第五十四話 時代

 空には満天の星々が燦然としていた。

 今宵は雲もない新月であり、彼らの輝きを妨げるものはなにもない。地上の人々の目には、深い漆黒に金砂銀砂を鏤めたような星界が広がるのみである。

その星界を、白は京の都を北へと飛んでいた。

 目指すは北嶺、すなわち比叡山延暦寺である。

 

 平安の世から京の都の鬼門に位置するこの延暦寺は、伝教太師最澄が開いた比叡山全域を境内とする寺院だった。『延暦寺』といっても、一つの寺の名称ではなく山上から東麓にかけて位置する東塔、西塔、横川などの区域、すなわち三塔十六谷に所在する二千を超える堂塔の総称である。

 

 皇族貴族の絶大な尊崇を集め、高野山と並ぶ国内最高峰の仏教の権威であり、親鸞、日蓮、法然といった歴史に名を残す大僧侶たちが多数輩出している仏教における大聖地。さらにここは単純な学舎としてだけではなく、その権威に伴う独自の武力(多数の僧兵)と財力を有しており、荘園制度があった頃は完全な不入権を認められた等、一種の独立国の様相を呈していた。


  白は山と寺に張り巡らされた幾重もの結界を軽々と打ち破り、白は一気に最奥の建物へと進んだ。並の僧侶たちは、この稀代の侵入者に全く気づかずに眠っているらしい。白は自らの霊気を隠してはいなかった。霊気妖気に敏感な僧侶であれば、この異常事態を察知して飛び起きてくることだろう。しかし、それがない。その事だけを見ても、今この場にいる僧侶の大半が堕落していると白は思った。

 

 しかしさすがに本堂である根本中堂に近づくと、人の気配がした。ただならぬ妖気に警戒して、中から慌てて二人の僧侶が出てくる。一人は老人であり、松明を翳したもう一人の若い坊主に支えられて、ようやく石畳を歩いていた。老僧の衣は華美で、彼が相当の高位にあることを示している。

 

 二人は空中の白の姿を見て、驚きを隠せない様子だった。この国でもっとも尊い聖域の一つである叡山に、このように壮絶な力を持つ人外の者が侵入してきたのは、開山以来七百年、前代未聞の出来事だった。

 もはや松明など必要なかった。空中に浮かぶ獣は燦然と光り輝いており、夜の聖域を照らす眩しい光とともに凄まじい迫力を放っている。この妖気に類するものさえ感じなければ、神仏の使いか、神仏そのものと思っても不思議ではない。


 老僧は印を結ぼうとしたが、白が一睨みしただけでたちまち動くことが出来なくなった。

しかし、若い僧侶は震えながらも声を張り上げて叫んだ。


 「物の怪め、ここを天台宗が総本山延暦寺なるぞ。ましてここにおわすは前天台座主、尭尊様なるぞ。無礼者め、控えよ」


 「ほざけ、仏の道を見誤りし坊主どもよ。我が誰か知っての言いようか」

 白は永遠と無限を表す金色の尾を逆立て、まるで日輪のような無窮の光を僧侶たちに浴びせた。


 僧侶たちはおおっと声を上げて目を押さえる。


「我は白面金毛九尾の狐なり。天地の精気から誕生し、天より大命を授かった神獣である。控えよ」


 その迫力に、僧侶たちは戦くしかなかった。目の前にいるのは、紛れもなく神仏に並ぶ存在である。その事だけは、直感で分かる。


 けれども前天台座主であったという老僧は、なんとか体裁を保ちつつ腹に力を込めた。


「ならば、その神獣が我らが叡山に何用じゃ」


「何用・・・だと?」


 白は激怒して咆哮した。たちまち叡山が震える。

 僧侶たちはよろめき、なんとか立っているので精一杯だった。


 「お前たちが、私の半身を騙し、暗躍していたこと我は既に知っているぞ」


「な、なに」


「私の記憶が完全ではなかったとは言え、まさか仏に仕えるお前たちが我が半身に呪をかけ、騙し、星読みの大計画を画策していたとは思いもしなかった。鳥羽帝を唆し、私を討とうとしたのもお前たちだな。だが考えてみればさもありなん。そもそもお前たちは平安のころから独自の勢力を持ち、まだ絶大な権力を誇っていた朝廷ですら神仏の権威で押さえつけた。そういう権力組織がこの乱世に何もしないはずがない。そもそもこの乱世の原因たる応仁の大乱もお前たちが引き起こしたのだろう」


