第二十四話 月夜
玉庭に乱れ咲いた藤が、月の白い光に照らされていた。薄紫の小さく豊かな花々は優雅に風に揺れており、昼間の咽せるような肉感とはまた違って、儚い趣となっている。石庭は月光を受け、さらに白く流れ、幻のような藤と併せて、この見事な庭を俗世とは切り離しているようである。
どこからか聞こえてくる鳥の声は寂しい。そこからの寂寥感までもが、この白い世界には相応しいような気がした。
屋敷の一角、綾姫は縁の側で細い月を見上げていた。
(父上は、兄上を選んだ)
康政から星読みの事情を聞かされた時、脳裏にはすぐ父国親の姿が浮かんだ。もし長宗我部が四国の覇者となるのなら、確かに兄の方が向いているというものかもしれない。全体を見る立場に生まれた者としては、共感できなくもない決断ではある。
だが、それならば自分の今までの人生はなんなのだろう。十六の今まで男として育てられて、自分もそうあろうとしてきたというのに、兄が家を継いでしまえば、自分はもう用無しだというのか。
兄が跡目を継げば、『元親』は長宗我部に居場所はない。
綾姫は今になって初めて、その事を実感として理解できた。ただそれは、遙か以前から国親には分かっていた事だろう。
(私は、切り捨てられたのか)
もしそうであったら、自分は深い失望の後に、彼とあの場所を憎むまずにはいられない。親と兄を憎みながら自分は復讐を誓うのか。それは何とも重いような気がした。
そこまで考えると、綾姫はもう一つの話を思い浮かべた。
(いっそ、長宗我部を捨ててしまおうか。ただの綾、いえ新たな名を名乗ってどこかで静かに暮らすのだ。虎之助ならついてきてくれる)
一条家に居着くのも悪くないと思った。自分は、兼定と秘密を共有している。その立場から彼に協力なりなんなりできる事があるかも知れない。幸い自分は、長宗我部の若君として様々な教養も身につけており、ここの女房になっても十分働く事が出来るのではないか。土佐一の名家で働くというのも、それはそれで楽しい事かも知れないと、綾姫は楽観してみた。
そして苦笑する。
(駄目だ。そう簡単に割り切れない。長宗我部の元親も、私の人生だったのだ)
新しい生活などそう簡単には出来ない。綾姫はふと、勝隆と初めて会った時のことを思い出した。
あの時勝隆は、自分には平家再興の意思はない、けれど自分はやはり平家の勝隆なのだと綾姫に告げた。その意味を、彼女はよく理解しているつもりだった。自分が一体どういう存在で、何と繋がっていて、どのような歴史をもって今ここにいるのか。彼は自分の存在の証明はやはり『平家』にあり、それは簡単には捨てる事が出来ないのだと言ったのだ。
(そう、自分にとって今まで全てだったものを、簡単に捨てる事などできはしない)
生き方を変えるというのとはまた別の意味で、今までの自分の歴史と無縁に生きる事など、簡単にできはしないのだ。
そこへ夏の夜風と共に、誰かが縁側へとやってきた。
薄い月光の下に現れた相手は、勝隆である。綾姫ははっとする。向こうもまさか綾姫がここにいるとは思わなかったようで、二人同時に同じ顔をした。眠れないのだ。
短い間とはいえ、一緒に旅をしたことから、二人はそれなりに親しく話をするようになっていた。けれどもあの康政の言葉から変わってしまった。お互い、微妙な距離を保ちつつ目を合わせるだけの関係になってしまっている。
綾姫にしてみれば、勝隆の包みを差し出せば、一条の助力を得て兄を討ち岡豊に返り咲くことができる。しかし勝隆にとってその包み、すなわちこの神器は一族の神であった至宝であり、それを他人のために差し出すわけにはいかない。
もちろんそんな事は両人とも分かっている。しかし、どうしてもお互い淡い期待と警戒心、罪悪感を抑える事が出来ず、このように距離が離れてしまっていた。
「・・・綺麗だな。俺は山の中で育ったからあまり教養はない。けどここにいると、風雅というのがどういうものであるか、何となく分かる気がする」
今日あった全てを忘れたように、勝隆は穏やかな顔で月光を浴びていた。
綾姫はちらりと勝隆の顔を見る。月に照らされた彼の顔は凛々しく、凛然とした若武者の顔がそこにある。
