夜は静かなばかり

塩野秋

夜は静かなばかり


 その日は極寒で、東北在住であるのは仕方ないとあきらめていたけれど、さすがにマイナス十度なんて聞いてない、という気持ちで帰宅した。誰も待っていないアパートの中はとても冷えていて、ちょっとした冷蔵庫だった。私はブーツの雪をはらって、床の上に足を置いた。ストッキング越しの床はありえんほど冷えていて、あ、張り付いた、と錯覚するくらいの痛みがつま先に走った。廊下をつま先立ちで駆け抜け、リビングのありとあらゆるものを蹴ってソファーにダイブした。革が冷たい。重みで沈むソファーは、もすー、と微妙な音を立てた。

「寒いっ」

 誰もいない部屋に声は響いた。テーブルの上に置いてある暖房のリモコンを手に取り、即座につけた。その流れでテレビをつけると、ちょうどニュースが始まっていた。

 今日は非常に寒いですね。都会の方でも、雪が降っているようです。なんと、マイナス四度です。耐えられない寒さです。

「こっちはマイナス十度なんじゃ、ボケ~~」

 顎を震わせて、体育座りで身を縮めながら、私はつま先をこすり合わせた。冷えてかゆいし、痛い。しばらくは動けない。しんどい、って言葉が、重みを持って私の口からドライアイスのように床に流れていった。

「風呂……」

 お湯を沸かさなければ死ぬ。なぜこの家には、家主が帰宅した瞬間に風呂が沸く機能が備わっていないのか。極寒に凍える、主人を温めてくれる家電はいないのか。いっそ彼氏に連絡をいれてみようか。毛布にくるまったまま、「風呂のスイッチ押して」と頼むか。キレそうだな。

 しょうがなく身を起こして、凍りつく床に足をつけた。飛び跳ねるように風呂自動のスイッチに近づき、勢いよく押した。ニュースはバラエティに切り替わっていて、なんとも間延びした声で芸人が「おーかーしーいーやーん」と指をさして、ひな壇から前に出ていた。

「寒い!」

 再びソファーに転がり込み、床に落ちていた毛布を拾い上げた。表面がひんやりとしていたけれど、次第に体温が移って温かくなった。部屋の温度が、許容できるくらいには温まった。やっと動ける、と足を下ろすと、床はまだ冷たかった。床暖房をつけ忘れていたと気づいた絶望感は、小さな子供が走り去っていくような、自分が悲しくなるのに似ている。

 毛布を抱いたままソファーから転がり落ちる。天井はまだ新しい白だと思っていたのに、すっかり、電気の染み、みたいなのが見えていて、三年住んだんだ、とか思って、やっぱりそれ以上は思えなかった。

 考えて行動して。

 目を瞑ると、そういう自分の言葉が反芻して、嫌になる。後輩の顔が浮かんだ。すごく困った顔をしていたな。眉を下げて、口元は固まって、開かれた口からはなにか、言いたそうだけど、思考が止まってしまった、って顔だった。彼のこと好きなんだけどな。仕事とそれは、まったくの別物だってこと、知らない子なんだろうな。

 テレビの音が煩わしいけれど、消すともっとむなしくなる。夜の空気って、どうして気持ちと呼応してしまうのだろう。重力が強くて、私は立ち上がれない。

 明るい電子音が、湯船の準備ができたと報告してきた。全身が夜の重さに支配される前に、私は身体を起こして、毛布にくるまったまま風呂場へ向かった。脱衣所は寒い。誰もタオルを用意してはくれなくて、裸足の足と密着した床は、少しずつ水分をもつ。毛布を手放して、風呂場の引き戸を開ける。白い湯気が顔を覆った。足を踏み込むと、冷たい水の感覚が皮膚を突き刺して、静脈を伝って身体を上る。お湯は透明な膜で、あったかい、ってことはわかる。私はスーツを脱がないで、そのまま浴槽に飛び込んだ。

