からざっと冷たくなっていくのが分かる。匂いを糸口に嫌な記憶が頭の中から引きずり出されるようだった。
血の匂い、生臭い匂い、辺りを暴れる土埃、自分の呼吸すら匂いを感じて、鼻の奥がツンと痛んだ。
嫌な予感がしながらあたりをぐるりと見渡そうとすると、大きな手が私の手を力強くつかんでグイっと引っ張っる。
視線がぐらりとぶれて、気が付けば逞しい腕の中に居た。
抱きすくめられたまま、人波から逃げるように屋根のある屋台の中へとなだれ込んだ。
店の前を走り去っていく人たちが「飛竜の解体ショーだってさ!」と興奮気味に口にして人だかりへと消えていく。
その言葉にどきりとした。心臓が早鐘を打つ。指の先が氷のように冷たくなるのを止められなかった。嫌なのに、視線が人だかりの方へと向いてしまう。操られたように、自分の意思はそこに介在しなかった。
「だめだ、エマ」
低い声が諫めて、大きな手が私の目元を優しく覆った。
目の前が一瞬で黒く支配される。密着する胸から、乱れのない心音が聞こえてきていた。
規則正しいその音に釣られるように、私の胸も落ちついて行く。心音が重なるほどになった頃、ようやく詰めていた息を吐き出せた。
「ありがとう、ニコ」
と囁いた声はかすれていた。
「どういたしまして」
ニコが私の顔を覗き込むようにしてへらりと笑った。
「今日はもう帰ろう、エマ」
背に回った手が気遣うように私の背を撫でる。
「やっぱり俺、人肌が苦手みたいだ」
それでもニコは私の体を強く抱きしめていた。
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