第6章 ターニング・ポイント

第1話 或る男の死

 ディステニアの目標はただ「日本を戦争に勝たせること」ではない。

 「日本が戦後のイニシアチブを握る世界」を作り出すことである。


 無論日本に思い入れはあるし、日本人は彼女たちにとって良き隣人だった。

 だが、悲しいかな運命を変えるには非情に走らなければならないこともあった。

 今数万殺すか、それとも160年後に数千万人──日本人だけで──殺すかを選ばなければならなかった。

 もちろん、計画がうまく行けば、の話だったが。


 当初はより日本の損害を抑えた計画を持ってきたつもりだったが、ミッドウェイでの敗北を覆せなかった。米軍がレンジャーまで太平洋に投入してくるのは計算外だった。

 しかし、おかげで独伊にアレキサンドリアを攻略させる事ができた。トーチ作戦に必要な海軍戦力を太平洋に吸い出してしまったし、フランス領チュニジアやアルジェリアのヴィシー離脱もないだろう。

 結果、アメリカは中東に戦力を吸い上げられている。

 戦争は生物ナマモノだ。プランを適宜変更していく必要はあった。


「ベイルートで暴動?」

 ディステニアは、その話を聞かされて、最初、この戦争と何の関係があるのかと思ってしまった。流石に、常に世界地図が頭の中ですぐに広げられるわけではない。

「レバノンとシリアか……」

 第一次世界大戦後、フランスの信託委任統治領として属国化されていたシリアを含む大レバノンは、昭和16年──1941年6月のエクスポーター作戦でシャルル・アンドレ・ジョゼフ・ピエール・マリ・ド・ゴールを首班とする自由フランスの配下になり、シリアが同年9月に、レバノンが同年11月に独立を宣言し、英国がそれを承認していた。

 だが、それも地中海をイギリスが押さえていればのこと。アレキサンドリアが陥落し、目の前に枢軸軍が迫り、補給路も覚束なくなってくると、民意は独立政府から離れていく。

 それをドイツに突かれた。ドイツはベイルートに対しJu88でビラの投下を行った。

「白人指導に恭順する欺瞞に満ちた政府は正当ではない」

「アジアでは日本人が英米と戦い連戦連勝」

「ドイツは正しくレバノンの良き隣人でありたいと願う」

 パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相の指導の元、ビラの他、ラジオ放送、更にはUボートによる工作員浸透作戦まで用いたこれらの扇動により、ついにベイルートで反ド・ゴールを訴える暴動が発生したのだ。隣国シリアに飛び火するのも時間の問題だろう。

「本当に戦争は生物ね……何が起きるかわかったものじゃないわ」

 これで連合国にとっての中東はますます泥沼に嵌り始めた。



 昭和17年11月、海軍省、海軍大臣室。

「君は、……こんなところに来て大丈夫なのか?」

 嶋田海軍大臣は、訪問者の顔を見て、驚いたようにして訊ねる。

 陸軍の武官を伴いつつも、海軍省を訪れたのは、髪を黒に染めつつも、ディステニアに違いなかった。

「ずっとあの部屋にいるわけじゃないのよ、息が詰まってしまうわ」

「それはわかるが、海軍省に来ても大丈夫なのかね」

「海軍の人間にも、そろそろ顔を知ってもらう時期だと思ったから」

 困惑する嶋田に対し、ディステニアはしれっとそう言った。

「それで……私に何の用事だね」

 嶋田はふぅとため息をつきつつ、そう訊ねた。

「計画の一部修正を考えていたから、それを相談しに来たのよ」

「相談? 統合作戦本部で、陸軍越しにではなく?」

「ええ、相手の出方次第の行動になるし、海軍に主体的に動いてもらわないとならないから」

 ディステニアはそう言って、東部ニューギニア付近の海図を、執務机の上に広げる。

「ポートモレスビーとニューブリテン島ラバウル、この2箇所の奪還は米軍の戦果として喧伝されているわ」

 その双方を指しながら、ディステニアは説明を始める。

「うむ」

「けれど現状、ウエワク発の航空作戦によって戦略拠点としての価値を抑え込まれてしまってるわね」

「たしかにその通りだが、それがいつまで続くのかという問題もある」

「本格的に出てくるのは来年に入ってからになると思ったんだけど、中東でも苦戦していて、おまけにあちらの国内世論は日本憎しで固まっていることを考えれば、航空基地としての能力は早めに回復させたがってると思うのよ」