それに気づいて、綾姫は少し心が落ち着かなくなった。
「そうね、私もここが好き。こんな美しい場所は、この世にそんなに無いんじゃないかしら。都ならばいざ知らず、ここの他は四国は未だ荒々しい天地だわ。こんな時でなければ、お酒や月や花に酔うことが出来たでしょうに」
今年も例年通りであればあと少しで一条の誇る藤見の館、藤遊亭 で大きな宴が催される。夜の藤も良いが、土佐一条家伝統の行事であるあの藤見の壮麗さを、綾姫は勝隆にも見せたいと思った。
「綾姫は立派だ。大変な目に遭っても弱音を吐かない芯の強さもあるし、そういう雅な心も身につけている。きっと、俺の知らないことを沢山知っているんだろうな」
ふと見せた彼の暗い横顔を、綾姫は意外に思った。
「そんな事はないけど。今の世に生きるものなら、普通の事よ。勝隆だって、これから覚えればいいのよ。知りたければ白殿が教えてくれるでしょう?」
勝隆は目を庭に向けたまま、表情は変わらなかった。。
「うん。そうだな。いや、そういうのじゃないんだ。そうじゃなくて。山から出てきて俺は、随分自分が何も知らない、何も出来ない奴だと思い知らされることがばかりだった。・・・俺は一人前なんだと思っていた。けどそうじゃなかった。村を出たら、白がいなかったら、俺は何にも出来はしなかっただろう。綾姫も助けられなかったかも知れない。そう思うと、なんだか今までの自分は何だったんだろうって」
「山では、勝隆はどんな風に暮らしていたの?」
「毎日馬術や剣術を磨いて・・・今思えば馬鹿馬鹿しい。一体俺たちはなにをしていたんだろう。そんな事で、平家の再興が叶うと信じていたんだから」
表情は決してそうでは無いのに、自嘲のような笑いだった。
綾姫はここで初めて、彼の一族が再興を諦めたのは、つい最近のことなのだと気がついた。つまりこの少年は、およそ三百年、一族が山に籠もり脈々と守り続けていた志を放棄した、まさにその世代の人間なのだ。
信仰に近かっただろう志を捨てた時、一族やこの少年はどれほどの衝撃を受けたのか。 旅の途中、平静を装い、自分を励ましてくれたこの少年の心の傷は、実は一体どれほど深いのだろう。いささか無愛想過ぎる彼に対し実は、朴念仁と心で悪態をついていた自分が恥ずかしくなった。
彼の性格は無垢にも映る。自身は拉がれた心を隠し気丈に振る舞っているだけに、その横で苦労や恨みの影すら持たぬこの少年を、綾姫はどこかで見下していたのだ。
(ただ真面目な、無垢で朴訥な人だと思っていたのに・・・。勝隆は、自分の気持ちを態度に表すのが苦手なだけなのかもしれない。本当は、とても繊細で、心に沢山の傷を負っているのね。だから)
「・・・捨てられないと言った昔の生活を、馬鹿馬鹿しいだなんて思うのはよくないわ。その時の勝隆がなければ、今の勝隆は無いでしょう?今の勝隆は、とても立派だわ。白殿がいなくてもあなたはきっと私を助けて、ちゃんとここまで連れてきてくれたはずよ」
ふいに見上げた勝隆の顔があまりに凛々しくて、はっとする。綾姫は姿勢を正すふりをして距離をとらねばならなかった。
「ありがとう」
月光に照らされた彼の笑顔は、なんと奥ゆかしく、とても優しいのだろう。綾姫は何故か、涙がこぼれそうになっていた。
それはいったい何故だろう。
「ねえ・・・やっぱり今でも、平家の名は重い?」
「俺は平家しか知らなかったから。けどこれから、外の世界を知っていけば少しは軽くなるのかも知れない。たぶんそれは綾姫も同じだと思う。剣は、綾姫に託してもいい」
綾姫はついに涙を零した。
どこが朴念仁なのだ。彼は敏感だ。大らかで、寂しげで、凛々しくて、ちゃんと人の心が分かっている。この上無く清らかな少年が、今自分の目の前にいる。それは今の綾姫にとって、とんでもない奇跡だった。
その夜、綾姫は何も言わなかった。二人はいつまでも藤と月を眺め、途中、先に勝隆が眠って綾姫にもたれてしまうのだが、彼女はそれを優しく受け止めるのだった。
「温かい」
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