第4話.Jeté 捨てる。
私の血の味は苦かった。
甘い人生なんかない。今までの苦労は何だったんだろう。
苦労? 私は苦労だなんて思っていない。
楽しかった。
念願の日本に来て始めたこの仕事が楽しくて、生きることがとても幸せで、たくさんの仲間に出会えて。
私は幸せだった。
でも、その幸せは一度にすべて私の前から消えうせた。
カーテンの隙間から外の明るさが、少しずつ私を照らし始めていた。
部屋中に散らばった荒れ狂った後のかけらをただ目にして、何も考えることすら出来ないのに、なぜか体中が急に火照りだす。
熱でも上がったのか?
訳の分からない病気のせいだろうか?
病名さえも分からないなんて。なんでもいいから私は、この病気で死ぬんだという何か実証が欲しいのか。
それともまだ信じていないのか?
もう時期死を迎えるというのに何も変化がない。
いたって健康。
心の中以外は……。
おもい体を何とか動かし、シャワーを浴びに向かう。
シャワーを浴びれば少しは気がまぎれるだろうか?
これは現実じゃなくて、夢だったら。
目覚めればいつもの通り、和樹が傍にいて微笑んでくれる。
きっとそうだ!
着ているものを一枚ずつ脱ぎ捨てた。
ブラのホックを外し、押し絞められていた胸を開放して一息つく。
最近少し太ったのか?
また少し胸が成長したかのような気がする。この年になってもまだ私は成長期なんだろうか。
それでもウエスト周りはまだすっきりしていると思う。
補正下着なんか使わなくても、体形の維持位は出来ている……つもりだ。
その白く透き通るような肌に、少しぬるめのシャワーのお湯が全身を包み込む。
たちこめる湯気の中
「ほんとうにこれは夢よね」
と、ひとり呟いた。
バスローブを身につけ、部屋の扉を開いた。
虚しさが私を包み込んだ。
さっきと何も変わっていない。
夢じゃないんだ。……現実。
そう、これは現実だ。
この荒れ果てた部屋がそう私に言い聞かせている。
「そっかぁ、現実なんだ。夢なんかじゃないんだ。なぁんだ、夢かとおもっちゃった」
あれ? 意外と冷静なんだ、私。
不思議と虚しさや悲しみ、怒りが薄れている。
現実を受け入れようとしている。
これって病気のせい?
こういう病気なの?
訳わかんない。
「あはははは」
なんだかおかしくなってきた。
笑えて来た。
ふと目にするガラスの破片。
何も考えていなかった。
ほんとうに何も考えていなかった。体が、手が自然とその破片をつかみ取った。
鋭くとがったガラスの破片。
この次に取る行動はおのずとわかっていた。
恐怖?
何も感じない。これを無意識というんだろう。
バスローブがはだけ、白い肌があらわになった。
乳首のあたりから徐々にはってくるような感覚。
この感覚。私かんじている……
なんだか気持ちいい。
ぬくもりはないけれど、誰かに愛されているような。そんな感じ。
この破片をこの胸に突き刺せば。
案外死ぬときって、気持ちいいのかもしれない。
興奮はしていない。でも私の躰すべてにエクスタシーが駆け巡ろうとしている。
ピンと張り詰め、固く立ち上がった乳首。
痛いほど固くなっている……。
ゆっくりと、鋭くとがっているガラスの破片を自分へ向け、破片を持つ手に余す手を添え。
徐々に高鳴る鼓動にめがけ。
赤い血が、あの苦い私の赤い血が一度に噴き出るだろう。
辺り一面真っ赤に染まる。私のこの白い肌も赤く染まる。
カーテンの隙間から差し込む光に照らされ、きらりと輝くその破片を。
突き刺す……。
インターフォンのチャイムが鳴った。
その音に反応するように動きも止まった。
またチャイムが鳴る。
急速に熱が冷めてしまったかのように、手にしていたガラスの破片が手から落ちた。
そして、またチャイムが鳴り響く。
その音に呼ばれ、ふわりとした感覚のまま立ち上がってインターフォンの画面を見た。
誰もいない。
なにも映っていない。
いたずら? こんな時に。
ふらふらと玄関に向かい、ロックを解除してそっとドアを開けた。
バスローブ一枚の姿で。
ドアの隙間から、黒い影? 黒い布地が見えた。