「それはそうだろうな」

「とすると、一時的にでもウエワクの航空基地能力を奪うことを考えるのは当然の帰結よね」

「常道から行けばそうだろう」

 嶋田はそう言ってから、

「空母が出てくる可能性があるということか」

 と、気がついたように言った。

「それはゼロじゃない、けどまずないと思うわ」

「その理由は?」

 ほぼ断言するディステニアに対し、嶋田が聞き返す。

「今やエンタープライズはアメリカ最後の空母なのよ。それを南太平洋方面で喪失するリスクは犯さないと思うし、どのみち空母1隻の打撃力ではウエワクの航空戦力を無力化するなんてできないわ」

「確かに、とすると?」

「うん……つまりやることは────」

 ディステニアはそれを口にした。

「最初は1回、やらせちゃおうと思ったんだけど、タイムスケジュール的に一度アレを見せつけておきたいのよねぇ」

「アレ?」

「そう。アレ」

 ディステニアはそう言うと、小悪魔っぽく微笑んだ。

「この期に及んで隠しておく必要もないでしょう?」

「なるほど……山本はあまり乗り気になりそうにないがなぁ」

「でしょうね」

 嶋田は難しい顔をするが、ディステニアは面白そうに微笑むのを止めない。

「問題はどこで待機させておくかよ。トラックでは遠すぎるし」

「相手の方は、どこで捕捉可能かね」

 ディステニアが難しい顔をしたのに対し、嶋田が訊き返す。

「珊瑚海で潜水艦に接触されればいいけど、実際にはソロモン海に入ってからでしょうね」

「ならば、ここはどうかね」

 そう言って嶋田が指さしたのは、ウエワクの西方、ホーランディアだった。

 今はウエワクの後方拠点として整備されている。

「なるほど……」

「まぁ、作戦は軍令部の管轄だが。神君を使って上奏させよう。彼ならこの作戦に同意するだろう」



 東京府下、某所。

「いい加減、自分がここに閉じ込められている理由を説明してもらいたいのだが」

 牟田口廉也少将が、苛ついていた。

 おそらく軍が買い取ったのだろう旧家に、事実上軟禁されていた。外と連絡を取ることは許されたが、みだりにこの場を離れてはいけないと言う。外出は許可制、しかも、憲兵隊の監視までついた。

 憲兵を唆したり脅したりして出ることも試みたが、東條の厳命だと言って譲らない。

 そんな生活が半年近くも続けば、誰だって荒れてくる。

「荒れてますな、少将閣下」

 そんな牟田口の元に、辻政信が姿を表した。

「辻君か。腐っても自分は大日本帝国陸軍の将官だ、それがなぜこんな扱いを受けねばならない。しかももう5ヶ月が過ぎようとしているぞ。これではまるで、座敷牢に入れられた浪人のようではないか」

「まるで、ではありません」

 辻はしれっと答えた

「座敷牢そのものですが」

「なお悪い!」

「しかし居心地は悪くなかったと思いますが? お気に入りの芸者や娼婦はいつでも呼び放題、この火急の折に食事も1食も欠かすことなく配膳され、それも米の飯」

「自分はヒモではないわ! 卑しくも軍人である。軍人らしく戦場にあるべきなのだ」

 牟田口は力強く言う。

「では、軍人らしく、御国のためにその生命を差し出す覚悟があると」

「当然である」

「陛下に対して忠誠を誓えますか?」

「もちろんだとも」

「では、大本営統合作戦本部付陸軍部先任参謀として、閣下に実行していただきたいことがあります」

 辻は、メガネを直しながらそう言った。

「なんでも言い給え」

 ふんぞり返るような態度で言う牟田口に対し、

「死んでください」

 と、辻はサラリとそう言った。

「貴様! そ、それはどういう意味か!?」

 牟田口は、流石に仰天しつつ、辻に訊き返す。

「どういう意味も何も、そのままの意味ですよ」

 辻は、怜悧な視線を向けてそう言った。

「そ、そうか、死んだ気になって作戦を遂行しろと、御国のためにご奉公せよとの意味だな? そうなんだろう?」

 牟田口は、至極真面目な表情で言う辻に対し、そう訊き返す。

「いえ、文字通り死んでいただきたいのです。できればこの家の庭で割腹などしていただければ。介錯が必要でしたら自分がいたします」

 辻は、セールスマンが商品を勧めるかのような物言いで、そう言った。

「貴様、ふざけとるのか! いい加減にせんと怒るぞ!」

 牟田口は、顔を紅潮させ、辻の胸倉に掴みかかる。

「だいたい貴様も貴様だ、東條閣下が変節してしまわれたかと思ったら、貴様はその東條閣下に従っておる。あれだけ野心をむき出しにしていた貴様が……」

 唸るような声を出す牟田口だが、辻の表情は落ち着き払っていた。

「心外ですなぁ、私は御国のために最善を尽くしているまでですよ。無論、東條閣下も同様です」

「蒋介石軍をみすみす見逃して何がお国の為かぁっ!」

 冷静そのものの様子で言う辻に対し、牟田口はますます激昂する。

「米英と対峙するにあたって、蒋介石軍の相手などしていられなくなっただけのことですよ。それにそもそも、誰が原因で支那大陸の奥地まで皇軍が攻め入る結果になったのでしたかな?」