 温度だけが身体を包み、スーツに浸透してきた熱湯が、服と肌の間に満ちた。全身を沈めて、泡沫の音が耳に届く。顔を出すと、冷たい空気が一瞬にして顔にまとってきた。

 ――何をしてるんだろう。

 冷えたから、なのか、急激な温度のせいで、身体がぎゅっと締め上げられる感覚があって、それが目の周りに集中して、痛い、ほどで、体温がそのままこもった涙がこぼれた。

 急激に笑えてくる。ひとりごとをこぼすと、風呂場に反響して、どうでもいい、って気持ちになった。そうしてうつむいて湯の面を覗き込むと、金色に揺らめく影が映っていた。

「なに?」

 顔を上げると、長方形の、小さな金色の紙が舞い降りてきた。足を湯の中から突き出して、足の親指と人差し指の境目を開いて、キャッチした。指先だけではよくわからないが、つるつるとした素材だった。

「なにこれ」

 近づけてみると、太いポップ体で文字が書かれていた。

 一、とゼロがたくさん並んでいる。コンマを見ながら慎重に数える。

 百億円チケット。

 そう書かれている、つるつるの金色の紙は、少なからず防水だった。


💰

 ゲームにバグはつきもので、開発者もバグをあえて残しているんじゃないかって感じるほど、見つけた時の高揚感はゲームクリアと相当する。現実もそれと同じで、意図的なバグが、宇宙的確率で起きることがある、のだと、都市伝説で聞いた。

 その都市伝説のひとつにある「百億円チケット」の話。ある一定の確率で、ある一定の条件下で現れる、っていう、百億円の価値があるらしいチケット。それが、いま手元にある。

 私は浴槽を出て、きちんとパジャマに着替えてから、その長方形の紙を改めて眺めた。百億円チケット、とまさしく書いてるけれど、どうも、現物感がない。パソコンの知識を得てすぐの、中学生が作成したみたいなクオリティなのだ。じゃあこの金は、まさか金箔?

 裏を見ると、表と同じように金、というわけではなく、利用の説明書きが書かれていた。


 ・百億円の価値を手に入れることができるチケットです。

 ・一度きりの使用です。分割使用はできません。

 ・宇宙的確率のチケットです。ご利用は計画的に。返品は不可。


 そう三段並んだ文章には、詳細もなく、連絡先もなかった。

 風呂場に、急に現れたチケット。時空の歪み、なんて、それこそ完全なバグのようで、誰かがこの家に入って、これを仕込んでいったというほうがよっぽど納得する。――安心はできないのだけれど。いたずらである証拠がない。もしこれが本物ならば、百億円――相当の何かが起きるということなのか。とりあえず、テーブルに置いたまま、ソファーに寝転がってテレビを見たり、ベッドを整えたりした。その間も、あの金色の紙の存在感がやけに意識を圧迫して、何度もテーブルの方を振り返った。幻なんかではなく、相変わらず置かれたままだった。

 どうしようか、腕組みをして頭をひねって考えても、時間が過ぎてゆくばかりだった。テレビの放送はもう、通販番組しかやっていない。チケットは消えない。かといって、夜は静かなばかりだった。

「寝るか」

 電気を消した。月明りでも、チケットの金色は輝いていた。



💰

 翌日。カーテン越しの朝日がまぶしくて、随分と日が高いぞ、と焦ったけれど、休日だということを思い出して、再びベッドに身体を預けた。フローリングの床が、日光に照らされて明るく輝いている。そういえばベッドでちゃんと寝たのは、三日ぶりだったかもしれないと、小さな感動を覚えながら身を起こした。朝の空気が、すっきりとしたものに感じた。脳がさっぱりしている。昨日は、余計なことで考えたから、仕事のことを考えなくて済んだから? もしかして、そういう、気持ちの問題? 百億円とは日常? 何気ない日常がハッピー。などとくだらないことを考えてキッチンに向かってみると、テーブルの上には、まだ金色のチケットは残っていた。子供が作ってくれた肩たたき件みたいだ、と思って、少し肩を落とした。ともかく現実なのだ。

 トーストが出来上がるまで、インスタントのコーヒーを注ぎながら考えた。百億円チケットは存在する、と考えたとして、いったい、何に対して使ったらいいのか。ひたすら待っていても、百億円が降ってくるわけではないようだ。

 苦みを舌の上に想像させる、香ばしいコーヒーの香りが漂う。冷蔵庫から牛乳をとりだして、アルミ鍋に注いで火にかけた。

 そもそも、その百億円は誰からもらえるのだろうか。心当たりがまるでなかった。トーストが出来上がり、カフェオレとともに美味しくいただいても、百億円が降ってきた、なんてニュースは流れてこなかった。