「ようやく開けてくれた! よかった」
「誰?」
「初めまして、スレイユ・ミィシェーレさん」
そこにいたのは小柄な、まだ若きシスターだった。
◇◇
「誰? あなた。神のご加護ならもう私はいらないわよ」
「そのようですね。でも、下着ぐらいは履かれた方がよろしくないですか? 目のやり場に困ってしまいます」
その言葉にはっとなり、バスローブであらわになった体をくるんだ。
「綺麗な身体なさっているんですね。出来ればこのドア開けていただければ助かりますけど。ちなみに布教で来た訳じゃないんですけど」
私よりかなり歳は下の様に見えるけど、その姿がそう感じさせているのか? それとも彼女自身がそうなのか。
目の前のその彼女から感じる清楚な感じが私の手を動かしたのだろう、ドアチェーンを外し、玄関ドアを開けた。
「とりあえず、入ってくれる? この格好で開けっ放しはまずいでしょ」
「そうですね。それではお邪魔します」
ゆっくりと彼女の足が動いた。
コツリ、と。片方の足が玄関の床を鳴らした。
違和感のある音。その足元を見ると、ヒールのない黒のローファーの靴。
私が子供のころから見ていたシスターの靴とは少し感じが違う。着ている修道着は同じようなものだが、靴一つでイメージがこうも変わるものだろうか。
裾の長いローブから見える黒い靴。そしてさっき聞いたコツリと床を鳴らした音。
立っている彼女のその姿はいたって普通のシスターの姿だ。
そんな違和感を感じながらも。
「布教じゃないなら、あなたがここに来た理由は何? それにどうして私の名を知っているの?」
「どうしてあなたの事知っているかって? そんなこと別にいいんじゃない、スレイユ・ミィシェーレさん。そういえば私まだ名乗っていませんでしたね。私の名はカオリ・ラヴィナーレ。一応、母親がフランス人で父親が日本人のハーフっていう設定なの」
「設定なのって?」
「そう、設定。そして私はシスター、神の使い。私は、主の使い。主の御心のままにあなたを導くためにここに来たの」
「主の御心のままに私を導くって……」
ああ、なんだ! もう迎えが来ていたのか。
そっかぁ私、死んだんだ。
あっけないな。死ぬのって。
もっと痛くて苦しいものだと思っていた。
気持ちよく死ねたんだ。それならよかった。て、言うことはやっぱりこの子は私の魂を天国に導きにやってきたんだ。
あと2カ月くらいは時間あったんだけど、ま、いいかぁ。どうせ、どうあがいたって死ぬことには変わりはないんだろうし。
そんなことを一人考えている私に、少しもじもじと躰をさせながら彼女が私に言った。
「ねぇ、黙って立っているの今私ちょっと苦しんだぁ。だって結構歩いてきたんだもの。あの凄まじく散らかったお部屋で構わないから座らせてもらえないかしら、それにのども乾いちゃった。できれば何か飲み物ほしいんだけど」
はぁ、もう何もかも知ってるんだ。そうよね、主の使いだし当然か。でも最近の使いはのども乾くんだ。人間らしいのね。
気が楽になった。もう死んでいるていうことが、こんなに気持ちを安らかにしてくれるなんて思ってもいなかった。
でも、あの部屋に行けば私の無残な亡骸が残されている。
それを私もこの子も見ることになるんだろうな……それはちょっと嫌かもしれない。
仕方ないか。ま、この子は見慣れているかもしれないんだろうけど、一言言っておいた方がいいんだろうね。
「中にいれるのはいいんだけど、物凄く悲惨な状態よ。それに、私の亡骸が残っているけど大丈夫? 多分、あなたは見慣れているとは思うんだけど」
彼女はゆっくりと顔を上げ、私の目を見つめながら
「亡骸ですか?」と言った。
「だって私もう死んだんでしょ。今ここに居るのは私の魂。だからその抜け殻がまだ残っているんでしょ」
当然の様に言う私に彼女はにっこりとほほ笑んで
「スレイユ・ミィシェーレさん。あなたはまだ死んではいませんよ」
「えっ! それってどういうこと?」
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