「ふん、そうよ。あの大乱は我らが描いたものじゃ」


 尭尊はでっぷりとした腹を揺らし、さも自慢げに開き直った。


「当時、世の中はすっかり武士の世となって久しかった。時の将軍義教は、かつての天台座主でありながら、還俗して将軍になるとあろうことかこの聖地を完全に取り込もうと卑しい陰謀を企てよった。あの時、我らは仏の聖地を守るため暗躍した。そしてあの大乱が起こり、目論見通り幕府は崩壊しおったわ」


「その結果、どれほど天下が乱れたと思っている」


「お前は誤解しているぞ。あの大乱がこの乱世を引き起こしたのではない。あの時、既に天下は武士どもの縄張り争いで戦乱の萌芽があった。我々があの大乱を計画し、幕府を弱体化させたことは確かだが、それとは別に、世の乱れはすでにあったのじゃ。この乱世の責任を我々に問うというのは筋違いというもの。時代はすでに動いていた。

 お前の半身にしても、我らは騙してなどおらぬ。人の本性はやはり悪じゃ。だからこそ善の極みたる仏の教えがあり、導く神がある。あの者と語った話は全て我らの本心であり真実。

 そして最終的な目的はやはり太平の世じゃ。朝廷の学者たちよりも遙かに早く星を読み解いて若子の出現を知った我々は、その実現のために近衛を操り奔走していた。自分の事しか頭にないほとんどの武士とは違い、我々は天下の為に動いておるではないか。我らは善を行っている」



「お前たちは、ただの僧侶ではないな」

 自慢とも弁解ともつかない尭尊の言葉を無視して、白は本質を突いた。


 「この比叡山の黒幕は、朝廷か」


 核心を突かれて、尭尊と若い僧はまずいと目を見合わせた。二人はこの神獣が自分たちの心を読む術を使ったのかと戦いたが、そうではなかった。もはや人智を遙かに超える白の明晰な頭脳は、突然ひらめくように真実に辿り着くことが出来るようになっていた。

白は金色の瞳を老僧に向けて、語り始めた。


 「なるほど、叡山と朝廷との関係はこの三百年の間変わったのだな。尭尊、お前の出自は皇族・・・そうか、朝廷はこの叡山の指導者に皇族摂関家の者を送り込むことで徐々に取り込んでいったのか。つまり叡山は朝廷の秘密組織でもあるわけだ。とすると、今回の計画、若子が乱世を治めるのを助けたとしても、最後には朝廷が再び政を取り戻すというのが真の計画だな」


 二人の僧侶は目を見開いて絶句した。この叡山で最も深く、決して知られてはならない秘密を、どうしてこの狐は知っているのか。


 「良いだろう。お前を神獣と認めよう。若子による天下統一の末にあるのは、朝廷の復活じゃ。我らはその為にあるのだから。だが、今やお前も知っているのだろう。この国は太古の契約によって、皇の一族が帝位に就かなければ成り立たぬ。現実を見るがよい。この乱世の後、本性が悪の人の世を統治するに相応しい存在が、神より永久を約束された帝以外にあろうか」


「それは武士の台頭で答えが出ている。契約の証である三つの神器は、一つが欠けてしまった。欠けたのは軍権の象徴でもある剣。だからこそ、武門による幕府が開かれた。これが答えだ。この国の君主は帝以外にあり得ないが、もはや帝にも朝廷にも武力は戻らない。武力と行使する力が無ければ、統治はできない。ならば統治は武門に任せ、自らは君臨するしかない。京の朝廷と幕府、これが欠けた契約と現実に基づいた極めて妥当な形。この戦乱が終結したとしても、この形以外になり得はしない。この形でも、天壌無窮の神勅はこの国を守護するだろう。そしてなにより、人の本質は善である」



「やかましい。たとえ神器はなくとも、この国の統治するのは帝と朝廷である。武力がないというのならば、裏から操ればいい。我々は、もし破壊の若子が朝廷や帝に弓引くことがあれば、すぐに始末できる人脈も持っている。兵とは違う、こういう力が我々にはあるのだ。この力で、我々は政を取り戻す。この国の本来あるべき、美しい形に戻すのだ。我々は、時代を作る」