「いや、それは、ないでしょ」

 行きつけのカフェにチケットを持って行って、現物を彼氏の新田くんに見てもらった。明るい茶色の、眉ほどある前髪を人差し指で抑えながら、小動物のような瞳を瞬かせてまじまじとチケットを見つめていた。

「だって、どう見ても折り紙の金とおんなじ感じだよ」

「やっぱり、そう思う?」

「さよさんはそんなの信じるほうだったんだ」

 新田くんは目を細めて、楽しそうに私の顔を覗き込んだ。

「いきなり目の前に現れたら、少しはね」

「誰かのイタズラだって。どうするの、それ」

 新田くんはチケットを指さして、ゆずレモンティーのホットを嬉しそうに飲んでいる。チケットの裏の、宇宙的、の文字が目に入った。そういわれると、惜しくなるものだ。

「未来ある若者に託そう」

 新田の手を取り、金のチケットを握らせた。ええーって顔をして見上げる顔が、驚いた柴犬に似ている。

「いらないよー。僕使わないよ!」

「まあ、何かの話のタネになるかもしれない。合コンで使っておいでよ」

 いらないよ、と言いながら、行き場のない手とチケットを、そのままポケットに押し込んだ。

「もー。さよさんは、そういうところがさあ、嫌味になんないのいいよね」

 新田くんは立ち上がり、私の肩を軽く抱いて、頬を摺り寄せた。

「じゃ、僕塾だから、行くね」

 ごちそうさま、とティーカップを手に取り、カウンターに下げて、颯爽と店を去っていった。もちろん、伝票はテーブルに置いたまま。彼のそういう、若くて軽いところが好きだ。

 その直後くらいに、大型トラックが店の中に突撃してきた。前面に新田くんを張り付けて、ものすごい勢いと音で、店内の客たちを蹴散らして、ガラスを粉砕し、テーブルをはじき飛ばして、私の、胸とすれすれくらいの距離で止まった。新田くんが、地面に落ちた。

 新田くんが死んだ!

 愕然としていると、そのポケットから、百億円チケットがぽろりと落ちた。ちょうど、私のつま先の前に。

「戻ってきた、の?」

 拾い上げると、チケットは、新田くんが握った分以外は無傷だった。

「うう……」

 しゃちほこみたいになっていた新田くんが、うめき声を上げて倒れた。新田くん、生きてた。

 店内は騒然として、というか、店外から窓越しに写真撮影をする若者たちが騒然としていた。救急車呼んでくれよ、と思いながら、私はスマートフォンを耳に当てた。


【百億円チケットについて】

 ・どうやら、譲渡はできないらしい。



💰

 新田くんは複雑骨折の診断を貰ったらしいけど、わりと元気そうだった。ただ笑うと全身が痛いらしくて、差し入れのDVDは、全部感動系にしておいた。

 復旧中のカフェの向かい側にあるファミレスで、私は待っていた。鞄の中から、金色のチケットを取り出す。相変わらず「10,000,000,000」と主張がすごい。テーブルの上に置き、じっと、待ち人の気配を待った。

 そうして来た三人組の男は、それぞれに手を上げて、私の向かい側に座った。

 縁の太い眼鏡をかけた、緩くパーマをあててある柔らかい髪をしているおしゃれな元田くん。面長で、筋肉質な体つきの、意志の強そうな眉をした、会社の同僚の岡島くん。重めの黒髪で目が隠れるほどで、色白の、独特な雰囲気をもつ佐伯くん。