 辻は言いながら、牟田口の手をゆっくりと解く。

「無論蒋介石の相手などしません。ですが支那の民衆との間では何らかのけじめが必要なのですよ、おわかりいただけますか?」

「貴様、ま、まさかそのために……」

 牟田口の顔色が変わる。

「はい。自ら進んで、この戦禍を起こした責任を陛下に詫びて自決していただきたい」

「辻、貴様ぁ!」

 牟田口は、激昂した様子で辻を殴り飛ばした。突然の鉄拳に、辻はよろめいて後ろに下がる。

「貴様も東條ももはや売国奴だ! 儂がたたっ斬ってやる」

「これまた心外なことを仰られますね」

「東條がなぜ変節したのか、貴様知っているのか! 年端も行かぬ少女に誑かされ、陸軍のみならず海軍までもいいように操っているとの噂だぞ!」

「おや」

 牟田口の言葉に、辻は冷静さを失わない様子のままながら、眉をひくん、と動かした。

「そんな話が、どこから流れてきたのですかな?」

「第一八師団の人づてに調べてもらったまでよ。権謀術数は貴様の専売特許ではないぞ」

「これはまいりました。一八師団……いや、下手をすると第一五軍全部を洗わなければならくなりましたかな?」

 そう言いながら、辻はホルスターから一四年式拳銃を抜いた。

「な、何だ貴様……まさか……」

「しかし今のうちで助かりましたよ。閣下のおかげで何人殺すことになるのかわからなくなるところでしたからね」

 辻はそう言って、機械的に銃口を牟田口に向ける。

「や、やめろ貴様、自分が何をやっているのか解っているのか」

「はい」

 パンッ

 辻は、返事をした直後に、引き金を引いた。

 乾いた銃声が響く。

 パンッ、パンッ……

 はじめに腹部を、ついで胸部に2発、合わせて3発の弾丸を送り込む。致命的だが、即死には至らない部分をわざと、狙って撃った。

「さっぱりと自決する覚悟もなければ、最初から素直に命乞いする気もない……この男にはこの程度の死に様がお似合いか。おい憲兵!」

 まだ、拳銃を構えたまま、監視の憲兵隊を呼びつける。

「は、はい!」

「監視をかいくぐって脱走したところを暴漢に襲われ死亡、こんなところでいいだろう。別に諸君らの責任は問わない。そう言う話になっている。そのかわり適当な“犯行現場”を用意してくれ」

「りょ、了解であります!」

 憲兵は、拳銃を持ったまま理知的に話す辻に慄きながら、その言葉を敬礼で受け入れてしまった。

 辻は憲兵に返礼すると、ここまで乗ってきた乗用車に乗り込んだ。



「噂の出処は牟田口だったか」

 報告を受けた東條は、そう言った。

「しかし東條閣下、本当にあの娘の発言を真に受けているので?」

 自ら報告に来た辻が、更に問いただす。

「辻君もあのフィルムを見たのだろう」

「ええ、まぁ。しかし作り物という可能性も……」

「あのような生々しい、それでいて荒唐無稽な虚構を作り出す意味は何かね」

「まぁ……もっともらしさを出すのであれば、もっと冴えた方法はありますがね」

 辻も今の立場がある以上、強く反発はできないでいた。

「辻君、正直に言うが……私はあの娘を、神仏の類だと思って縋っている面があるのだよ」

「確かに、人間離れはしておりますが……それはどういう?」

 辻が言い返しかけて、東條の顔を見て、少し言葉が詰まりかけた。

「どの面から見ても帝国必敗のこの戦争……勝てる、と言い切ったからな」

「……なるほど」

 辻は、東條の弱気を意外に思いつつも、無理もないとため息をついた。

「確かにあの娘の言う通り連戦連勝、ミッドウェイでは負けたとは言え、その犠牲で独伊軍に優勢を与えました。閣下が縋る思いになられるのも無理はない」

 辻はそこまで言ってから、一息ついて、続ける。

「しかし、解らないこともある。今アメリカは弱っているのに、なぜこちらから兵を退くような真似をしなければならないのか……最初はこだわっていた中部太平洋方面での作戦に、今乗り出さないのか……それが気になるんです」

「それは、私には理解できる。いや、何を懸念しての行動か理解できるというだけで、どういう答えに至るのかはわからないのだが……」

 東條は言う。

「それはおそらく、この戦争の、終わらせ方だ」

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