 時代、という言葉に白はもう一度大きく吠えた。

 尭尊はとたんに震え上がる。


「人は存在そのものが愛である。一人一人の魂に小さな愛が宿っている。それが集まれば大きな意思となり、情熱となり、大きな力となって時代を動かす。そこには一人一人の思いが込められてなければならない。なぜならこの世は人の思いの創造物だからである。決して、一部の人間の手によって、時代が、世界が動かされてはいけない。人の世でどのような形の政を執っていようと、その法則は変わらない。もしそれを犯すことあれば、それは理の蹂躙である。果てに待っているのは破滅。我はそれを判定し、介入できる大命と大権を天より得ている者なり」


「天よりの大権と大命だと」

「左様。天は善と悪を生みだし、王や帝に国を統べる大権を与えた。だが時代を作るのは人々の善と悪、苦悩と情熱である。我はそれを見守る者なり。だからこそ、我はあらゆる理を越えて人界にいられる。我は時代に翻弄され、埋もれ、そして作り出す人々の化身なり。尭尊、お前たちのやってきたことは仏法はおろか道にも反するものぞ」


「ふん、この乱世で道を説くか」


「小僧のお前は知らぬまい。道も、仏の法も、全ては乱世で人より誕生した。人々の苦悩と叫びと情熱と善意が、新たな願いとなって世に創造されたのだ。この奇跡がお前には分かるまい」


小僧と呼ばれた老僧は、確かに相手に比べれば時分は遙かに年少だという事実に気がついて、顔を赤くした。


「ふん、神仏の教え、宗教など所詮は権力を持った者が、民を統治しやすいよう洗脳する仕掛けに過ぎぬわ。人の心、教えや善意よりも、実利こそが国を救う。お前は数千年にわたって人界にいながら、そんなことも理解出来ないのか」


 仏教の聖地、この叡山の先の最高指導者の言葉に白は思わず言葉を失った。すると今度はなにやら急に可笑しくなり、叡山の天空に響き渡るほど高らかに笑い出した。


 「はっ、ははは。なんとも手前勝手な理屈だ。我はこの叡山を滅ぼそうとここに来たが、気が変わった。我が手を下すまでもない、もはやこの叡山の心根は滅びておるわ。ああ、予言しよう。近い将来、この叡山は滅びる。だか我が滅ぼすのではない。怒りが、天を騙って翻弄された人々の正当なる怒りが、この地の腐敗を燃やし滅ぼすのだ。覚えておくが良い!」


 白の身体の金色の光はさらに強くなり、まるで何かが爆発するほどの勢いで炸裂すると、一瞬で光は消え、後にはもう姿はなかった。


 尭尊と若い僧は、しばらく目を守って固まったままだったが、ようやく嵐が去ったのだと確信するとへなへなとその場に座り込んだ。


 「ぎょ、尭尊様、大丈夫ですか」


「ああ。お前も大事ないか。しかしなんとも無礼な痴れ者じゃ。この仏教の聖域でなんと不遜な態度。一体何様のつもりじゃ。まして儂は第百六十四世天台座主、しかも法親王であるぞ」


 まだ白のいた空中がよほど恐ろしいのか、勢いの良い言葉は沈黙する大地へと投げられていた。それでもまだそんな言葉を言えるだけ、ましである。自分は呼吸を整えるのだけで精一杯と若い僧は思った。

 「そ、そのとおりですとも。尭尊様。我らには仏の守護がございます」


「ふむ。その通りじゃ。民を守る為に我らはある。人はなんとも弱い。生まれながらにして悪の心がある罪人じゃ。だからこの世は乱れるのだ。だがそれは帝と朝廷、そして我らがあってこそ救われる。その為に万民の犠牲があったとしても仕方ないことなのだ。それは民にとって崇高な行為であり、当然の義務。

 だから我らも導く者としての義務を果たす。悪を抑え、善に導く政の礎を築くのだ。

だが私もこの通りもう年じゃ。脈々とと受け継がれてきた叡山の秘密も、お前にはすでに一部は伝えていたが、先ほど語られたのがこの叡山最大の秘密である。今宵語られたこの国の神秘と、真理を忘れてはならぬ。天海、お前はお前の兄の光秀ともに、この国を守る剣となるのだ」


 天海と呼ばれた若い僧は深く頷いた。


 かつて、この乱世で生き残るため、兄とともに弟の骸を喰らったこの身である。自分は悪だった。善であるはずがない。この身を天下太平のために捧げることこそ、自分の使命であり贖罪なのだ。

 南天に光輝く星々を眺めながら、天海はこの国の行く末を思った。


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