 三人はそれぞれ、隣に座る人間の顔を見て、気まずそうにそらしていた。全員、元・彼氏である。

「……で、何? 佐夜子、相談したいことって」

 そう口を開いたのは元田くんだった。オレンジの眼鏡を押し上げて、少し身を乗り出した。

「この間の、カフェの事故覚えてる?」

「ああ、トラックが突っ込んで、高校生が重傷ってやつな」

 腕を組んでそう答えたのは、岡島くんだった。佐伯くんも頷いていた。私は、そう、と続けて、テーブルのチケットを三人の前に差し出した。

「これのせいだと思うの」

「なにこれ?」

 元田くんがきいた。

「百億円チケット」

「都市伝説の?」

 三人は顔を合わせた。訝しんで、少し笑った。

「私のところに現れたんだけど、新田くんにこのチケットをあげたすぐあとに、トラックに轢かれたの」

「新田って、高校生の?」

 佐伯くんの言葉に頷くと、笑っていた元田くんが少し顔を上げた。

「知り合いだったの?」

「いや、ていうか、彼氏」

「はあ!?」

 元田くんと岡島くんの声が重なった。立ち上がりそうな勢いで詰め寄った岡島くんと、立ち上がってしまった元田くんが、私の視界を圧迫した。

「おま、お前、高校生と付き合ってんの!? お前まじで、はあ!?」

「お、落ち着いて……」

 元田くんが錯乱するのを岡島くんがとめてくれた。元田くんは落ち着きなく髪を乱したり、腰を浮かせたまま水を飲んだりした。それでも、「高校生……高校生……」と呟いていた。

「佐夜子ちゃん、百億円チケットについては調べた?」

 佐伯くんが顎に手をあてながらたずねた。私はスマートフォンを取り出して、都市伝説が集う掲示板を開いた。

「大体のことは知っていたんだけど、新田くんのことがあったから、改めて調べたの」

 スクロールしていくと、百億円チケットについての記述がある。


 百億円チケット。「この世のバグみたいな現象ベスト5」の一つ。絶対に日常生活ではしないようなこと(方法は不明)をバグと見なし、宇宙的確率で現れる、幸運のチケット。百億円の価値に匹敵するものを手に入れることができる(方法は不明)。宇宙的確率で引き寄せられたチケットは、持ち主が百億円に値することに出会うまで消えることはない。


「などという……」

 しばらくの沈黙のあと、岡島くんが小さく挙手をした。

「……え、なんで俺たち呼ばれたの?」

「本当だ、なんで?」

 三人が顔を見合わせて、再び私の方を見た。少し不安が混じっているような、覗き込むような瞳が見えた。

「譲渡がダメだってことは、私の意志で、百億円の価値を見つけろってことでしょ。だから、親愛なる、信用できる元カレの三人の誰かに、これ、使ってあげたいと思ったの」

 百億円チケットは、照明でまぶしく光っていた。

「三人は、それなりにお金使う仕事しているでしょ。だから一番、手っ取り早いって思ったの」

「まあ……」

「確かに……」

 元田くんと佐伯くんは呟いた。

「まって、俺は?」岡島くんは少し迷ってから手をあげた。「俺、同じ職場じゃね? 給料同じだろ」

「でも事業部だから。岡島くんの場合は、職場に寄付ってかたちかな」

「それもそれで、俺の利益なのか?」

「そうだと思ってほしい。思ってくれないと、岡島くんが死ぬ」

「死!」岡島くん。

「ぬ?」元田くん。

 私はうなずいた。あくまで冷静に。私は管理者だ。佐伯くんも少しだけ、眉をひそめた。

「さっきも言ったでしょ。新田くんは私の譲渡で死にかけた。だから多分、志も同じじゃないと、無事は保証できない」

「保障できないって、まあ、そりゃあそうだろうけど」

 岡島くんは釈然としない様子だった。

「要するに、百億円に見合うプレゼンしろってことだろ?」

 元田くんはおしゃれ眼鏡を押し上げて、腕を組んだ。だいぶ調子を取り戻したみたいだ。

「うん、そうだね」

「じゃあ、俺が有利だ」元田くんはふんぞり返った。ソファーの背もたれに手を伸ばして、どこかで見たな、と思ったら友達といったホストクラブの、なりたての初々しいホストくんのそれに似ていた。

「俺は、金さえあれば叶うものばかりの企画だ。なんてったって映画業界だからな。百億円となると、海外ロケは余裕だし、有名監督も役者も選び放題だ。うん、良い映画がたくさん作れるぞ」

