魔物の奴隷
八重土竜
第一章
1-1
顔に降りかかるそのぬるい液体を、避けることも受け入れることもできなかった。
死んだ。
命が終わった。
目の前の出来事を受け入れることはできない。だが、自分の死を甘んじて受け入れるほど、自分はできた人間ではないとも自覚していた。
毟られた羽が舞い飛ぶ。本来ゆっくりと落ちるはずのそれは、血に濡れてぼとぼとと音を立てて地面にぶつかる。
とっくに絶命している大蜘蛛の死体が敵に踏まれてバキバキと音を立てた。
悲鳴だ。
まだ成しえていないことがある。
結婚もしたかったし、先週生まれたという甥にも会いたかった。何より仕事が終わっていない。私がこの仕事を投げ出してしまえば、きっとほかの誰かがここへやってくる。それだけは避けたかった。
もがれたハルピュイアの首が、自分の横へと投げ落とされる。地面の上を二、三度跳ねると、その首と目が合う。
どろりとした黒い瞳は、もう命を宿してはいない。
体内に帰ってきた魔力を感じて、とうとう彼女ともお別れであると知る。
死んでしまった。
殺したのは私だ。
ガチャンと音を立てて壊れた首輪が地面に落ちた。
体が揺れるように感じるのは、強い心臓の鼓動のせいだろうか。
奇形の四足竜が迫りくる。普通鰐のように横に二つだけついているはずの目が、前にも上にも後ろにも。大きく開いた口の中にさえ、茶色い瞳を見つけて鳥肌が立つ。
歪に並んだその歯でさえもきっと彼の特徴だ。
絶命した命には眼も向けない。
身勝手な殺戮らしかった。
逃げればまだ助かるかもしれない。
後ろに控えていたオークが唸る。ハルピュイアと大蜘蛛の血の匂いにあてられたのだろう。
四足竜の尾が、オークの首元を浚う。首輪の壊れる音がして、それがずるりと彼の首から外れる。
地面に落ちた衝撃で青い魔法石が砕け散った。
「駄目だ、ユーク! 逃げて!」
彼には私の声は届かない。魔法は解けて、彼を操る魔法使いはいないのだ。
だから、逃げてほしかった。
せめて、卵から育てたあのハルピュイアも、手のひらほどの大きさのないころから育てた大蜘蛛も、首輪を外してやれば逃げることができたのだろうか。本能に任せて、恐ろしさを隠しもせず、生き延びることができたのだろうか。
私の声は届かないだろう。
そういえば、感謝の言葉もどこが好きだったかも伝えられなかった。死んでしまってはどうしようもない。
後悔が襲うが、それよりも目の前の心配だ。
思考が反れていきそうになるのは、きっと現実逃避からだろう。
二匹の家族を目の前で引き裂かれたのだ。半狂乱になったっていいと思う。
まだ逃げ出せないのは、最後の一匹が残っているからだ。彼がいるからには死ねない。
たとえ自分が、エゴで彼のことを縛っていたとしても。
「ユーク!!」
もう一度彼の名前を読んで立ち上がる。自分は一つもケガをしていないのに、ぼたぼたと地面に血が垂れた。ハルピュイアの頭を振り返る。胴体は四足竜に踏みつぶされてもう原型はなかった。羽毛がまだあたりに散っている。
四足竜が上体を起こしたのを見て身構える。
ユークにだけは逃げてほしい。もう、私の魔法は解けている。
一歩踏み出すと、砕けた魔法石の欠片がバリバリと音を立てた。
どれほどの時間稼ぎになるかはわからないが、ユークならば少しの時間だけでも作ってやれば逃げられるだろう。腰にぶら下がった鞭に手をかけた瞬間だった。
私の二倍はある巨体が、四足竜に組み付く。
真正面からのぶつかり合いに、羽毛が更に舞い散る。
呆然と立ち尽くした。彼を逃がすにはどうしたらいい?
もう魔力も残ってはいなかった。
彼がこちらを振り向く。助けを求めているのか、それとも。
「ユーク!」
四足竜の尾が強く横に振られる。ユークの首が胴体から離された。皮一枚つながったそれが、力なくだらりと横に向いた。
首から勢いよく血が噴き出す。
あたたかな雨を全身で受けながら、私はどうしたのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます