第75話 終点

 いつもの黒いバトルドレスを纏った、見慣れた黒髪の少女。どことなく柔らかい雰囲気である事以外は、いつもの彼女となんら変わりない。

 だが、そこに立つのは昨日まで薬屋にいた、創造神アルタナとは全く別の存在だ。

 魔力を介して、魂や存在そのもので個人を認識しているハンクにとって、それが誰であるかなど、考える必要もなかった。


「……ラーナなのか?」


 恐る恐ると言った口調のハンクに向かって、ラーナが首肯する。

 そして、パニックから立ち直り、ゆっくりと立ち上がったハンクに、


「今、のんびり話をしている暇は無い。でも、後で沢山用事があるから、覚悟しておいて」


 それだけ言うと、意識を無くしてグッタリしているエステルをハンクに預け、女神ヴェルダンディの方を向いた。


「邪神フレイ、神器レーヴァテイン。そして、そこに格納された守護者ヴィリーとサラ先生の魂。全てを喰らい尽くした今、貴女の力はかつてない程高まっている。――女神ヴェルダンディ。それ程の力を得た今、貴女は何を望むの?」

「ほう……お主、面白いのう。最後に見た時は確かに人間であったはずじゃのに、今や立派な形代――いや、現人神じゃのう」


 自らに向けられた問いなど気にも止めず、女神ヴェルダンディはラーナを興味深そうに眺めた。

 刹那、女神ヴェルダンディの視界の端を、金色に光る何かがよぎる。


「これ以上、その顔で、その声で、なによりも同じ姿でサラ先生を冒涜しないで! 私がいるのを忘れて無いわよね? 女神ヴェルダンディ!」


 柳眉を逆立てたアリアがハンクの傍らから進み出て、神器ミストルテインに光の矢を番えた。女神ヴェルダンディの生命核がある心窩部に向かって、真っ直ぐ狙いを定める。


「おや、せっかちじゃのう。じゃが、その矢を射るのは、妾の話を聞いてからでも遅くは無いと思うぞ。なにせ、妾は邪神になど堕ちておらんのじゃからな」

「……どう言う事?」


 アリアが声を低めて問い返す。


「そもそも邪神とは、自らの眷属を喰らい、予定調和されたラグナロクに逆らおうとする神を指す。さて、ここで一つ問題じゃ。――果たして、サラは我らノルンの眷属であったかのう?」


 勝ち誇るかの様な笑みを浮かべる女神ヴェルダンディに、アリアはぐっと言葉を詰まらせた。

 なぜなら、それは7年前、当時預言者であったサラが、邪神フレイの器となるヴィリーの抹殺を拒否したからに他ならない。天上神ノルンの眷属であるサラが、主である女神スクルドに離反したのだ。

 結果、サラは預言者では無くなった。

 それはつまり――


「……いいえ、違うわ。天上神ノルンの庇護を離れたサラ先生は、厳密な意味で、どの神の眷属でも無いわ」

「その通り。正解じゃ。故に、妾は邪神では無い。謁見の間では大見得を切ってくれたが、残念じゃったのう、アリア」


 神器ミストルテインを構えたアリアが、唇を噛んで女神ヴェルダンディを見据える。


「どう言う事? 女神スクルドの未来予知が外れてる? これじゃあ、取引も何もあったものじゃあ無いわ……」

「まあ、フレイは妾の贄となったのじゃ。細かいことなど、気にしなくても良かろう。それに、これから妾とお前は共存する間柄じゃ。女神と精霊王なのじゃぞ? 仲良くやろうでは無いか」


 そう言って含み笑いを浮かべる女神ヴェルダンディに、アリアは眉根を寄せて最大級の不快感を表す。


 もし、目の前にいるのがサラであったならば、決してその様な表情を自分に向ける事など、ありはしなかった。穏やかで心優しいサラは、そういった謀とは無縁の人だった。なによりも、師弟として幼少期より多くの時間を共に過ごした彼女は、最も尊敬し信頼できる大人だった。

 そんなサラの姿で、声で、目の前にいる”偽物”は彼女を貶めていく。あまつさえその”偽物”は、自分に向かって、共存とか、仲良くなどと度し難い言葉を口にする。

 いくら神だからと言って、何をやっても許される道理など、あっていいはずがない!


 ――気付けば、アリアの碧い双眸から、涙が流れ落ちていた。


「どうして? ……どうして、サラ先生を選んだの? もっと知らない別の誰かだったら、少しくらいは私を騙せたかも知れないのに…………さよなら」


 アリアが神器ミストルテインの弦を一杯に引き絞った。

 あとは、マナを凝縮したミストルテインの矢を最大出力で放てば、全て終わる。

 ……はずだった。


「アリア。ちょっとだけ待ってくれないか? 女神ヴェルダンディと話がしたい。大丈夫。逃しはしない。ただ、どうしても知りたいことがあるんだ」

「ハンク……?」


 ハンクの手が、神器ミストルテインを握るアリアの手の上にそっと重なった。ほんの僅か、ハンクとアリアの間に沈黙が訪れる。

 しばらく迷った後、アリアは小さく頷くと、ゆっくり神器ミストルテインを下ろした。

 一言、ハンクはアリアに感謝の言葉を伝え、女神ヴェルダンディの方へ視線を向けた。

 

「女神ヴェルダンディ。アンタはさ、自分の事を邪神じゃないって言ったよな。だったら、今のアンタは何者だ? ……憶測だけど、サラの姿を奪い、地上を悠然と歩く今のアンタこそ、現人神じゃ無いのか?」

「ほう。鋭いところを突くのう、アルタナの守護者よ。」

「アルタナがさ、リンとハッシュをグレイプニルの内部に取り込んだ時と…………その、ラーナの肉体を棄てて、魂のみを取り込んで守護者に変えた時と、似てるなって思ったんだよ」


 自らの内に燻る罪悪感のせいか、ハンクの視線がちらりとラーナの方へ向いた。

 当然、ハンクの言葉に耳を傾けていたラーナと視線が重なる。

 厳しい表情を向けられて当然と言う思いから、ハンクはすぐに目を逸らしかけたが、結果はそれと異なるものだった。

 ラーナはハンクに向かってゆっくり頷くと、小さく笑みを浮かべた。そのまま、ラーナはその口を開き、


「ハンクの言った通りだ。女神ヴェルダンディ。貴女は箱庭で死と破壊の精霊を使って、サラ先生の精神を崩壊させた。その上で魔力を暴走させ、依代では無くなったサラ先生の魂との通路を再開通し、強制的に神降ろしを実行した」


 突然、ラーナがすらすらと語り出した内容に、ハンクのみならずアリアも目を瞠る。


「どうしてその手法を思いついたのか知らないけど、結果、それは成功した。そして、貴女は心身を喪失したサラ先生を操って、神剣の間にある神器レーヴァテインへ潜り込んだ。目的は1つ。強制的に神降ろしをしたサラ先生の魂が尽きる前に、それを生命核へ昇華させる事。……貴女の真の目的の為に」


 語り終えたラーナが、射る様な視線を女神ヴェルダンディへと向ける。ハンクとアリアもそれに倣った。


 ハンクは今まで、どうして女神ヴェルダンディがサラを選んだのか、ずっと考えて来た。

 しかし、そうでは無かったのだ。女神ヴェルダンディは、サラを選ばざるを得なかったのだ。

 これも、全てはある目的の為。どの神の眷属でもなくなったサラの出現は、女神ヴェルダンディにとって、千載一遇の奇跡に他ならなかったのである。

 それが分かってしまえば、どうして彼女がフレイの魂を取り込み、自身を強化しようとしたのかも納得がいく。

 それはまるで、無くしていたパズルのピースが見つかり、一気に完成に近づくように。


「女神ヴェルダンディ。アンタがフレイを取り込んだ理由は、300年後の最終戦争を単身で生き抜く力が欲しかったからだろ? でもそれは、1人でラグナロクを勝ち抜くためじゃ無い。もしそうなら、サラの身体を狙う必要なんて無いはずだ」


 ほう、と女神ヴェルダンディの口角が上がる。


「……ラグナロクから解放されて、女神ヴェルダンディとは違う、全く別の誰かになりたかったんじゃ無いのか?」


 沈黙を保つ女神ヴェルダンディに、ハンクが静かに尋ねた。途端、女神ヴェルダンディは、身を折る様に屈め声を上げて笑う。


「ククク……アハハ…………その通り、どれも正解じゃ。それにしても、よくもまあ、そこまで考えが及んだものじゃ」


 ひとしきり笑った後、女神ヴェルダンディの顔が怒りとも諦めとも違う何かに歪む。


「妾はもうウンザリなのじゃ。天上神も、冥界神も、なによりもラグナロクがの!」


 吐き捨てる様にそう言って、女神ヴェルダンディが一振りの短剣を手に持った。ハンク達に見せつける様にその短剣を振りかざすと、勢いよく自らの喉にそれを向ける。

 一瞬の出来事にハンク達が言葉を失っていると、そこには、自らの喉を貫く寸前で短剣を止めた、女神ヴェルダンディの姿があった。


「血迷ったかとでも思ったじゃろう? じゃが、結果は見ての通りじゃ。妾達、神と言われる存在は自死を許されておらぬ。当然じゃ。神が自ら命を断てば、眷属達への加護が無くなり、結果として彼らを死に追いやるのじゃからのう」

「……何が言いたいの?」


 自らの眷属という言葉に反応したアリアが、女神ヴェルダンディに冷たい態度で答えた。


「アリアよ。まだ年若いお主には分からぬかもしれぬがな、1000年を生きるハイエルフにとって、退屈は苦では無いか? それはのう、無限を生きる妾達にとっても同じ事。死よりも辛い無限の牢獄じゃ。じゃから、神々は予定調和された死を欲した。退屈から抜け出す為に! ……それがラグナロクの正体じゃ」


 滑稽じゃろう? と両手を広げた女神ヴェルダンディが自虐的な笑みを浮かべる。


「だからってサラ先生や私達、それにラーナや箱庭の子供達まで、貴女の我儘のために犠牲にして良いはずがないわ!」


 激昂したアリアが、再び神器ミストルテインを構えた。弦を引くアリアの手の中で、超高圧縮されたマナが、1本の矢を形作ってゆく。


「退屈は神をも殺す! 自死が出来ぬのならば、同胞、眷属、他種族をも巻き込んで神々の終末ラグナロクを演出する! もう沢山じゃ! もう……嫌なのじゃ……」


 女神ヴェルダンディが駄々をこねる子供の様にかぶりを振って叫び、最後の方は消え入りそうな声で呟く。


「結局、妾に自死は叶わなかった。それはつまり、妾が未だ天上神であると言う証左じゃ。そんなもの、もうまっぴらじゃというのに……」


 神器ミストルテインの前で、女神ヴェルダンディが、ゆっくりと大きく両手を広げた。


「妾の名は女神ヴェルダンディ。不安定な現在を司る神じゃ。神話の時代、確定された過去を司る女神ウルド、未確定の未来を司る女神スクルドと共に、運命の女神ノルンとして他の神々とこの異世界へと流されてきた。だと言うのに、ユグドラシルもないこの地で、他の生き残った神々共々、ノルン達は相も変わらず戦争を続けようとしておる。……もう沢山なのじゃ。退屈も、戦争も、何もかも。じゃから、妾を終わりにしてくれぬか?」


 刹那、天から降り注いだ光の矢が、女神ヴェルダンディの周囲に降り注ぎ、牢獄の様に彼女を取り囲んだ。

 そして、神器ミストルテインにマナの矢を番えたアリアが、静かにその手を離した。







「――莫迦みたい」


 ポツリとそう呟いたアリアが、金色の髪に表情を隠したまま、女神ヴェルダンディの生命核を拾い上げた。

 白銀の生命核に自らの顔が映り込む。


 ―― 退屈は、苦では無いか?


 そう尋ねた時の、最後に終わらせて欲しいと言った時の、女神ヴェルダンディの顔が、妙に頭から離れない。

 しかし、そうは言っても自分の年齢はまだ160歳そこそこ。エルフとしては少女の部類だ。当然、女神ヴェルダンディの真意など分かるはずもないし、分かりたいとも思わない。

 とは言え、精霊王エントから精霊核を引き継いだ今、自分はエルフであってエルフでは無くなってしまった。これよりこの身体は、精霊核の力によって長い年月の果てに、生身のエルフからマナそのものへと変質していくことが決まっている。

 精霊核継承の際、いつの間にか頭の中に書き加えられていた知識が、自分に寿命という言葉は存在しないのだと裏付ける。

 であれば、そこは女神ヴェルダンディと同じ土俵の上。当然のことながら、いつか自分が女神ヴェルダンディと同じ過ちを犯さないとも限らない、そう弱気な自分が言う。

 だが、心の奥底で怒りを燃やすもう一人の自分が、そんな自分を嘲笑う。

 女神ヴェルダンディは、サラを直接死に追いやった憎き仇だ。その手段は余りに非道。その上、動機は余りに自己中心的で、情状酌量の余地も無い。

 仇を討てた事に喜びや達成感を感じて当然。もし、目の前にサラがいたら、胸を張ってやり遂げたよと報告できるはずだと。

 ……だというのに、不思議と心の中のモヤモヤはしていて、すっきりと晴れ渡ってはくれない。


 漠然とした不安に終着点を奪われた復讐心が、アリアの心に爪を立てる。ポツリと呟いたその言葉は、行き場を失くしたアリアの感情そのものだった。







「そんなにトガるなよ。お互いすぐには死ねない身体なんだ。それに、せっかく冒険者になったんだぜ? 色々世界を見て飛び回ってれば、退屈なんてしないだろ。頼りにしてるぜ、相棒」


 唐突にそう言って差し出された手の先で、ハンクが笑顔を浮かべる。まるでアリアの不安を優しく包むかの様なハンクの言葉に、アリアは目を瞬かせた。


「……急にそんな気の利いたこと言って……キミ、どっかで頭ぶつけて無いわよね?」

「どうしてそうなるんだよ! 俺だってそれくらい察してもいいだろ!」


 いつもの調子に戻ったハンクを見上げながら、破顔したアリアがその手を取って立ち上がった。

 だが、少し離れたところからこちらを見る視線に気付いて、表情をすぐに引き締める。突然、真顔に戻ったアリアの視線を辿ってハンクが後ろを振り返ると、そこには黒髪の少女がグッタリとしたエステルを抱いて立っていた。

 あとで沢山用事がある。そう言った彼女の言葉を思い出して、ハンクはゴクリと唾を飲み込んだ。


「今は我、アルタナだ! ハンクよ、貴様が他人の傷心に浸る暇など無い!」

「なっ! アルタナ……なんで今出てくるんだよ! そう言う空気じゃなかっただろ!」


 思わず食ってかかるハンクに、アルタナは冷酷な嘲笑を浮かべて答える。


「愚か者! 空気など読んでいて、退屈が凌げるとでも思っておるのか? ……まぁ、よい。今回の試練はこの少女、エステルだ。心してかかれ」

「なに考えてる! エステルは父親を失ったばかりなんだぞ!? ふざけるのもいい加減にしろよ!」


 怒りの声を上げるハンクのことなどお構い無しに、アルタナはエステルの心窩部にその手をあてがった。


「祝福しよう! 我が眷属よ。起動せよ、神器ダインスレイフ!」


 瞬間、エステルの体に膨大な量のマナが流れ込み、強烈な光を放ったのだった。 

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