「例えば?」佐伯くん。

「うーん……あえての、和製サメ映画とか」

「ダメだろ」

 岡島くんの声はマジだった。

「やる意味ある?」

 佐伯くんはいつも以上に冷めた目をしていた。いつぞやみた、「この映画クソだね」っていってた時と似てる。

「ドブ」

 これは私。

 元田くんは、冗談だろ、冗談。ときまり悪そうに言っていた。冗談だとは思ったけど、元田くんのボケはなかなかつまらない。懐かしい。そんなつまらなさが可愛かったんだ。

「佐伯くん、だったらどう使う?」

 岡島くんがきいた。佐伯くんは、少しファミレスの天井をみた。ハエを追っているような視線のさまよいをみせた。羽音みたいな低く小さい音が聞こえたから、え、本当にいるの? と思ったら彼の唸り声だった。

「おれは、インディーズの音楽を増やしたいかな。おれCDショップの店員、いま代理店長なんで。CDって全然売れないから、有名なアーティストに頼るしかないんだけど、そういうこと考えなくていいなら、インディーズをバンバン店に仕入れたい」

「ああ、佐伯くんインディーズ好きだもんね」

「うん。あと、ライブハウス作って、バンバンライブさせたい」

 佐伯くんは今日初めて優しい笑顔をみせた。佐伯くんははノーミュージックノーライフマンで、アイラブミュージックなのだ。インディーズが好きで、特にベースの重低音が好きらしい。ベースを弾く女の子が好きで、よく抱いていた。私もそこが好きだった。本人は楽器歴が小学生のピアニカ止まりらしかった。

「金がないバンドマンみたいなこというなあ」

 元田くんはいった。割と的確だと思う。実際本人はピアニカマンだけど。

「素敵~」

 これは私。

「ああ、うん、いうと思ったよ……」

 岡島くんは、私を憐れむ――憐れまれることは何もしてないのに――目を向けた。

 私は、夢のある人が好きなだけ。その分、堅実な人も好きだけど。

「まあ、机上の空論だったけど、本当に百億円が現れるならね」

 佐伯くんはあくまで、空論なのだ。夢は夢のままでいいのかもしれない。実現までの労力が、死ぬほどめんどくさい人間なのだ。

「岡島くんはどうする?」

 岡島くんは眉間にしわを寄せて、それを伸ばすように親指を押し当てた。大きなつくりの手が好きだったなー、ということを思い出した。

「なあ、それって仕事限定?」

「ううん。一番大がかりにお金を使うっていうと、仕事かなって思っただけ」

「そっか」岡島くんはまた悩みだした。難しく考えるのが好きなのだ。典型的に、男だから、好きだったんだと思う。

「俺な……普通に世界一周旅行がしたいんだ」

「世界」佐伯くん。

「一周ぅ」元田くん。

「旅行!」

 これは私。

 その手があったか! 旅行。最も金を使う道楽だ。出不精の私だけど、それは全部仕事のせいであるから、百億円が手に入れば仕事なんてすぐさまやめる。私はお金と結婚する。そしたら多分、すぐさまアタッシュケースに百億円を詰めて、グットルッキングガイを引き連れて旅行に行く。多分。

「まあ、良心的な使い道だよな」

 元田くんはしっくり、という感じでうなずいた。熟考するのが好きなのは元田くんも一緒だ。

「全国ツアーの追っかけ……」

 佐伯くんはちょっと別のことを考えていた。それも旅行には違いなけれど。

「まあそれも、全部佐夜子次第ではあるんだけどさ」

 岡島くんは私の顔をじっと見た。黒い瞳に私が映っている、ように思う。

「私は……」

 正直、全部いいなって思った。映画だって、本当は和製サメ映画のクソな出来がみたいし、バンドの地下会場だって、私が仕切ってオーナーになったっていい。世界旅行だって行きたい。お金があれば全部できることだ。

「やっぱり少し考える」

 そう答えると、三人ともそうだよな、というように小さく頷いた。



💰


 アパートに帰ると、急に静かに感じだ。何もない空白が圧迫するような、いつも通りの散らかった部屋が、夕日で赤黒く染まっていた。密度の濃い影が、私は一人だってことをわからせるために居座っているようだった。

 百億円チケット。どうせなら、先に現金を送ってほしかった。この世のバグなんて、いらないにもほどがあった。金色に輝く一枚の、薄っぺらな紙切れ。

「これだけ渡されてもね……」

 声が、部屋の壁に吸収されていった。

 私はどうしたかったんだろう。百億円で解決できるようなこと。考えればたくさんあるのに、どれも、いまの私にはしっくりこなかった。

 鞄をベッドに放り投げ、上着ものその上に投げた。洗面所へ足を進めて、鏡の照明のスイッチを入れた。

 驚いたことに、いまの私は後輩の表情にそっくりだった。眉は八の字に下がり、口元は力なく開き、暗い目をしていた。可哀想なことをした。彼は、慰めてくれる彼女とかいるかな。

 もしも、百億円でかなうなら、全世界の人間に、素敵なパートナーを作ってあげるとか、してあげたいって思わなくもない。そういう、マッチング制度みたいなものができて、不安な時がひとつもなくなるような、そんな優しい世界であればいい。

 心が弱っている。紛れもなく心がしんどい。

 本当は、元カレたちに会いたかった、口実なのかもしれない。だったらもう、私の願いは叶ってしまった。百億円チケットだって、もう用はない。

 放棄はできないのなら、破棄はどうだ。部屋に戻り、投げ出した鞄を漁った。百億円チケットも、この中に放り込んでいたのだ。小さなポシェットの中に突っ込んでいたはず――そう思って探ったが、一向に出てこない。底に落ちたか、と鞄の奥まで手でさらってみても、レシートだのメモの切れ端だのばかりが引っかかり、肝心の、金色のチケットは見当たらない。一瞬、顔の血の気が引いた。

「消えた……?」

 私の願いが叶ったから?

 それなら、いいのだけど。

 元カレたちには、申し訳ないことをしたかもしれない。無駄に期待をさせてしまった。そもそも、本当に百億円、貰えたかはわからないけれど。

 なんだか気が抜けてしまって、呆けていたら、スマートフォンが鳴っていた。点滅が長い。岡島くんからの電話だった。

「佐夜子? いま家?」

「うん、どうしたの?」

 岡島くんは、なんだか慌てているようだった。電話越しに聞こえる音も、雑踏以上の騒がしさだった。

「何かあったの?」

「いや、家ならいいんだ。いま外が凄くてさ、お前の帰路あたり事故ってるんだよ」

「え?」

 アパート前はまだ静かだ。一応、テレビをつけて確認する。電源を入れると、緊急中継の真っ最中だった。

「なんじゃこりゃ」

 事故ってレベルじゃない。渋滞の玉突き事故、に交差点の衝突が加わって、その衝撃でビリヤードの玉のように飛ばされた軽自動車が、コンビニの自動ドアを突き破っている。しかもその先の道路もパニックになっているようで、衝突が相次いでいる。隙間を抜けようとしたバイクが対向車に跳ね飛ばされ、その身体がトラックのフロントガラスにぶち当たって割れた。さらにそのトラックがスリップして、歩行者通路に突っ込んだ。

 もしや、と思って、スマートフォンに向き直った。

「岡島くん、いまチケット持ってる? 百億円チケット!」

「あ! そうだお前チケット忘れてったろ!」

 まだあった!

 私はますます、血の気が引いた。変に汗が出て、スマートフォンが滑り落ちそうだった。

「それ、持ってると危ない! 譲渡したことになるかも」

「あ、そんな話あったな」

 岡島くんは、冷静だった。だけどその分、気まずそうな声を漏らした。

「悪い。あのな、中原に渡した」

「え?」

 中原くん。私の後輩。気弱だけど、心根がとっても優しい後輩。そしてこの間、叱ってしまった後輩だった。

「ちょうど佐夜子の家に行くって言ってたから、チケット、預けちゃった」

 だから、この事故連鎖が? よく見てみれば、確かに、事故の起こる場所が、私の家に近づいている。

「わかった、ごめん」

 岡島くんの電話を切り、急いで中原くんに電話をかけた。呼び出し音が長く続き、彼は十回のコールのうちに出ることはなかった。

 窓の外が、夕焼けから夜に落ちていた。赤い光は人工的なもので、サイレンの音が次第に響いてきた。人のざわめきが悲鳴に変わりつつある。車のクラッシュ音が、アパートの窓を揺らした。

 地震のような揺れが響いた。それは一歩ずつ、歩くような速度が、徐々に速まってきた。

 ドアの前で、様々な事故が重なりに重なったような、形容できない轟音が響いた。鉄骨が崩れたような音が聞こえて、しばらく耳鳴りが聞こえるほどの静寂が部屋中に満ちた。

 電子音のチャイムが、小さくなった。

 ドアノブに手をかけると、ドアが歪んでいるようで、軋んだ音を立てて開いた。ドアの先には、黒いほこりにまみれた手が覗いていた。

「せんぱいー!」

 中原くんその人だった。相変わらず、頼りなさそうな顔をしている。

「これこの間の、会議のプレゼン、と、岡島さんから。……自分なりに改善してみました。先輩今日、お休みだったので、つい押しかけちゃいました」

 彼は自信なさげに笑い、私に書類の束を手渡した。郵便受けに入れるつもりだったんですけど、と付け足した。金色のチケットは、やはり無傷のままだった。

「事故、大丈夫だった?」

「え? ああ、なんかずっと騒がしかったですね」

 中原くんは後ろを振り返り、初めてぎょっとした。鉄クズの塊が、大量に道路にまき散らされていた。

 彼のスーツはよれよれで、髪も呼吸も乱れていた。本当に振り返らないで、一直線に走ってきたのだろうか。

「こんなことになってたんですね……」

 本当に冷や汗をかいている人を、初めてみた。そんな彼をみていて、安心したのか、呆れたのか、自然と笑いがこみ上げてきた。

「な、なんか、おかしなところありました?」

 書類のことを言っているのだろう。私はまた、可笑しくなった。

「ううん、違う、違う。ただ、考えすぎも問題ねって。思ったの」

 彼は身体を縮めて、はあ、と自信なさげに声を漏らした。

「このあいだはごめんね。私こそ、ちょっと考えられてなかった」

 そういって肩をすくめると、「とんでもない!」と手を大きく振った。

「先輩に叱ってもらって、自分はまだまだ甘いんだって思い知りました。これからも、一生懸命頑張りますから、ご指導、よろしくお願いします」

 中原くんは深く頭を下げた。なんていい後輩なんだろう。自分が情けないような、くすぐったいような気持ちになった。

「ありがと。ねえ、中原くんだったら、百億円あったら、何がしたい?」

「えっ……そうですね。僕だったら」

 中原くんは考え込んだ。

「たぶん、期限がない限り、何もしないと思います。誰かにあげる気にもならないし、かといって使えないし……自分の目にも届かないところにあればいいなって思います」



💰


 上がっていく? と聞いたら、中原くんはいいえ、いいえ、と首を振って、また深く頭を下げて帰っていった。夜が深くなっていた。まだアパート付近は騒がしい。警察官や救急隊員が、道路を行ったり来たりしている。

 部屋のテレビは点けっぱなしで、しばらくは連鎖事故の中継が続きそうだった。また一人になった。けれど、もうあんまり、さみしくない。

 風呂のスイッチを入れて、お湯が張るのを待つ。ベッドにもたれかかり、百億円チケットを、天井にかざして、眺めてみた。

「自分の手の届かないところに、か」

 それはそれで、幸せだと思う。

 お金で解決できることが多いから、みんなお金を欲しがるけれど、本当に必要とするひとって、いったい、誰なんだろう。目を瞑って考える。世界の貧困とか、戦争とか、色んなことが目に浮かぶけど、遠いこと過ぎてわからない。

 私には、百億円はもったいない。

 そう思って笑うと、お風呂が沸いた知らせが聞こえた。

「だからね、私は」

 立ち上がって、ひとりで呟いた。手には百億円チケットを握ったまま、風呂場へと向かった。風呂のお湯は、透明な膜。今度は、ちゃんと服を脱いだ。

「百億円は、バグにしようと思う」

 神様、どうもすみません。

 クソくらえって、感じです。

 全身を包む熱い感覚が心地よい。目をつぶって、沈む私は、泡沫に紛れて、溶けてしまいそうだった。全身が熱くなり、湯船の外に顔を出す。冷たい空気が、じわりと肌を包んだ。顔を両手で拭いていると、いつのまにか、金の紙切れは消えていた。


 のちに、日本でレアメタルが発見されたけれど、それって私のせいじゃないよね?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜は静かなばかり 塩野秋 @shio_no_book

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